彰子の冊子本『源氏物語』は本当に完成したのか? 時代考証が解説!

写真拡大 (全3枚)

2024年大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部と藤原道長。貧しい学者の娘はなぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか。古記録をもとに平安時代の実像に迫ってきた倉本一宏氏が、2人のリアルな生涯をたどる! *倉本氏による連載は、毎月1、2回程度公開の予定です。

紫式部(藤式部)と道長の歌のやり取り

大河ドラマ「光る君へ」37話では、紫式部(藤式部)と道長との関係が云々されていた。『紫式部日記』の寛弘六年(一〇〇九)九月十一日の彰子安産祈願御修善の満願日の記事の次に、道長との贈答歌、そして渡殿の戸を叩く者との贈答歌が収められている。

まず、道長が彰子の許にあった「源氏の物語」を見て、いつものように冗談を言ったついでに、

すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ

(そなたは浮気者ということで評判になっているから、見る人が自分のものにせずそのままに見すごしてゆくことは、きっとあるまいと思うのだが)

という歌を贈ってきた。別に深い意味はなく、儀礼的な挨拶程度の戯(ざ)れ歌(うた)といったところであろう。この年、道長は四十四歳、紫式部は三十七歳である。『源氏物語』を執筆したということで、「すきもの」という評判が立っていた可能性もあるが、そうすると後世の伝説のはしりと言えようか。紫式部の返歌は、

人にまだ 折られぬものを たれかこの すきものぞとは 口ならしけむ

(私はまだどなたにもなびいたことはございませんのに、いったい誰が、この私を浮気者などとは言いふらしたのでございましょうか)

というものであった。「めざましう(心外なことですわ)」という語が続く。これも本気で怒っているわけではなかろう。

この贈答に続いて、渡殿の局の戸を叩いた者との贈答歌が見える。局の戸を叩いている人がいると聞いたけれど、恐ろしさにそのまま答えもしないで夜を明かした、その翌朝に、

夜もすがら 水鶏(くひな)よりけに なくなくぞ まきの戸ぐちに たたきわびつる

(夜通し水鶏がほとほとたたくにもまして、わたしは泣く泣く槙の戸口で、戸をたたきながら思い嘆いたことだ)

という歌が届いた。これもそれほど深い意味があったとは思えない。紫式部の返歌は、

ただならじ とばかりたたく 水鶏ゆゑ あけてはいかに くやしからまし

(ただではおくまいとばかり熱心に戸をたたくあなたさまのことゆえ、もし戸をあけてみましたら、どんなにか後悔したことでございましょうね)

というものであった。

古くから、この男が道長かどうか、この後に道長と紫式部の間に情を通じる機会があったかどうか、『源氏物語』の空蝉(うつせみ)の造形はこの出来事を基にしているなど、歴史学者から見るとあまり意味のない議論があり、『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』という系図集に紫式部を「御堂関白道長の妾(しょう)と云々」と注記されたり、はては紫式部が好色の罪によって地獄に堕ちたとされたりといった、本人にとってははなはだ迷惑な伝説ができあがっている。

古記録に言及のない冊子本『源氏物語』

それはさておき、彰子による冊子本『源氏物語』の制作が描かれた。ただ、この冊子については、『御堂関白記』をはじめとする古記録に言及がないので、100%確実とは言えない。『御堂関白記』には儀式への参列者に対する禄の種類と品数といった贈答が詳しく書かれているにもかかわらず、である。

特に『御堂関白記』寛弘六年十一月十七日に彰子が一条院内裏に還御した日の記事に、この冊子本について言及がないというのは(道長から彰子への贈物として「御櫛筥〈くしばこ〉一双〈そう〉と手筥〈てばこ〉一双」という記事はある)、はたしてこの日までにこれが完成していたのか、いささか疑問である。『紫式部日記』にも、内裏還啓の日の記事には、この冊子に関わる記述がない。

まあ『紫式部日記』に制作を始めたことが書かれているから、実際に制作は開始されていたのであろう(こちらも道長から彰子への贈物の詳しい記事がある)。ただ、あれだけの分量の『源氏物語』(どこまで書いていたかは不明であるが)を、とても短期間で書写して製本できるものではない。なお、様々な薄様の色紙は、一枚ごとに色を替えて、綴じ本にしたか、袋とじにしたかであろう。

