「かわいがっていた部下」からのパワハラ告発で出世の階段から転落した会社員男性が「復讐に選んだ方法」

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日本では急速な少子高齢化の進行を背景に、労働力不足を補い、社会保障制度の持続可能性を高めるため、60歳を過ぎても働き続けることが可能な環境整備が進んでいる。働く側も経済的理由だけでなく、生きがいや健康維持などさまざまな理由で定年後の就業継続を望むケースが増えている。

『等身大の定年後 お金・働き方・生きがい』(発売中・光文社新書)の著者、近畿大学教授・ジャーナリストの奥田祥子さんは本書で、再雇用、転職、フリーランス(個人事業主)、NPO法人などでの社会貢献活動、そして管理職経験者のロールモデルに乏しい女性の定年後に焦点をあて、長期間に及ぶインタビューをもとに、あるがままの〈等身大の〉定年後を浮き彫りにして話題になった。本記事で実際の例を紹介する。

※本記事は奥田祥子著『等身大の定年後 お金・働き方・生きがい』から抜粋・編集したものです。

「企業文化の伝承」と「阿吽の呼吸」が大事

中堅メーカーで商品企画部の部長に、同期の先陣を切って昇進したばかりの浜中徹治(はまなかてつじ)さん(仮名、当時47歳)に出会ったのは、2008年。取材テーマは、職場内の優位性を利用した嫌がらせ行為であるパワーハラスメント(パワハラ)の防止対策だった。

当時、和製英語のパワハラという言葉はすでにある書籍をきっかけに世に出ていたものの、厚生労働省がその定義を公表するのは4年後のこと。各企業ではパワハラそのものが十分に認識されておらず、まして実効性のある対策を図っているケースはわずかだった。

そんななか、浜中さんは当時としては数少ない、パワハラに対する意識の高い管理職であり、パワハラが起こる背景・要因と対策について、上司と部下の関係性や職場環境・風土面から語ってくれたのだ。

「まずパワハラなんてものは、それぞれの企業特有の職場の文化が、上司から部下へとうまく伝承できていれば起こるはずがないんです。というと、なんか、伝統文化の継承みたいな難しい話のようですが……あっ、は、は……日々取り組んでいれば問題ありませんよ」

大学時代、相手フォワードと直接組み合うスクラムの要であるプロップを担っていただけあって、身長180センチほどもある大きな体に似つかわしく、豪快に笑う。

「嫌がらせ・いじめと、指導などは全く異なるものですからね。これは部下の育成のための、部下のためを思った、上司からの指導や注意であることをしっかりと相手に伝えていけば、それをいじめなどと間違って捉えることは起こらないと思いますね。つまり、言葉に出さずとも、『阿吽(あうん)の呼吸』が大事ということなんです。まあ、『根回し』とも言いますけどね。うっ、ふふ……。

私たち管理職だって、若手時代から先輩、上司にそうして鍛えられたお陰で、成長することができたわけですから。そのあたりをしっかりと理解して、日頃から上司と部下の関係を築いていく、そんな職場風土を育んでいく。それが私たち管理職に求められている重要な役目だと思っています」

「企業特有の文化」も、上司と部下の「阿吽の呼吸」も、浜中さん自身が会得して実践し、会社員としての成長、さらには管理職として昇進を重ねるという出世にもつながっていた。

低くて太い、よく響く声で堂々と言い切るその姿には、部長として幸先の良いスタートを切った自信がみなぎっていた。

社内「根回し」を超えたパワハラ問題

その後も優れた商品企画力とマネジメント力を遺憾なく発揮し、2010年に49歳で営業部に異動して部長を務める。取材を続けるなかでも、ますます管理職としての貫禄を増していくのがありありとわかった。

そうして13年、52歳の時に晴れて事業本部長に昇進するのだ。順風満帆のサラリーマン人生に見えた。定期的に会って話を聞くだけでも十二分に感じたのだから、ましてや社内では周りがうらやむ出世街道を歩んでいたことは間違いないだろう。

しかし、事業本部長に就いてしばらく過ぎたあたりから、自分が考える上司・部下関係や職場風土と、新たな時代に社会や若手社員が求める職場の人間関係や文化とのギャップに対して、嫌悪感を露(あら)わにするようになる。

