資本主義社会では「人は『こっくりさん』をやっているようなもの」という考え方の正体

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「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」はなぜエッセンシャル・ワークよりも給料がいいのか? その背景にはわたしたちの労働観が関係していた?ロングセラー『ブルシット・ジョブの謎』が明らかにする世界的現象の謎とは?

「価値」と「諸価値」

グレーバーは、valueとvalues、つまり価値と諸価値という二つの観念の対立を検討しながら、議論をすすめています。アメリカ合衆国でよく使われる対立です。

たとえば、family values(家族観、家族の諸価値)は、フェミニストとかLGBTのように家族を破壊しようとするやからを撃退し、伝統的家族の価値(伝統的家族観、traditional family values)を守ろう、といった具合に、おもに保守派や右派によって使用されます。

それに対して単数の価値valueはおおよそ市場価値に対応します。複数の価値は社会的価値です。複数形の価値は、先ほどから付記しているように「価値観」と訳されたりしますし、それでとりあえず妥当だったりもします。

というのも、市場価値は一応、市場の価格メカニズムによって「客観的に」決定されるものであり、当該社会が模範とする家族をなによりも大切におもうのは主観に属するものだからです。

しかし、せんじつめれば価値とは意識における現象です。とくに、人類学的価値論においては、市場価値と社会的価値の分裂を相対化して、それらが少なくともこれほどするどく対立しない、より普遍的な価値の平面を問題にしようとするものですから、わたしたちは基本的に「価値」と「諸価値」と訳しています。

ここでいう価値は生産領域における価値、諸価値は再生産領域における価値というふうにおおまかに該当するでしょう。これもまた、おおまかにいえば、かたやモノをつくり、かたや人間をつくります。

グレーバーはマルクスやフェミニズムのインパクトを受けとめつつ、人類学を通して価値論をあらたに練りあげました。

そもそも未開社会では、これらの二つの領域が資本主義社会のようにするどく区別されません。モノの生産だけが生産であり、人間の生産は生産を支える活動であるとはみなさないのです。たとえば、未開社会では人間の形成に寄与した活動に貨幣が付与されることもあります。つまり、未開社会では、あるいは非資本主義社会では、人間の生産が重視されることもあるのです。これを、人間が手段ではなく目的そのものになるといった表現をします。

マルクスは、そのキャリアの初期から『資本論』を執筆する後期にいたる中間のあたりで、エンゲルスとともに『ドイツ・イデオロギー』というテキストを書いています(生前は公刊されなかった草稿です)。そこでマルクスは、生産のうちに物質財の生産のみならず、「人間存在自身」の生産、そして社会的諸関係の生産もふくめています。

もう少しあとのテキストですが、『経済学批判要綱』という『資本論』のために書かれた膨大なノートのなかの有名な「資本主義的生産に先行する諸形態」では、古代ギリシアが例にあげられ、たとえ「経済」が問題になっていても、つねにそこでは富が生産の目的ではなく、人間の生産、すなわち、人間の陶冶が目的となっていると強調されています。

「古代人のもとでは、どのような形態の土地所有等々が最も生産的であり、最大の富をつくりだすか、というような追求が見いだされることはけっしてない。富は生産の目的としては現われないのである(中略)追求されたのは、つねに、どのような様式の所有が最良の国家市民をつくりだすか、ということである」。そして、お金のために人間が道具のようになっている近代より、古代ギリシアのほうが高尚なのではないか、と問います。「そこで、いかに偏狭な民族的、宗教的、政治的規定を受けていようとも、人間がつねに生産の目的として現われている古代の考え方は、生産が人間の目的として現われ、富が生産の目的として現われている近代世界に対比すれば、はるかに高尚なものであるように思われるのである」

むずかしいことをいってそうですが、古代ギリシアでは、生産は富の獲得やその増大、蓄積を目的にするのではなく、あくまで人間の形成を目的とするのであって、富はその手段にすぎなかった、ということがいわれています。

「人材」という言葉がありますよね。これは人間を利益獲得のための「材料」のように捉えるといったニュアンスがあります。だからそれに「人財」という言い方が対置されることもあります。これはあまりなんというか、深みのある対立とはいえませんが、それでも人間をお金という目的のための手段とするのか、それともお金を人間という目的のための手段とするのか、といった考えのちがいが影響しています。

ただし、ことはもう少しややこしくて、いくら露骨に人間が利潤のための使い捨てになっている苛烈な資本主義社会とはいえ、建前は、人間のためだ、という口実を掲げられているのですよね。その場合、必要な犠牲と意味づけられます。「雇用創出イデオロギー」も、こうした発想をまぬかれません。というのも、それは人間が道具となるのは人間が目的だからだ、といっているようなものだからです。

さて、マルクスのヴィジョンがもっとも凝縮されているのが、「ゴータ綱領批判」という晩年のテキストであり、そこで提示された「各人は能力に応じて、各人には必要に応じて」という定式です。

コミュニズム社会のより高度の段階で、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神労働と肉体労働との対立もなくなったのち、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求になったのち、個人の全面的な発展にともなって、またその生産諸力も増大し、協同的富のあらゆる泉がいっそう豊かに湧きでるようになったのち──そのときはじめてブルジョア的権利の狭い限界を完全に踏みこえることができ、社会はその旗の上にこう書くことができる。各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!

