仕事は「無意味で苦痛であればあるほど価値がある」…多くの人がいつの間にか陥っている「発想」

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「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」はなぜエッセンシャル・ワークよりも給料がいいのか? その背景にはわたしたちの労働観が関係していた?ロングセラー『ブルシット・ジョブの謎』が明らかにする世界的現象の謎とは?

「逆説」をもたらした歴史的背景

資本主義の形成にともなって、このライフサイクル奉公は、賃労働として人生全体を支配するようになります。封建制のこの価値観からすれば、わたしたちは永遠に一人前になれない存在でもあるわけですね。

またこのことから、日本でも初期の工場労働者の目標が、たいていじぶんで工場をもって独立することだったことの意味もわかります。日本でも賃労働者にとどまることは、一生、半人前であることを意味していたのです。

では、このことがどのように「エッセンシャル・ワークの逆説」とむすびついているのでしょうか?

(1)労働はモノを無から創造する生産であるという発想は、ケアの系列にかかわる活動を生産にかかわる活動としては不可視化し、それによって価値の切り下げをもたらします。とりわけ、資本主義が生まれ、工業化がすすんでいくとともに、モノづくりという意味での生産がきわだってくると、ますますそれが主役になり、ケアにかかわる仕事は、その主役をひきたてる影の役割にますます甘んじるようになります。

(2)労働はそのものが人間を形成する価値であり、モラルであるといった観念が、プロテスタンティズムをへて強化され、根づいていきます。

(3)しかも、そこには労働は苦痛であるという神学的観念も付随します。となると、労働とは苦痛である、であるがゆえに、人間を形成するモラルたりうるのであるといった発想になります。

このような労働の観念がどのようにBSJとしてあらわれているか、大学で助成金の審査をやっていた(ブルシットだったらしいです)クレメントという人の証言がでてきます。

同僚たちもみんな、あんまりすることがないので、適当に早々に帰宅しています。それでも、みんなどれほどじぶんたちが忙しいかを口にするのです。揺るぎない事実を公然と否認するこの態度、とクレメントはいっています。

やりたくもないどうでもいい仕事でもそれを熱心にやっているのだとアピールしあう暗黙のプレッシャーがかかっていて、それが空気のように漂っていたというのです。賃労働を通して身も心も破壊しなければ、正しく生きていないという、それが社会関係の基本原理だった、と。

これだと身に沁みてこないでしょうか?賃労働をやっているだけではありません。賃労働による苦痛をえてこそ、すなわち身も心も破壊してこそ一人前である、賃労働していても楽そうにこなしていては人間としてどうか、というプレッシャーがあるわけです。

大阪では破壊的なネオリベラル政党が行政を掌握して長いですが、初期のとくにその政治勢力が攻撃的であったころには、社会の雰囲気もいま以上に険悪なものとなりました。そのときはたとえば、役所の職員が外でタバコを吸っていると、市民から怠けていると通報されるなどというようなエピソードもよく耳にしました。

こういうことは、ネオリベラリズムの進展とともに、とくに公務員に対しては起こりがちですよね。働いていないと、しかも死ぬほど働いていないと人間的に正しくないというこういう倒錯した発想は、「過労死」という外国語に翻訳できないような特異な現象を生みだす日本ではもちろん強力です。しかし、日本だけの現象ではないのです。

ここまでくると、「エッセンシャル・ワークの逆説」をもたらす歴史的背景はあきらかです。

(1)仕事はそれだけで価値がある。無意味で苦痛であればあるほど価値がある。人間を一人前の人間にするものであり、それはモラルなのだ。

(2)なんらかの無からの創造にかかわるものこそが労働であり、ケアにかかわる仕事は本来、それ自体が報いであり(やりがいという報いがえられる)、それを支えるものであって本来無償のものである。

このような発想が、「その労働が他者の助けとなり他者に便益を提供するものであればあるほど、そしてつくりだされる社会的価値が高ければ高いほど、おそらくそれに与えられる報酬はより少なくなる」といった倒錯が倒錯とみなされずスルーされ、それどころかそうあるべきであると人に観念させるのです。

つづく「なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病」では、自分が意味のない仕事をやっていることに気づき、苦しんでいるが、社会ではムダで無意味な仕事が増殖している実態について深く分析する。

なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病