象徴する問題がパワハラだった。以前は、「企業文化がうまく伝承されれば起こるはずがない」と自信を持って話していたパワハラが、自身が統括する事業本部内の複数の部署からもパワハラ被害を人事部の窓口に訴えるケースが相次いだのだ。

事業本部長に昇進する前年の12年、厚生労働省がパワハラの定義を初めて公表するなど、パワハラに対する世の中の認識が少しずつ高まりつつあった時期でもあった。

「最初に取材してもらったように、私はもともとパワハラに関する知識があり、意識も高い管理職として部下の育成、人間関係の構築に努めてきました。その根底を支えていたのは、前にも言ったように、長年受け継がれてきた企業特有の文化と、上司・部下の阿吽の呼吸、根回し力です。それなのに……それが、そのー、今ではうまく通じなくなってきていて……」

浜中さんにしては珍しく、言いよどむ。

「社内の『根回し』では収められないところにパワハラ問題があるということですか?」

「まあ、そう……そう、言わざるを得ませんね。すみません、今日はこの辺でいいですか」

中途半端な答えのまま、浜中さんからインタビューを切り上げたのはこの時が初めてだった。戸惑いの大きさがうかがえると同時に、何か自身にも問題を抱えているようにも見えた。だが、この時は聞き出すことができなかった。己の不甲斐なさを痛感した取材でもある。

15年末、電通の新入社員の女性(当時24歳)が過労自殺し、労災認定された事件を契機に、「働き方改革実行計画」にパワハラ対策が項目に加えられる。その5年後、改正労働施策総合推進法(通称「パワハラ防止法(*1)」)施行により、20年6月から、パワハラの防止対策が大企業で義務づけられることになる(中小企業は22年4月から)。

そうして、浜中さんもやがて、その渦中の人となってしまうのだ。

*1

パワハラ防止法に基づく「パワーハラスメント防止のための指針」(パワハラ防止指針)によると、パワハラとは職場において行われる(1)優越的な関係を背景とした言動であって、(2)業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより、(3)労働者の就業環境が害されるもの――の3つの要素を満たすものと定義している。

「パワハラ」加害で、出世の階段を滑り落ちる

浜中さんはその後も、旧来の上司・部下関係や職場風土が次第に通じなくなってきていることに不安や焦りを感じながらも、事業本部長としての任務を着実にこなし、勤務する会社では役職定年の年齢にあたる55歳を過ぎても役職延長を重ねていく。

ところが、執行役員、または子会社社長のポストを手にできると考えていた矢先、部下からパワハラで訴えられてしまうのである。2019年、58歳の時だった。

「寝耳に水で、まさか、この自分が……というのが、正直なところでした。伝統的な企業文化も、阿吽の呼吸も通用せず、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に上司・部下関係を片づけようとする風潮が年々強まっているのは重々、承知していたつもりでしたが……。もちろん、私としては職場の優位性を利用して嫌がらせをしたり、無理な職務を命じたりしたことはありませんし、パワハラ防止法の定義に照らし合わせても、今もパワハラに該当する行為であったとは考えていません。しかし……事実認定されてしまい……」

言葉に詰まるだけでなく、いつしか顔面蒼白(そうはく)となり、嗚咽(おえつ)していた。

パワハラ被害を受けたと訴えた営業部の部長は、浜中さんにとっては「手塩にかけて育て、部長昇進も後押しした部下」。訴えによると、複数ある営業部門の中でもその部下が部長を務める部は営業実績が最下位であるとして、浜中さんは業務時間外の深夜や週末にまでその部長に電話をして注意、指導したほか、営業部門各部署の社員の多くが着席している時間帯を見計らって、大声でその部長を叱りつけるなどの行為を繰り返した。その影響で、うつ病を発症して約1か月間の休職を余儀なくされ、自身の職務遂行のみならず、統括する営業部全体の業績悪化を招いたというのが、訴えの内容だった。

