施設占拠、バスジャック……愛と正義を否定し、健全者社会に刃をつきつけた障害者団体があった

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障害者が外出することさえおぼつかなかった1970年代初頭、「差別反対」を訴えて公的施設を占拠したり、バスジャックを企てたりする障害者団体があった。警察は背後に健全者がいると思い込み、障害者を逮捕しなかった。何をしても罪に問われない団体の行動は、次第にエスカレートしていった。

その名は「日本脳性マヒ者協会青い芝の会(以下、青い芝)」。

青い芝のメンバーの介護者だった私は、『カニは横に歩く 自立障害者たちの半世紀』(講談社、2010年刊。第33回講談社ノンフィクション賞受賞作)を上梓し、彼らの生涯と活動を描いた。青い芝が誕生してから半世紀余り、また書籍刊行から約15年が経過し、このほど電子書籍化された。その一部を紹介する。敬称は省略した。

『カニは横に歩く』第1回

厚生省を恐怖におとしいれた団体

60年代の終わりに全共闘運動が大学や日本を変えようとして挫折した後の70年代。「日本脳性マヒ者協会青い芝の会」という障害者の運動団体が、差別反対を旗印に関西や関東で施設や行政機関、バスを占拠した。歩ける者は少数で、車イスに乗った重度障害者がほとんどだった。彼らは占拠した施設内の事務所にある書類をびりびりに引き裂き、そこに小便をひっかけた。また、何十台ものバスに乗り込んで立て籠ったり、道路に寝ころんだりして半日ほど交通をマヒさせた。

警察はそれらの行動の背後には健全者がいて障害者を操っているに違いないと思い込み、計画・実行犯である障害者を逮捕しなかった。何をしても罪に問われなかった彼らの行動は、次第にエスカレートしていった。

その激しい闘争は、関係者を恐怖におとしいれた。障害者問題の管轄官庁である厚生省では、青い芝が抗議や交渉に来るとわかると、庁舎の正面玄関のシャッターを下ろすことが検討された。各地で糾弾闘争がおこなわれるたびに福祉関係者の間で青い芝は「過激な団体」として認知され、「あの人たちとはかかわるな」とささやかれた。

健全者に合わせて生きることを拒否

闘いがやや下火になった80年代はじめ、私は介護者として地元・兵庫の青い芝のメンバーと出会った。彼らは阪神間の大学にターゲットを絞り、ビラを配ったり人や組織を介したりして介護者を募っていた。大学生だった私は、その網にひっかかったのだった。

親元を離れ、施設入所を拒否して新天地でアパートを借り、介護者を探しながら生活を続ける青い芝の障害者は、介護の面から言えば常に人手不足で不自由ではあったが、精神的には自由であった。ただし、どんな介護者とも付き合える強靭かつ柔軟な精神力と、深く考え過ぎない楽観的な性格が必要だった。

健全者に合わせて生きることを幼い頃から教えられて育った多くの障害者の中で、それに抗って事を起こす彼らは、日本社会においては異質かつ稀有な存在であった。

80年代の半ば、兵庫青い芝のメンバーの介護に行った時のことである。夕食時に近くの居酒屋に入り、二人でしたたかに飲んで家路についた。電動車イスに乗っていたその障害者は、二車線道路の真ん中を、千鳥足で走行していた。その後ろ姿に向かって私は、「道の真ん中を走ったら、車に轢かれるでー」と声をかけた。するとその障害者は振り向きもせずに答えた。

「車は電動(車イス)を避けてくれるんや。道の端っこ行く方が危ないんやー」

夜間の歩道は側溝や段差、障害物が見えにくいため、かえって危険だという。

仮にそうであっても、道の真ん中を走るのも、やはり危ない。どちらを選ぶかは本人次第だが、何の迷いもなく堂々と中央を突き進む障害者の後ろ姿を、私は痛快な気分で眺めていた。

手段を選ばず社会に牙をむき、健全者の価値観を揺さぶる

70年代のような勢いは失ったとはいえ、80年代も兵庫青い芝の活動は続けられていた。障害児が介護に疲れた親によって殺されたといっては抗議声明を出して集会を開き、行政にも責任があるとして当該市役所に押し掛けた。

「私達は全国21都道府県で30年間、脳性マヒ者の自立と解放をかかげ、障害者はあってはならない存在とする優生思想とたたかっている兵庫青い芝の会です……」

青い芝のビラや抗議文には、必ずこの文章が冒頭に掲げられた。優生思想とは、健全者より劣った存在である障害者は淘汰されるべき、という考え方である。「あってはならない存在」と自認する彼らの闘いは、優生思想をはじめ交通問題、生活保障など多岐にわたった。

私が人に誘われ、たまたま介護に行った先は、保護され愛される“か弱き障害者”ではけっしてなかった。手段を選ばず社会に牙をむき、健全者の価値観を揺さぶる本質的な意味で過激な人たちであった。

後になって気付くのだが、介護に行くことは、彼らの生活のみならず、青い芝の思想や運動に寄り添うことでもあった。大学時代から社会人に至るまで長い間介護者であった私は、途中から取材者としても彼らと付き合うことになる。

そもそも彼らはどんな生活環境で育ったのか?

なぜ、行動する障害者になったのか?

青い芝という組織や個々のメンバーは何を目指していたのか?

数々の糾弾闘争を経て、何が達成でき、どのような課題を残しているのか?

はたして障害者と健全者は共生できるのか……。

それらのテーマは、おいおいたどっていくことにして、まずは関東で興った青い芝の運動が関西に広がりを見せる70年代はじめに時計の針を戻したい。

これは日本で初めて大々的に差別に声を上げて行動した障害者――とりわけ私が出会った兵庫青い芝――の記録であり、彼らと私を含む介護者の物語である。

第2回「命がけの在宅障害者の家庭訪問」に続く

命がけの在宅障害者の家庭訪問