2024年大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部と藤原道長。貧しい学者の娘はなぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか。古記録をもとに平安時代の実像に迫ってきた倉本一宏氏が、2人のリアルな生涯をたどる! *倉本氏による連載は、毎月1、2回程度公開の予定です。

伊周への関心が薄かった理由

大河ドラマ「光る君へ」39話では、寛弘七年(一〇一〇)正月二十八日の伊周(これちか)の死が描かれた。『日本紀略』『権記』『小記目録』には記事があるものの、『御堂関白記』には、これに関する記事は見られない。二月二十日に迫った二女の姸子(けんし)と東宮居貞(とうぐうおきさだ)親王(後の三条天皇)との婚儀を目前に、過去の政敵のことなど構っていられなかったのであろう。

『権記』にも、「前大宰帥(さきのだざいのそち)正二位藤原朝臣伊周が薨去(こうきょ)した<三十七歳。>」という記事しか記されていない(『小右記』の写本はこの年は残っていない)。総じて伊周への関心は薄いのである。

居貞親王の妃となった妍子

二月二十日、道長は姸子を居貞親王の妃とした。兼家や道隆にならい、円融(えんゆう)・冷泉(れいぜい)の両皇統に自己の外孫を擁することを期したものである。また、この年には、道長が居貞の許を頻繁に訪れるようになっている。一条退位後の後院(ごいん、譲位後の御所)となる一条院の造作に積極的であったこととあわせ、道長の政治日程には、すでに一条の譲位と居貞の即位、そして何より敦成(あつひら)の立太子が組み込まれていたのであろう。

寛弘八年(一〇一一)は一条天皇にとっては最後の年となった。彰子から皇子を儲けるまでは退位もできず、敦成親王が生まれてからも、敦康(あつやす)親王か敦成親王か、自己の後継者選定を行なえないまま、二十五年にも及ぶ治世を続けてきた一条であったが、ついにこの年で終焉を迎えることになったのである(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。

為時の越後守任官と惟規

正月の除目(じもく)で為時は越後守に任じられ、任地に下向した。六十歳を越えた老齢での北国への赴任は、随分と堪(こた)えたであろう。今回は紫式部が同行するわけにもいかず、やむなくちょうど従五位下に叙爵されて六位蔵人式部丞(ろくいのくろうどしきぶのじょう)を解かれた惟規(のぶのり)が妻とともに同行した(『藤原惟規集』)。

なお、惟規は途中で病を発し、任地に着くや死去したという説話もある(『今昔物語集』『十訓抄〈じっきんしょう〉』)。『紫式部集』に収められている「遠い所へ行った人が亡くなってしまった」のを悼んだ歌を、『大日本史料』では、惟規のこととしている。

占文を見た道長の失態

40話では、一条天皇の退位と三条天皇の踐祚(せんそ)、そして一条の崩御が描かれる。一条は五月二十二日、彰子御在所に渡御したが、ちょうどその日、病に倒れた。道長はこれを幸いに、早くも二十五日に大江匡衡(まさひら)に譲位に関わる占いを行なわせた(『御堂関白記』)。

ところが、道長は大変な失態を犯してしまった。譲位どころか崩御の卦(け)が出たという占文を見た道長は一条の崩御を覚悟し、清涼殿二間(ふたま)において泣涕してしまったのである。隣の清涼殿夜御殿(よるのおとど)にいた一条は、御几帳(みきちょう)の帷(とばり)の継ぎ目からこれを見てしまい、自分の病状や道長による譲位の策動を知って、いよいよ病を重くしてしまった(『権記』)。

道長は五月二十六日に、一条には知らせないまま、譲位を発議した。翌二十七日の朝、譲位のことがようやく一条に達せられた。一条は居貞に即位を要請するための対面を仲介するよう道長に命じている(『御堂関白記』)。そしてこの後、一条は側近の行成を召し、敦康の立太子について最後の諮問を行なったのである。

第一皇子・敦康という存在

一条は、おそらくは第一皇子の敦康をまず立太子させ、冷泉系の三条皇子敦明(あつあきら)を挟んで敦成や敦良の立太子を望んでいたはずである。いまだ若年で、敦康を後見していた彰子(二十四歳)や頼通(二十歳)は、間に敦康を挟んだとしても、敦成の即位を待つ余裕があった。しかし、すでに四十六歳に達していた道長としては、この時点で敦成を立太子させられないとなると、居貞−敦康−敦明の次までは、とても待てなかったであろう。

ただし、敦成の立太子には、かなりの困難が予想された。言うまでもなく、定子所生の敦康の存在があったからである。平安時代までに皇后もしくは中宮が産んだ第一皇子で立太子できなかったのは、一条皇子の敦康と白河(しらかわ)皇子の敦文(あつふみ)の二人だけであるが、敦文は四歳で早世したものであって、これを除くと、古代を通じて例外は敦康のみとなり、敦康以前には、ただの一例も存在しなかったことになる。

