今回は、大河ドラマ『光る君へ』において、まひろ(紫式部)の弟・高杉真宙が演じる藤原惟規を取り上げたい。

文=鷹橋 忍 

宇治川のほとりにある紫式部像 写真=kamogawa/イメージマート


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紫式部の弟、それとも兄?

 藤原惟規は、岸谷五朗が演じる藤原為時の長男である。

 母は藤原為信の娘(ドラマでは、国仲涼子が演じた「ちやは」)で、紫式部の同母弟とされる。

 だが、惟規も紫式部も生年は不詳であり、惟規を紫式部の同母兄とみる説もある(ここでは、ドラマと同じように、紫式部の同母弟説を採る)。

 惟規と紫式部の母は、惟規を出産して間もなく、亡くなったらしい(今井源衛『人物叢書 紫式部』)。

 

耽美的な歌人?

『紫式部日記』には、少年時代の惟規が、漢籍(中国の書物)を素読・暗唱していた時、傍らで聞き習っていた紫式部のほうが、不思議なほど習得が早かった。

 そのため、学問に熱心であった父・為時は、「この娘(紫式部)が男子でなかったことが、私の不幸だ」と、いつも嘆いていたという、有名な逸話が記されている。

 漢籍はあまり得意ではなかったかもしれないが、惟規の歌人としての力量は確かであった。

 惟規の歌は『後拾遺和歌集』など多くの歌集に収められている。

 家集『藤原惟規集』には、耽美的な歌が残っており、性格も耽美的な享楽者だったようである(今井源衛『人物叢書 紫式部』)。

 また、歌から朗らかで軽妙な人柄らしかったことが、読み取れるという(紫式部著/南波浩校注『紫式部集紫式部集 付大弐三位集・藤原惟規集』)。

 ドラマの惟規のように、楽観的で飄々とした人物だったのかもしれない。

「頗る年長」で蔵人に

 惟規は寛弘元年(1004)から少内記を務めた(上原作和『紫式部伝――平安王朝百年を見つめた生涯』)。

 少内記は正七位相当官で、位記(位階を授かる者に与えられる文書)を書くなど、宮廷の記録事務を担う(紫式部著/南波浩校注『紫式部集紫式部集 付大弐三位集・藤原惟規集』)。

 下級役人であった惟規であるが、藤原道長の日記『御堂関白記』寛弘4年(1007)正月13日条によれば、この日に行なわれた「蔵人定」により、六位蔵人に補された。

 蔵人は、天皇の秘書的役割を果たす要職だ。

 道長は『御堂関白記』の中で惟規を、「頗る年長で、蔵人に相応しい」と称しており、この時、33〜35歳くらいだったと考えられている。

 また、紫式部は寛弘2年(1005)、もしくは寛弘3年(1006)の末に、中宮彰子に出仕しており、惟規の人事は、紫式部の出仕と一体化のものであったと見られている(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。

 

惟規の失敗談

 惟規には、失敗談がいくつか残っている。

 たとえば、秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』寛弘5年(1008)12月15日条によれば、内裏の御仏名結願にあたり、奉仕した僧侶たちに普く分配する綿を、惟規は一人に渡してしまい、他の僧侶たちが奪い取りあった。

 実資は、「蔵人は、故実を失したようなものだ」と記している。

 失敗ではないが、間の悪かった話も、『紫式部日記』に見える。

 同年の大晦日の夜、内裏に盗賊が押し入った。

 紫式部は、おそらく惟規に手柄を立てるチャンスを与えようと考え(福家俊幸『紫式部 女房たちの宮廷生活』)、惟規を呼ぶように頼んでいる。

 ところが、惟規はすでに退出していた。

 紫式部は、「この上なく情けない」と綴っている。

歌を詠んで許される?

 平安後期の説話集『今昔物語集』巻第二十四 第五十七によれば、惟規は蔵人であった頃、賀茂斎院(賀茂神社に奉仕した未婚の皇女、もしくは女王)の選子内親王(大斎院)に仕える女房のもとに、夜な夜な忍んでいた。

 斎院の侍たちは不審に思い、「どなたですか」と尋ねたが、惟規は女房の局に入ったばかりだったので、答えなかった。

 すると、門が閉ざされ、惟規は外に出られなくなってしまう。

 だが、女房が選子内親王に門をあけるように頼んだお陰で、惟規は外に出ることができた。

 その時、惟規は

神垣(賀茂斎院)は木の丸殿にあらねども名乗りをせねば人咎めけり

(この斎院は、あの有名な木の丸殿ではありませんか。名乗りをしなかったので、人に咎められてしまいました)

(現代語訳 武石彰夫『今昔物語集 本朝世俗篇(上)』参照) 

 と詠んだ。

 それを耳にした選子内親王は感心し、惟規は許されたという。

 なお、女房は、小坂菜緒が演じた斎院の中将(源為理の娘)といわれている(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち――家族、主・同僚、ライバル』所収 服藤早苗「藤原惟規――紫式部のキョウダイたち」)。

最期まで飄々と

 惟規は寛弘8年(1011)正月、六位蔵人を解かれ、従五以下に叙爵された。

 一方、父・為時は、越後守に補任され、任地に赴いている。

 60歳を越えた父の身を案じたのか、惟規も妻とともに越後に下ったが、同年の秋頃、その地で病没した(今井源衛『人物叢書 紫式部』)。

『今昔物語集』巻三十一 第二十八によれば、惟規が臨終間近となった時、為時は「この世のことは諦め、極楽往生を念ずるがよい」と言い、徳の高い僧を招いた。

 僧は惟規の耳元で、「人は死ねば、次の生が定まるまでの間は、『中有』という、鳥や獣さえもいないはるかな広野を、ただ一人進みます。その心細さ、人恋しさが、いかに耐えがたいものか、想像してください」と伝えた。

 すると、惟規は、「中有の旅の途中には、嵐に散り舞う紅葉、風に靡く薄の下で鳴く鈴虫などの声は聞こえませんか」と問うた。

「何のために、そんなことをお訊きになるのですか」と、僧は問い返す。

「それを見て、心を慰めましょう」と、惟規が息絶え絶えに答えると、僧は「狂気の沙汰だ」と言って、その場を立ち去ってしまった。

 その後は、為時が見守った。

 惟規が何か書きたそうなので、筆と紙を与えると、

都にもわびしき人のあまたあれば なおこのたびはいかむとぞ思ふ

(わびしく都にいて、私を待ってくれる人も多く存在するのですから、何としてでもこの旅を生き抜き、もう一度、都に帰りたいと思います)

 と綴った。

 だが、最後の「ふ」の字を書き終える前に息絶えてしまったため、為時が書き加えたという。

 飄々とした惟規らしい最期である。

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筆者:鷹橋 忍