これを土産に持ったかして彰子が一条院内裏に戻ったのは、寛弘五年十一月十七日であるが、一条院内裏は翌寛弘六年十月五日に焼亡している。一条天皇が常に座右に置いていた『醍醐天皇御記』や『村上天皇御記』も焼けてしまっているので、この(もしかしたら制作途上かもしれない)豪華な『源氏物語』も運命を共にしたのであろう。もしも一帖でも残っていたら、超国宝だったであろうが、まことに世の無常を感じさせる出来事である。

藤壺に盗賊

寛弘五年の大晦日(おおつごもり)の夜、何と彰子の御在所である一条院内裏の東北対(とうほくのたい)に引剥(ひきはぎ)が押し入るという事件が起こった。内裏の深奥にまで入り込み、女房二人の装束を剥いで行った盗人もさることながら(当然ながら、内裏に出入りできる身分の者の仕業である)、紫式部が人を呼んでも、中宮付きの侍や滝口(たきぐち)の侍も退出してしまっていて、「返事をする人もいない」という有様であった。

「殿上間(てんじょうのま)に兵部丞(ひょうぶのじょう)という蔵人(くろうど)がいます。早くその人を呼んで、呼んで」と、手柄を立てさせようと弟の惟規(のぶのり)を呼びにやっても、やはり退出してしまっていた(『紫式部日記』)。この不用心さこそが、まさしく日本古代天皇制の実体なのであった(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。ちなみに、古記録類にはこの盗人に関する記事は見られない。

なお、「あの裸姿は目に焼きついて忘れられず、それを思い出すと恐ろしいとは思うものの、今となっては何かおかしくも感じられるが、それを口に出しておかしいとも言わないでいる」という記載に、紫式部の性的嗜好(しこう)を感じ取る向きもあるようであるが、たんにびっくりしただけの話であろう(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。「裸」といっても、素っ裸にされたわけでもなかろうし。

伊周周辺による呪詛事件の本質

38話では、伊周周辺による呪詛(じゅそ)が描かれる。史実としては、寛弘六年正月三十日、何者かが彰子と敦成をしていたことが発覚したものである(『権記』)。一条が含まれていないことが、摂関(せっかん)政治の本質を物語っている。「玉」である天皇まで失なっては、元も子もないからである。『政事要略(せいじようりゃく)』に引かれた伊周の外戚(がいせき)や縁者の勘問(かんもん)日記によると、道長も呪詛の対象になっていた。

それによると、呪詛は前年の十二月中旬、例の敦成百日の儀の頃から計画され、その理由は、「中宮(彰子)、若宮(敦成)、及び左大臣(道長)がいらっしゃると、帥殿(そちどの、伊周)が無徳(むとく、台無し)でおられる。世間にこの三箇所がおられないように、厭魅(えんみ)し奉るように」というものであった。

ここに伊周の政治生命は、完全に絶たれてしまったことになるが、当の伊周も含め、事件の関与者が皆、翌年までには赦免されていることは、この事件の本質を語っていると言えよう。呪詛の事実自体も、怪しいものである(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。

なお、この事件によって、特に呪詛に際して小心な道長は、出仕を憚るということを言い出している。「我が身の大事の為のものである」ということであったが、二月六日になって、やっと気を取り直したようである(『権記』)。

頼通の婚姻を媒介する紫式部

ドラマではこの頃、頼通(よりみち)と隆姫(たかひめ)女王との婚姻が描かれるが、『紫式部日記』によると、それは寛弘五年のことであった。道長は、村上天皇第七皇子の具平(ともひら)親王と村上天皇第四皇子の為平(ためひら)親王の女(むすめ)との間に生まれた隆姫(たかひめ)女王と頼通との結婚を望み、「その宮家に縁故ある者」と思っている紫式部に相談していたのである。

どういう縁故があるかというと、父の為時(ためとき)がかつて具平親王の家司(けいし)だったことがあり(詩で「藩邸(はんてい)の旧僕(きゅうぼく)」と自称している)、そのサロンの一員に列していたことが挙げられる。

