「会社への復讐」として起業を選んだ元会社員男性を待ち受けていた「あまりにもつらい現実」

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日本では急速な少子高齢化の進行を背景に、労働力不足を補い、社会保障制度の持続可能性を高めるため、60歳を過ぎても働き続けることが可能な環境整備が進んでいる。働く側も経済的理由だけでなく、生きがいや健康維持などさまざまな理由で定年後の就業継続を望むケースが増えている。

『等身大の定年後 お金・働き方・生きがい』(発売中・光文社新書)の著者、近畿大学教授・ジャーナリストの奥田祥子さんは本書で、再雇用、転職、フリーランス(個人事業主)、NPO法人などでの社会貢献活動、そして管理職経験者のロールモデルに乏しい女性の定年後に焦点をあて、長期間に及ぶインタビューをもとに、あるがままの〈等身大の〉定年後を浮き彫りにして話題になった。本記事で実際の例を紹介する。

※本記事は奥田祥子著『等身大の定年後 お金・働き方・生きがい』から抜粋・編集したものです。

「不純な動機で後悔し切れない……」

ITエンジニアとして経験を積んで管理職も経験した山口浩次郎(やまぐちこうじろう)さん(仮名、58歳)は2023年の年の瀬、苦虫を噛み潰したような顔で、54歳で退職してから今日に至るまでの苦難の道のりについて、思いの丈をぶつけた。

「ITエンジニアとして自信とプライドを持って、一生懸命に会社のために働いたキャリア人生でした。今思い返すと、中年期に差し掛かり、管理職か専門職か、キャリアパスで迷った頃に出世の誘惑に負けて、管理職を選んだのが間違いだったのかもしれない。でも、当時は今ほど、専門職のキャリアパスが出来上がっていませんでしたからね……。進学でも就職でも、必死に頑張った分、順調に歩むことができたと思っていましたが……それまでの頑張りの成果を受け取れるはずの、肝心の、終盤のキャリアでつまずくとは……。悔しくて悔しくて……」

山口さんは「一生懸命」「必死に」「頑張り」という言葉を繰り返した。それだけ、思い通りに進めなかった悔しさや怒りの念が強かったのかもしれない。

「一番のつまずき、は何だったとお考えですか?」

「…………」

苦しい気持ちに拍車をかけてしまったのか。いつになく長い沈黙が訪れる。今回のインタビューはもうここまでか、そう思った矢先、彼がうつむき加減だった顔を上げ、誰に言うともなく、ささやくような声でこう言った。

「リベンジ……そんな不純な動機で、起業だなんて……大それたことを行おうとしたことでしょうか……。後悔してもしきれません」

プライドを抱いて突き進んできた自身のキャリア人生終盤において、山口さんはどうして、後悔の念に苛まれるような事態を招いてしまったのか。キャリアパスの選択に思い悩んだ20年近く前から遡って見てみたい。

思い悩んだ末、管理職を選んだ技術職

山口さんとは2005年、技術職の管理職か専門職か、キャリアパス選択をテーマに話を聞いたのが始まりだった。当時40歳で、所属する会社では開発部門の課長職に相当するプロジェクトマネージャーへの就任を上司から打診されたばかりの時期だった。

そのような事態に直面することを想定して、初取材の3か月前にアプローチしたわけではない。インタビューのわずか1週間ほど前になって、プロジェクトマネージャーのポストを提示されていることを知ったのだ。

新卒でメーカーに技術職で就職し、29歳で今のIT企業にヘッドハンティングされた。数年前から、開発現場の最前線でプロジェクトの推進役となってシステムエンジニア(SE)やプログラマーたちを牽引する、プロジェクトリーダーを務めていたが、本人も今、この時点で、プロジェクト計画の立案から予算、スケジュール管理などのマネジメントが中心となる管理職を任されることになろうとは予測していなかったようだった。

「大きな開発プロジェクトが終盤の大詰め作業に入っている時でもあり、なぜこんな重要な時期に、この僕が……というのが、上司からマネージャーの打診を受けた時の正直な思いです。いや、そのー……うーん」

プロジェクトマネージャーを打診された時からの経緯と心情を語ろうとして、言葉に詰まる。淡々と説明しようと努めていたところに、内に秘めていた並々ならぬ思いが重なったようにも見えた。

「……すみません、いやそれよりも、実は……2、3年前から技術職の自分が管理職になるべきかどうか、思い悩んでいたんです。本音としては、ずっとITエンジニアとして、つまり専門職として極めていければと思いますが……うちの会社ではまだ専門職として活躍できる道は確立されていない。それなら、マネジメントが中心となって開発現場から距離ができるのは残念ですが、いずれ経営の意思決定にも関われるように管理職の道を選び、まずはプロジェクトマネージャーもいいかなと……」

