「日本」という国はどこへいくのか…明治時代、この国の頭脳が取り憑かれた「世界的名著」

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明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。

※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。

マルクス主義の登場

日本の哲学の歴史のなかでは、すでに見たように、西田幾多郎や、西田のあと京大の哲学講座を引きついだ田辺元、さらに彼らに学んだ三木清や西谷啓治らが大きな役割を演じた。彼らはしばしば京都学派ということばで呼ばれる。その思想上の一つの特色として、彼らの多くが「無」について語ったことが挙げられる。西田はあらゆる存在の根底に「絶対無」を考えたし、田辺も「絶対無」や「無即愛」について語っている。しかしそれは、彼らが現実に目を向けなかったということではまったくない。京都学派の特徴の一つとして、現実の社会や国家、歴史への関心を挙げることができる。

その点で大きな役割を果たしたのは、三木清や戸坂潤ら、西田や田辺から教えを受けた若い研究者たちであった。彼らは、哲学は実践を離れた単なる観想であってはならず、生活に根ざし、実践に結びついたものでなければならないと考え、マルクス主義の思想に共感を示していった。そして観念的な思索に傾きがちな西田や田辺の哲学を批判した。それを承けて彼らもまた現実の社会のなかにあるさまざまな問題について論じるようになっていった。西田や田辺、そして彼らの弟子たちが、そうした関心に基づいて、社会や国家、歴史について何を、またどのように論じたのかを本講で見てみたい。

一九一七年のロシア革命、そして一九二二年のソ連邦の成立は世界歴史のなかで大きな意味をもつ出来事であったが、それと並行してマルクス主義の思想もまた多くの人々の注目を集めた。日本でも『貧乏物語』(一九一七年)などを通して社会問題に深い関心を寄せていた河上肇が次第にマルクス主義に接近し、個人雑誌『社会問題研究』(弘文堂書房、一九一九―一九三〇年)を刊行してその研究と普及に努めたりした。

日本の哲学者も熱に浮かされた

一八八三年のマルクス(Karl Marx, 1818-1883)の死以後、マルクス主義の哲学が語られるときに典拠とされてきたのは、多くの場合『反デューリング論』(一八七八年)や『フォイエルバッハ論』(一八八八年)などエンゲルス(Friedrich Engels, 1820-1895)の著作であった。マルクス自身の哲学的な著作が遺稿のなかから公にされたのは、ちょうど一九二〇年代から三〇年代にかけての時期であった。エンゲルスとの共著『ドイツ・イデオロギー』の第一巻第一章「フォイエルバッハ」が刊行されたのは一九二六年であり、『経済学・哲学草稿』がはじめて公にされたのは一九三二年のことであった。マルクス自身の思想を示すものとして、その公開は大きな注目を集めた。

日本においてマルクス主義の哲学への関心が高まりを見せたのも、ちょうどこの時期においてであった。その中心にいたのが三木清であった。三木はヨーロッパ留学から帰国したのち、第三高等学校の講師を務めるかたわら、経済学部教授であった河上肇を中心として開かれていた研究会(マルクスの『経済学批判』などをテクストにしたので「経済学批判会」と呼ばれた)に参加したりしたが、この頃からフォイエルバッハの思想や唯物史観の研究に着手したと考えられる。三木は一九二七年に法政大学教授に就任し東京に移ったが、それ以後、矢継ぎ早にその研究の成果を、「人間学のマルクス的形態」や「マルクス主義と唯物論」、「プラグマチズムとマルキシズムの哲学」などの論文を通して発表し、論壇の寵児になっていった。

三木のこのようなマルクス主義の哲学的な基礎づけの試みは、彼の周りにいた人々に大きな影響を及ぼした。その影響をもっとも強く受けた一人が戸坂潤であった。京都時代にすでに唯物論の研究を始めていたが、三木清が一九三〇年に当時非合法化されていた日本共産党への資金援助容疑で検挙され、法政大学教授の職を辞した翌年に法政大学の講師となり、活動の場を東京に移した。そこで岡邦雄や三枝博音らと唯物論研究会を組織し、『唯物論研究』を発刊して、わが国における唯物論研究を中心的に担い、同時に多彩な評論活動を展開していった。

さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。

日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」