「できない」と「しない」は違う…介護施設の入居者を『ひとりの人間』として扱うために必要な『見極め』の力

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2015年に厚生労働省が出した統計によれば、日本人が亡くなった場所は病院、自宅の次に、「介護施設」が多くなっている。治療に特化した病院でもなく、住み慣れた自宅でもない「介護施設」で亡くなるとはどういうことなのか。

介護アドバイザーとして活躍し、介護施設で看・介護部長も務める筆者が、終末期の入居者や家族の実例を交えながら介護施設の舞台裏を語る『生活支援の場のターミナルケア 介護施設で死ぬということ』(郄口光子著)より、介護施設の実態に迫っていこう。

『生活支援の場のターミナルケア 介護施設で死ぬということ』連載第8回

『親を施設に入居させることに『罪悪感』を覚える必要なし! 円満な介護生活のコツは「サービスの使い分け」と「介護施設への理解」にある』より続く

食べることができないことと食べないこととは違う

「この人は食べることができないよ」

「どうして」

「右手が麻痺しているから」

「じゃあ、不自由な右側に私たちが座って、この人の右手の動きをフォローするつもりで右側から食事介助をしよう」

そうすると、この人は“食べること”ができます。ところが介助を続けていると、右側から食事介助しても、食べられないときがあることに気づきます。

「あれっ、今日は食べないな」

「このままじゃ、おなか空いちゃうよ」

「どうして食べないのかな」

「入れ歯が合ってないのかな」

「熱が出ているのかな」

食べることができないということと食べないこととは違う、と気づいて、心配して、考えて、工夫して行うのが介護です。

そうすると、その介護にお年寄りが応えてくれます。

「食べてくれたよ」

「笑ってくれたよ」

この良き体験が、お年寄りと職員との、固有名詞でつながる良き関係を育みます。

最初は偶然のようにして巡り合った、まったくの赤の他人のお年寄りと職員が、食事、排泄、入浴を通じて、人としての関係をもてるようになります。

お年寄りからすれば、目が見えなくても、耳が聞こえなくても、手足が動かなくても、息子の顔がわからなくても、「ここ(施設)には、私の食事、排泄、入浴がある」「私はここにいれば、生きていく方法がある」と実感できます。

どうしたら生きることを肯定できる?

生きていく方法があるとお年寄りが実感するとき、そこには職員、つまり自分以外のもうひとりの人間の存在があります。

ここには私の生きていく方法があると実感してもらうと同時に、「あなたはひとりではない」、ということを伝えるために、現場の職員は介護を繰り返します。

たとえ意識や言語の障害があっても、その人らしい食事、排泄、入浴ができるようにサポートすることを通して、このことを伝えていきます。

お年寄りが「私はひとりではない」と実感できるということは、「ここで生きていってもいいんだ」という、自分が生きることへの肯定につながっていきます。

この関わりと展開を私たちは「個別ケア」と呼んでいます。介護の現場で働く者たちは、単なる汚物処理係、人体洗浄係、栄養補給係ではありません。具体的なその人ならではの生活行為をもって、「あなたはひとりではない」ということを毎日の生活の中で伝えきる、人にしかできない仕事をしているのが介護現場の職員たちです。

『「玄関に鍵はナシ」「一切の身体拘束もナシ」…介護施設入居者が『自分らしい』生活を送れるように手が尽くされた『至上の介護施設』とは』へ続く

「玄関に鍵はナシ」「一切の身体拘束もナシ」…介護施設入居者が『自分らしい』生活を送れるように手が尽くされた『至上の介護施設』とは