マルクスは、資本主義社会のもとでは、人は「こっくりさん」をやっているようなものだと考えていました。つまり、わたしたちは、なにをどう製造しているのか、どこでどう売られているのか、どこまで利潤が生まれているのか、どのようにじぶんに分配されているのか、みずからの生産物が社会的にどのような意味をもっているのか、なぜこの商品はこの価格なのか、ほとんどなにも知らないまま、みずからの労働力を商品化し、貨幣というかたちでの報酬に動かされて生きています(余剰の取得が「経済内強制」によっておこなわれているからです)。

ところが、この引用部分の前段階に位置する「低次のコミュニズム」においては、すでにわたしたちはそういう段階を脱しています。たとえば、4時間分働いたからその分の労働証書をもらって、それを使って、別の4時間分の労働量の投入されたモノと交換するとか、そういうかたちで搾取がなくなった社会です。

このような社会は、わたしたちが協働することで動いているし、わたしたちがそれにどのようにどの程度貢献しているのかはみえるようになっています。でも、それはまだ価値法則に支配されている、つまり、わたしたちの具体的な活動が抽象化され一般化される仕組みのもとにおかれているのです。要するに、じぶんが対価としてうるものは、じぶんが労働として与えた分量に等しいとされるのです。これはせんじつめると、貨幣によって抽象化された市場的交換の論理に支配されているわけです。

それに対して、この「ブルジョア的権利の狭い限界を完全に踏みこえる」ことができたとき、「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」という、本来の(高次の)コミュニズムの論理によってはじめて社会は支配されるのです。そこでは人はみずからの能力に応じて、ということは、人はみずからの裁量によって、つまり能力のおもむくままに働くのですが、その対価は、その働きとは無関係となる。ここでは等価の原理そのものが作動していません。これがコミュニズム、というより、コミュニズムの社会のなかで可能になる原理なのです。

なにかとんでもないことをいっているようにみえるかもしれません。しかし、たとえば限界だらけだとしても、現代の健康保険の考えにはこのような発想が影響していることはあきらかです。

そこでは、労働するだけの能力のある者が働いて、病気で働けない者は必要なものを受け取るといった考えがあることがわかるでしょう。あるいは、労働組合がどのように機能しているかを考えてみてもよいでしょう。ある職場で、その職務に適合する尺度によって「有能」な人とそうでない「無能」な人の区別はかならず生まれます。そのような「能力」の差異、すなわち労働者間の「生産への寄与」によってヒエラルキーが設定されることを阻止することに労働組合の重大な機能があります。アナキストのクロポトキンの言葉を用いれば、いわば「相互扶助」的次元です。

それでも、ここに問題があるとしたらなんでしょうか。

まず、このマルクスのコミュニズムが「未来像」であることです。生産諸関係の桎梏から解放された生産力の増大が稀少性の論理を克服してはじめて拓かれる、ゆたかな社会を前提としていること、そして、その条件のもとではじめて「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」という論理が作動するといった展望であることです。

すなわち、それが、「革命」のような出来事を通して、そしてその解釈はさまざまでしょうが「プロレタリア独裁」のような過程をへて、たとえば生産手段の共同所有がより深化する社会において、はじめてはたらく論理ということです。

これは、ケインズの100年後のヴィジョンととても似ています。ケインズもわたしたちのこの時代には「経済問題」が解決されている、だから労働から解放されているというふうに考えていましたよね。

ここでいう「経済問題」とは稀少性のことであり、それが解決されているということは、この稀少性の問題が克服されているということです。ただし、それは未来のことです。そのまえに必要な過程がある。つまり、望ましい社会の実現のためには必要な過程がある。

マルクス派の場合、その発想を突いて20世紀のスターリニズム体制という、おそるべき倒錯が生まれました。ケインズの場合も、前BSJ型「雇用目的仕事」の増殖と官僚制国家をもたらしました。この落とし穴をネオリベラリズムはつつきながら、大躍進を遂げるわけです。

つづく「なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病」では、自分が意味のない仕事をやっていることに気づき、苦しんでいるが、社会ではムダで無意味な仕事が増殖している実態について深く分析する。

なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病