ただし、高貴な女性と婚姻すると、えてして子女に恵まれない例が、かつての良房(よしふさ)やこの頼通のように、起こりがちである。

実は頼通は身分の低い藤原祇子(しし、因幡守藤原頼成〈よりなり〉、実は具平親王と雑仕女の大顔〈おおがお〉との間の子の女)という女性から俊綱(としつな)・覚円(かくえん)・定綱(さだつな)・忠綱(ただつな)という四人の男子を儲けているのであるが、いずれも養子に出したり出家させたりしている。隆姫女王からは子供は生まれず、これによって摂関政治は危機を迎えることになるのである(結局、同じ女性から最後に生まれた師実〈もろざね〉を嫡子としている)。

その意味でも、高貴な倫子(りんし)と明子(めいし)からそれぞれ六人の子女を儲けた道長の幸運が際だっている。

敦良の出産

一条は二月に、彰子をふたたび懐妊させた(『小右記』)。天皇としての恐るべき責任感である。六月十九日、彰子は土御門第に退出し、敦成がこれに同行した。同じ日に伊周の朝参を聴すという宣旨が下っている(『権記』)。ふたたびの呪詛を恐れたのであろう。

一方、九月二十四日には、十月十三日に予定されていた敦康の元服を、彰子御産によって延引することを、一条の方から言い出した。翌二十五日には、御産も済んでいるであろう十二月に吉日があれば、その間に行なうべしとの一条の命が伝えられたが(『御堂関白記』)、結局はこの年のうちに敦康の元服が執り行なわれることはなかった。これなどは、敦康が望んだものではなく、道長が敦康を軽視した結果であろう。

十一月二十五日、彰子は第三皇子敦良(あつなが)を出産した(『御堂関白記』『権記』)。「喜悦が殊(こと)に甚し」かった道長は、参入した実資に、「今般に至っては男女を顧(かえり)みず、ただ平安を祈っていた。ところが平(たいら)かに遂げられた上に、また男子の喜びが有った」と語っている(『小右記』)。

四年後に三条天皇中宮である二女の姸子(けんし)が禎子(ていし)内親王を産んだ時の道長の不興(『小右記』)を考えると、「男女を顧みず」というのは、とても本心とは思えない。後一条天皇(敦成親王)は皇子に恵まれなかったので、結局はこの敦良親王(後の後朱雀天皇)が今日まで皇統を伝えていくことになる。

なお、現存する『紫式部日記』では、敦良誕生の記事は存在しない。どうも他の古記録も含め、この皇子の誕生の記録には、前年ほどの熱意が感じられないのである。

十一月二十七日から、産養(うぶやしない)の儀が行なわれたが、右大臣顕光(あきみつ)、内大臣公季(きんすえ)、それに伊周は不参であった。珍しくすべてに出席した実資に対し、道長は、「毎夜、参入されるのは、極めて悦(よろこ)びに思う」という言葉を、たびたび発している(『小右記』)。実資の参入が、よほど嬉しかったのであろう。

十一月二十九日の皇子敦良の五夜の産養においては、藤原伊成(これなり)が道長四男の藤原能信(よしのぶ)に凌辱(りょうじょく)された。凌辱された伊成は責に堪えず、笏で能信の肩を打ったところ、蔵人の藤原定(さだ)輔(すけ)が縁から伊成を突き落とし、能信が従者を召し集めて、伊成を殴り、髪を執って殴打させ、また踏み臥して松明(たいまつ)で打った。十二月一日には、それによって伊成が出家するという事件が起こっている(『小右記』『権記』)。

源明子(めいし)腹の能信なればこそ、源倫子(りんし)腹の藤原彰子が産んだ皇子の産養の席で、鬱屈(うっくつ)していた感情が爆発したのであろう。ドラマでは頼通たち倫子腹の子と明子腹の子が和やかに談笑している場面が描かれるが、実際にはその処遇の格差をめぐって、陰に陽に確執を深めていた。これも将来、摂関政治を終わらせる要因となったのである。なお、伊成の出家を聞いた実資は、かえって子供がいる方が嘆きとなると、その感慨を記している(『小右記』)。

ちなみに、この間の『小右記』は、宮内庁書陵部蔵東山御文庫(ひがしやまごぶんこ)本「後西(ごさい)天皇御記」と題する史料に引かれたものであるが、これは書陵部に勤務していた後輩の石田実洋氏が、『小右記』の逸文である『御産記』であることを発見したものである。

時代考証が解説! 物怪がわめきたてるなか…彰子出産を記録した紫式部