この語りの段になって、山口さんはインタビューの直前にプロジェクトマネージャーを引き受ける決心をしていたことを知る。そして、それが彼にとって、いかに悩ましく、勇気のいる決断であったかということを。

管理能力発揮できず「自分は中途半端な人間」

逡巡(しゅんじゅん)の末、課長職に相当するプロジェクトマネージャー職に就いた山口さんだったが、管理職に求められるスキルのうち、顧客の業務内容や開発に使われている技術知識などのテクニカルスキルはお手のものだったが、スケジュールや予算、人材などを計画し、状況に応じて調整する管理能力、さらに顧客やプロジェクトに携わる部下とのコミュニケーションには、かなり手こずっていたようだった。

「SE出身で、もともと大勢のメンバーとプロジェクトを進めるという機会はそれほど多くなかった。もちろん、30代半ばでプロジェクトリーダーになってからは、SEやプログラマーたちを統率する役割は担っていましたが、管理職ではなく、あくまでも開発現場のプレーヤーとしてでしたからね。特にお金や人材に関わる部分は苦手で、僕の工夫ひとつでコスト削減ができることもあれば、逆にコストがかさんで上からお叱りを受けることもある。これまで経験したことのない大勢の部下を抱え、育成していく役目も、リーダーとマネージャーとでは格段に責任の重さが違います。管理職として社内での地位が上がったことはありがたく、やりがいがありますが……今は、正直、戸惑いのほうが大きいですね」

プロジェクトマネージャー就任から9か月が過ぎた頃のインタビューで、山口さんは複雑な心境を打ち明けた。

ただ、思い悩んだ末での管理職の選択だっただけに、就任してから数年は、苦手意識のある管理スキルを身につけようと、持ち前の粘り強さで職務に邁進(まいしん)していたことは間違いない。定期的に行っていた取材でも、「目の前の困難を苦労と思わず、貪欲に取り組むしかない」などと、常に前向きな姿勢を語っていた。

ところが、そんな仕事に対する姿勢は、プロジェクトマネージャー就任から5年が過ぎた2010年頃から徐々に変わり始める。当時、山口さんは45歳。同じく管理職の道を選んだ同年代の技術者が、勤める会社では部長職に相当するシニアマネージャーに昇進し、その一方で専門職に進んだ技術者が高度な設計や開発を担当して技術力を高めているのを目の当たりにしたことがきっかけのようだった。

「結局、僕は管理職として十分に能力を発揮できないまま昇進を逃し、時間だけが過ぎ、同期に先を越される始末で……かたや自分が選ばなかった専門職の同期は技術力を極めていて……。自分がとても中途半端な人間に思えてきて……どうにもやりきれないんです……」

そう弱々しく話し、肩を落とした。

異例のバックオフィス部門への異動

山口さんは管理職としての出世も、専門職としての高度な技術力も、周囲に誇示することができないまま、いずれでもない道を歩むことになる。

2014年、49歳の時に、自ら進んでバックオフィス部門への異動を願い出る。異動先は労務部で、役職は部次長だった。今の会社にヘッドハンティングによって転職してから20年、ずっと歩んできた開発畑を初めて離れたのだ。

IT企業の場合、開発部門とバックオフィス部門の役職を同列に比較することは難しい場合が多いが、山口さんの勤める会社では、労務部の部次長は課長職相当のプロジェクトマネージャーよりはひとつ上の役職。昇進したかたちになる。しかし、彼にはひとかたならぬ思いがあったのは言うまでもない。

労務部の部次長に就いて半年が過ぎた頃、そこに至るまでの葛藤を打ち明けた。

「開発部門で管理職として役立たずで、かといって、いったんマネジメントの道を選んだ者が専門職に戻るキャリアパスはうちの会社では前例がない。それ以前に……悔しいですが、専門職として開発の最前線に戻るには空白期間が長く、能力が追いつかないのは重々わかっていました。だから、その……つまり、異例のバックオフィス部門への異動を希望したんです。開発部門では課長より上への昇進は難しかったですが、社内で年齢的には部次長か部長クラスですからね。本当は昇進とは言えない。社内のエンジニアの連中には、きっと陰で馬鹿にされていますよ。まあ、頑張るしかないですね」

起業で「会社に復讐」

2019年、山口さんは役職定年を半年後に控えた54歳で会社を退職する。開発部門を離れてからこの5年の間に何度かインタビューを行っていたが、自身の進退については黙して語らず。このため、退職直後に珍しく彼からの連絡で面会取材をした時、知らされた選択にやや戸惑った。起業だったからだ。

日頃からあまり感情を表に出すほうではなかったが、この日はいつにもまして淡々とした表情、口調だった。だからこそ、この後口にする言葉に衝撃を受ける。と同時に違和感を抱いたのも確かだった。