一条は、行成が敦康の立太子を支持してくれることを期待していたであろうが、行成は一条に同情しながらも、敦成立太子を進言した。行成の並べた理屈というのは、第一に、皇統を嗣ぐのは、皇子が正嫡であるか否かや天皇の寵愛に基づくのではなく、外戚が朝廷の重臣かどうかによるのであり、今、道長が「重臣外戚」であるので、外孫の敦成を皇太子とすべきである。

第二に、皇位というものは神の思し召しによるものであって、人間の力の及ぶところではない。第三に、定子の外戚である高階(たかしな)氏は、「斎宮(さいぐう)の事」の後胤(こういん)であるから、その血を引く敦康が天皇となれば神の怖れがあり、伊勢大神宮に祈り謝らなければならない。第四に、帝に敦康を憐れむ気持ちがあるのならば、年官年爵や年給を賜い、家令でも置けばよろしかろうというものであった(『権記』)。

これらのうち、「斎宮の事」というのは、在原業平(ありわらのなりひら)が伊勢斎宮の恬子(てんし)内親王に密通し、生まれた師尚(もろひさ)が高階氏の養子となったことを指すのであるが、もちろん事実かどうかは不明である。なお、伏見宮本『権記』の原本を調査したところ、「斎宮の事」に関する部分だけが、すべて行間補書であり、この部分が後世に追記された可能性もある。

行成が一条の御前に参る前には、台盤所のあたりで女官たちの悲泣の声がした。驚いて問うと、「御病悩は特に重いわけではありませんのに、急に時代の変が有ることになってしまいました」ということであった。また、敦康立太子について行成に諮問していた際にも、一条が「仰せの際には、忍び難い(我慢できない)事が有った」という記述もある(『権記』)。

彰子と道長の対立

さらには、「『后宮(彰子)は、丞相を怨み奉られた』と云うことだ」とあるように、直接的な怒りを表わしたのが、他ならぬ彰子であった。敦康に同情し、一条の意を汲んでいた彰子は、その意思が道長に無視されたことを怨んだのである。

しかも、道長は一条との交渉を彰子には秘し、彰子の上直廬(うえのじきろ)を素通りしたと記されている。行成は、「この間の事は甚だ多かったけれども、子細を記すことができないだけである」と、この日の記事を締めくくっている(『権記』)。

紫式部も道長と彰子の板挟みになったかというと、主人の彰子に従っていたものと思われる。すでに『紫式部日記』は完成し、『源氏物語』も完結のめどが立っていたであろうから、あえて道長一辺倒の立場を続ける必要もなかったのであろう。

三条天皇の踐祚

一条は六月二日に東宮居貞と対面し、即位について要請した。敦康の処遇についても提案しようとしたが、居貞が早く退出してしまったので、それができなかった。一条の意を承けた道長が居貞の許に赴くと、居貞は、一条の仰せがなくとも敦康に奉仕するつもりであったと答えている(『御堂関白記』)。気の毒な敦康の処遇については、居貞もすでに考えていたのである。

そして六月十三日、「旧主(一条上皇)の御悩は、危急であった」という状況のなか、譲国(じょうこく)の儀が行なわれ、居貞は皇位を継承して三条天皇となった。そして東宮には彰子所生の敦成が立った。この後、道長はこの外孫の即位を心待ちにしながら、姸子からの三条皇子の誕生をも期すことになる。

姸子が三条の皇子を産めば、敦明以下の娍子(せいし)所生皇子を排して、敦成の後にその皇子を立太子させ、両統迭立(てつりつ)を継続させることになるし、姸子から皇子誕生がなければ、冷泉皇統を終わらせたうえで一条皇統を確立し、敦成の後に敦良を立てるという、両睨(にら)みの皇位継承構想を持っていたものと思われる(この時点で、敦康の存在は、すでに考慮に入れていなかったであろう)。

「私は生きているのか」

六月十四日、一条は道長に出家の意志を示した(『御堂関白記』)。十五日も御悩は重かった。『御堂関白記』には、「御病悩は重かった。時に太波事(たわごと)を仰せられた」とある。「太波事(うわ言)」とは、あるいは道長が日記に記すことのできない内容、たとえば敦康に関することだったのであろうか。

六月十九日に、一条は出家を遂げた。急な出家だったので法服が間に合わず、あり合わせのものを着るしかなかった(『御堂関白記』)。また、一条の髪を剃った高僧たちが事情に疎く、まず髪を剃り、次いで鬚(ひげ)を剃ってしまったため、髪だけ剃って鬚が遺っていた時の人相が、外道(げどう、人に災厄をもたらす悪魔)に似ていたという(『権記』)。

そして六月二十一日、ついに「御病悩は頼りが無かった」という状況に陥った。召しによって近く伺候した行成が飲み水を供すると、一条は「最も嬉しい」と答えた。一条は行成をさらに側近く召し寄せ、「私は生きているのか」と語っている(『権記』)。これが一条の最後の言葉となった。

