なんと、こんなところに「トロリーバス」が…!《昭和、平成、令和》で渋谷がこんなに変化したワケ

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懐かしい昭和の街角写真。そこに写る風景をじっくり観察してみると、消えてしまった乗り物や風景を数多く見かけることができます。

『写真は語る 電車・バスが走る昭和の街角風景』では、日本が急成長した昭和30〜50年代の26枚の写真から、時代の変貌や、今につながる痕跡を探っていきます。今回は本書から昭和30年代の渋谷の風景を読み解いてみましょう。

映画館が4つもあった東急文化会館

メイン写真のバックに大きく見える東急文化会館は戦後渋谷の象徴ともいえるもので、昭和31(1956)年にオープンした。まだ「シネコン」という言葉がなかった時代に4つの映画館(渋谷パンテオン、渋谷東急1〜3)が入居し、映画以外の娯楽も提供していた。

写真には見えないが、屋上には「五島プラネタリウム」というドーム状のプラネタリウムがあり、その先端的なデザインは当時の人々を驚かせたことだろう。

渋谷文化の象徴だけに、映画の宣伝看板も華やかだ。「罠にかかったパパとママ」は、昭和36(1961)年にアメリカで封切られたウォルト・ディズニー・プロダクションが制作したホームコメディー映画で、写真にはそのことを示す「ディズニー」の文字が見える。

その下の「太平洋戦争と姫ゆり部隊」は、昭和37(1962)年に封切られた、沖縄戦をテーマにした大蔵映画製作の映画。太平洋戦争の終結からわずか17年後に公開された作品であることが興味深い。

それとは裏腹に、銀座線の高架下を見ると、カラフルなクルマが停まっているが、まだどこか戦後の跡を引きずっているような暗さを感じる。

百貨店に吸い込まれた地下鉄

渋谷は、地下鉄の開通で大きく発展した。日本で最初に誕生した地下鉄は、昭和2(1927)年12月、浅草〜上野間に開業した東京地下鉄道で、昭和9(1934)年6月には新橋に達していたが、これに目を付けたのが、渋谷の発展に大きく貢献した東急の総帥、五島慶太だった。

五島は、昭和2(1927)年8月に渋谷〜丸子多摩川(現在の多摩川)間が開業した、現在の東急電鉄東横線と地下鉄を連絡させることで、都心と東京郊外との一体的な交通網構築を目論み、地下鉄道の東京高速鉄道を設立。東京地下鉄道と相互乗入れを行うことを目指し、昭和14(1939)年1月には新橋〜渋谷間を開業させた。

東京地下鉄道との乗入れ交渉は難航したが、同年9月には相互直通運転が実現。さらに昭和16(1941)年9月には国の出資による帝都高速度交通営団の発足により、浅草〜渋谷間が営団地下鉄銀座線として統合され、現在の東京メトロ銀座線が形成された。

銀座線渋谷駅は、東急傘下が手がけたものだけに、当時の東横百貨店の3階にホームを設ける珍しい構造となっていた。

表参道駅を出た電車は、写真のように、渋谷駅の手前で高架線に入ってから東急文化会館の横を通り、百貨店の建物に吸い込まれていた。開通当時はそのユニークな構造に、人々は未来感を抱いたのではないだろうか。

銀座線はパンタグラフではなくレールから集電する「第三軌条方式」が採られていたため、平成5(1993)年頃までは通電がない駅付近のポイントをカタンコトンという音をたてて通過するたびに車内照明が消え、代わりに予備灯が点いていた。これは渋谷駅でのお約束の光景だった。

写真の車両は昭和31(1956)年に登場した両運転台で片開き扉の1700形で、車体は昭和29(1954)年に登場した1600形から受け継がれたものだ。

昭和33(1958)年〜 昭和35(1960)年には、1800・1900・2000形が輸送力増強用として増備されているが、こちらは両開き扉で違いが一目瞭然。2000形からは片運転台となり、扉の窓が小さくなっている。

昭和40年代、都電やトロリーバスもあった

昭和の渋谷は、営団銀座線のほか、国鉄山手線、東急東横線・玉川線、京王井の頭線が集まる、東京都内きっての鉄道の要衝だった。加えて、昭和40年代前半までは都電やトロリーバスも乗り入れていた。

この写真が撮られた当時、都電は三宅坂から青山線が、広尾に近い天現寺橋から天現寺橋線が延びており、合わせて4系統が運行されていた。双方とも部分廃止を経て青山線は昭和43(1968)年9月、天現寺橋線は昭和44(1969)年10月に消えている。

ちなみに天現寺橋線は大正11(1922)年6月、東急玉川線の前身である玉川電気鉄道の路線として開業。

昭和13(1938)年4月には東横線と同じく東京横浜電鉄(現在の東急電鉄の前身)の路線となったが、同年11月に東京都に運行を委託。昭和23(1948)年2月に都電の路線となった。その経緯のとおり、当初は玉川線との一体運行が行われていたが、その目的は旅客より砂利の輸送が主だったという。

トロリーバスは架線からの集電により走るバスで「無軌条電車」と呼ばれるもの。これも鉄道の一種で、架線の敷設だけで済むことから、東京では路面電車に代わる期待の代替交通として昭和30(1955)年に登場した。

昭和33(1958)年までに4系統が開業したが、大型バスの普及により昭和43(1968)年までに姿を消した。渋谷駅前には昭和31(1956)年9月、池袋駅前と品川駅前を結ぶ「都営102系統」と呼ばれる路線が開業したが、昭和43(1968)年4月に廃止されている。

このように昭和40年代前半までの渋谷駅前は軌道路線の拠点として賑わい、都電の停留場の上を、渋谷駅に入る銀座線がオーバークロスしていた。現在、その跡の大部分には都営バスが発着している。

ヒカリエオープン、変貌する渋谷

平成、令和へ時代が移ると、渋谷駅周辺は大きな変化が訪れる。

渋谷東急文化会館は平成15(2003)年6月に建物の老朽化により閉館され、跡地には現在の「渋谷ヒカリエ」が建つ。

銀座線については、渋谷駅周辺の再開発で東急百貨店の解体が決まったことを受けて、平成21(2009)年から渋谷駅の移転工事が始まり、令和2(2020)年1月、明治通り上に移された新ホームの使用が開始された。

東急百貨店に組み込まれていた旧ホーム時代は、乗車ホームと降車ホームに分かれていたことから折返しに難があったが、新ホームはドーム付きの島式となり、乗降がよりスムーズになった。

東急百貨店は、令和5(2023)年1月に営業が終了し、すでに解体。その跡には仮称「渋谷アッパー・プロジェクト」と呼ばれる地上36階、高さ約164.8mの高層複合施設が建設される。令和9年度(2027年度)に竣工する予定だが、そうなると、昭和30年代に大きく変貌した渋谷の姿は、はるか彼方の記憶になることだろう。

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