「リ・ベ・ン・ジ……」

「えっ、今何と?」

「リベンジ、つまり会社に復讐するために、起業を選んだのです。僕は自分なりに会社で、精一杯頑張り、社業の発展にも少なからず貢献してきたと自負しています。苦渋の決断で専門職ではなく管理職の道へ進み、開発部門のマネジメントでは目立った実績を上げることはできませんでしたが……労務部に移ってからも労働環境や生産性の向上に努め、一定の成果も出していた。それなのに……労務部の部長を、入社年次が二期下の人事部の同じ役職だった部次長に奪われたんです。僕の働きは会社には全く評価されなかった……。無念でした」

部長に昇進できず、山口さんは人事部に部下のいない「部長待遇」ポストで異動した。16年のことだった。人事部にこのポストで移ったことは聞いていたが、その背景に「無念」の出来事があったことはこの時初めて知った。そして、「リベンジ」起業である。

「会社はどのような計画で興される予定ですか?」

彼の表情が少し明るくなったのが見て取れた。

「半年ほど前から準備を始めているんですが、営業と財務に長けた同年代の50代のデキる奴とタッグを組んで、ソフトウエア開発の会社を立ち上げる予定です。他の2人も組織しか知らない会社員。起業は素人ばかりですが……僕が先に辞職して、起業準備を本格化させています」

山口さんによると、共に起業する一人は新卒で入社したメーカーの同期で同い年、営業畑一筋に歩んできて数々の実績を上げてきたという。もう一人はこの元同期の大学の後輩で2歳年下、すでに税理士資格も取得している経理、財務のベテランだという。

「あっ、言い忘れていましたが、僕はまたエンジニアに戻ります」

「エンジニア」と口にして、彼の瞳が輝いた。

「いちエンジニアとして終えたい」

エンジニアに戻って会社を立ち上げると意気込んだ山口さんだったが、しかしながら、起業準備は難航した。

ソフトウエアの設計、展開からサポートまで、一連のプロセスを手掛けるソフトウエア開発のビジネスを展開する予定だったが、肝心の事業計画が思うように進まなかった。そこに拍車をかけたのが、営業と財務を担当する役員になるはずだった2人が、相次いで起業への参画を辞退したことだった。いずれも会社に勤務しながら起業準備に携わっていたが、経済的な問題などを理由に挙げたらしい。

2022年、二年数か月に及ぶ起業準備を白紙撤回せざるを得なくなる。経済的に大きな損失はなかったが、設備資金・運転資金調達のため、創業融資や補助金・助成金を求めて奔走した日々は無駄になってしまった。

そうした経緯を明かしてくれたのが、冒頭の23年の年末のインタビューだった。

19年に起業する動機として語った「リベンジ」を、起業が叶わなかった「不純な動機」という理由として挙げた山口さん。20年近く取材し続けてきた者として、長年の会社勤めから起業を思い立つまでに、彼にはさまざまな葛藤や苦悩があったことは痛いほどわかる。ただ、単なる「不純な動機」だけで起業がとん挫したようにも思えなかった。

「改めて、なぜ、起業を実現できなかったとお考えですか?」

つらい出来事の記憶をよみがえらせてしまうことは心苦しかったが、どうしても聞いておきたかった。返答に窮するかと思ったが、山口さんは沈黙することも、顔色を変えることもなく話し始めた。

「僕がエンジニアでありたかったのに、技術力を備えていなかった。これが本当の理由です。今の時代、新たな事業を始めるには相当の斬新なアイデアと、高いテクニカルスキルが不可欠です。それがあってこそ、綿密な事業計画づくりにつながる。でも、僕の技術力は……残念ながら廃(すた)れてしまっていたんです。それは管理職に進んだとか、バックオフィス部門に異動したことが理由ではなく、開発の現場を離れている間に努力を怠ったことが大きな原因です。それで……一緒に起業する予定だった他の2人は、面と向かっては言いませんでしたが、『これではダメだ』と考えたのでしょう」

山口さんは起業を断念してから1年以上、仕事に就いていない。24年秋に59歳になる。これからの仕事をどう考えているのか。

「できれば働きたいとは考えています。でも、自分に何かできるのか、また必要とされるどんな要素が残っているのか。現実を直視できないんです。ただ……やはりできることなら、『いちエンジニア』としてキャリア人生を終えたい。そう考えています」

山口さんのキャリア人生はまだ終わっていない。仕事を再開するその日まで、待ちたい。

次回記事<早期退職して「ボランティア活動」を始めた元会社員男性が、なぜか「絶望」におちいってしまった「意外なワケ」>もぜひごらんください。

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