辞世を詠んだ相手は彰子か定子か

その後、一条は身を起こし、彰子も側に伺候するなか、辞世の御製を詠み、再び臥すと人事不省となった。聞く人は皆、「流泣することは雨のようであった」、「涙を流さない者はなかった」という状態となった。この時の御製は、『権記』に記された、

露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき

(露のようにはかないこの身が、風の宿であるこの世に、あなた<彰子>を残し置いて、塵の世を出てしまうのは悲しいことよ)

が元の形に近いのであろう。ドラマでも再現されるが、行成はこの歌を、「その御志は、皇后に寄せたものである。ただし、はっきりとその意味を知ることは難しい」と、定子に対して詠んだものと解している(『権記』)。

歌意からは、「君」はまだ生きていて、しかもこの歌を聞いている彰子のこととしか考えられない。しかし、行成は日記の中で「中宮」彰子と「皇后」定子を使い分けており、一条が辞世を詠んだ対手を定子と認識しているのである。かつて彰子を中宮とした、つまり定子を皇后とした際に決定的な役割を果たした行成であればこそ、その思いは複雑だったのであろう。

翌六月二十二日、一条は清涼殿において、「時々また、念仏を唱えられた」という状態で、死の時を迎えた。辰剋(午前七時から九時)に臨終の気配があり、しばらくすると蘇生したものの、数時間後の午剋(午前十一時から午後一時)、ついに崩御したのである(『権記』)。三十二歳であった。

行成は、「心中、秘かに阿弥陀仏が極楽に廻向(えこう)し奉ることを念じ奉った」という気持ちで床下近く伺候していたが(『権記』)、『御堂関白記』は、「巳剋に一条院は崩じなされた」と、素っ気ない記述しかしていない(ドラマでも再現されるが、「崩」を「萌」と書き誤ってもいる)。

しかも、道長は、側近くに伺候したいと希望する者が多かったにもかかわらず、「朝廷の行事が有る」ということで、多くを殿から降ろし、臨終に伺候させなかったのである(『御堂関白記』)。

死亡時剋を巳剋(午前九時から十一時)と記しているのも、道長自身も最初の臨終の際以降は一条から離れていたためであろう。官人たちが死穢に触れるのを避けるためであろうが、新時代に立ち向かおうとする道長の面目躍如といったところである。

忘れられた一条天皇の遺志

一条の葬送は七月八日に行なわれ、北山の巌陰(いわかげ)で荼毘(だび)に付された。公卿たちは無地の喪服を縫ってこれを着し、葬送に奉仕したが、道長・斉信(ただのぶ)・隆家(たかいえ)は素服を着さなかった。その理由は、朝廷の政務や儀式があるというものであった(『権記』)。

七月九日に火葬が終わると、一条の遺骨は、東山の円成寺(えんじょうじ)に仮安置された(『権記』)。その頃、道長は葬送についての一条の生前の意向を思い出したが、それは、「(定子と同じく)土葬して、(北山の)円融院法皇御陵の側に置いて欲しい」というものであった。「故院(こいん、一条院)が御存生の時におっしゃられたところである。何日か、まったく覚えていなかった。ただ今、思い出したのである。ところが、きっと益の無い事で、すでに決まってしまったのである」というのが、道長が行成に語った言葉である(『権記』)。

火葬にしてしまったものはもう仕方がないということなのであろうが、道長の一条に対する関わり方、そしてその死生観を最後に象徴したものである。

彰子・紫式部の哀傷歌

『栄花物語』には、法事の際に彰子が詠った歌として、つぎの二首が載せられている。

見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心も知らぬ 撫子(なでしこ)の花

(亡き院に先立たれたこの自分の悲しい心も知らない無心の若宮を見るにつけても、涙がこぼれる)

影だにも とまらざりける 雲の上を 玉の台(うてな)と 誰かいひけん

亡き院の面影さえもそこにはとどまらなくなった宮中を、玉の台などといったい誰が言ったのだろうか)

『栄花物語』には、彰子の歌に続けて、一条の忌みが明けた際の歌として、「藤式部(とうしきぶ、紫式部)」の歌も載せられている(『続古今和歌集』にも採られている)。

ありし世は 夢に見なして 涙さへ とまらぬ宿ぞ 悲しかりける

(院のご在世の時代は、今となっては夢であったと思うにつけても、涙もとまらぬばかりか、御殿もお移りになり名残さえとどめることのできないのが悲しいことです)

こうして二十五年にも及んだ一条の時代は終わりを告げた。十月十六日には、彰子も枇杷殿(びわどの)に遷御している。そして紫式部にも新たな役割が生まれてきたのである。

彰子の冊子本『源氏物語』は本当に完成したのか? 時代考証が解説!