人事部で営業部内外の関係社員にヒヤリングを行うなどした結果、パワハラ行為であったと事実認定されたのだという。浜中さんの弁明は認められなかった。

譴責(けんせき)の懲戒処分を受け、役職を解かれることに。当然ながら、執行役員も、子会社社長への道も閉ざされた。

「その部下の営業部長が訴えた内容は、私もかつて上司から受けた指導と何ら変わりません。私自身、鍛えられたお陰で実績を積み重ねて、事業本部長にまで上り詰めることができたと思っています。それが、今では指導ではなく、懲戒処分まで受ける不当行為とみなされる。最後の最後で、出世の階段を滑り落ちるなどとは、思ってもみませんでした……」

「復讐」のための転職も難航

役職を解かれ、人事部付の平社員となってから半年ほど経った頃、浜中さんは意気消沈した弱々しい表情で、「ただ窓際で時間が過ぎるのを待つだけの日々を送っている」と漏らした。

ところがさらに数か月過ぎ、59歳の誕生日を迎えてしばらくした時のインタビューで突然、「この無念のままでは会社員人生を終われない。出世の道から蹴落とした奴らを見返してやりたい。つまり復讐です」と語り、顔を紅潮させて怒りを吐き出した。過激な言葉遣いに正直、驚いた。そして、「復讐」方法として彼が選んだのが、転職だった。

転職エージェント数社に登録したほか、これまで仕事で出会った人脈や大学時代の友人など、さまざまなネットワークを駆使して、仕事探しを始めたのだ。

定年退職を待たずとも、即転職したい意向だったが、転職活動は難航した。

「全く、私をバカにしている。一流企業で事業本部長まで務めた人間ですよ! 賃金など待遇やポジション、職務内容を落とすことは到底、できませんよ。やりとりすればするほど、腹が立ってきて前に進みません」

転職活動の状況を尋ねると、毎度、登録している転職エージェントのカウンセラーらへの愚痴を繰り返す。これまでのキャリアの棚卸しなど、カウンセラーから出された課題に応じることもなく、自身が求める条件に合わない仕事を勧められることが我慢ならないようだった。

「自分の会社員人生を否定するようで……」

2021年、転職活動を始めてから約8か月後、浜中さんは転職先が見つからないまま、定年退職を迎える。退職から数か月過ぎた頃のインタビューでは、「仕事もせず、趣味などで外出することもなく、ただ家の中で過ごす時間が、定年前の『窓際』出社を思い返してしまい、つらい……」と、いつになく弱気な気持ちを漏らした。

少しずつ外出するようにもなった暮らしの変化を話してくれるようになったのは、さらに数か月ほど過ぎた22年のことだった。

「独身で同居する20代後半と30過ぎの息子2人が出勤する前に自宅を出て、近所の人たちに会わないように電車で30分から1時間ほどの距離の離れた公立図書館をはしごするような毎日です。どこの図書館にも、決まって私と似た境遇とみられる男性がいるもんですね。たまに読みたい新聞が重なって取り合ったり、譲り合ったり……。もちろん、会話を交わすことも、友達になることもありませんが……出掛けることで、ほんの少し気持ちが楽になったような気がしています」

話し始めは少し強張(こわば)った面持ちだったが、終盤では穏やかな表情になっていた。

そうして、23年末、事業本部長を退いてから四年余りを経て、ようやく定年から今に至る思いを語ってくれた。

「部下からの予想だにしなかったパワハラの訴えで、執行役員も子会社社長の道も閉ざされ、会社員生活の最後でどん底を経験しましたが……今振り返ると、時代の変化を受け入れようとしなかった自分がいけなかった。脇が甘かったのですね。そして、その段に至っても、事業本部長まで務めたんだから、きっと良い転職先がある、転職で『見返してやる』などと高をくくっていた。本当にバカですね……そんな調子のいいことなどないのに……」

「なぜ、スムーズに転職先が見つからなかったのだと思いますか?」浜中さんの心情に配慮し、控えてきた質問だったが、落ち着きを取り戻して振り返る様子を見て、今なら大丈夫ではないか、と判断した。

「…………」束の間、沈黙が訪れる。ただ、ネガティブなそれではなく、自身の気持ちをうまく言語化するためのものだったように思う。

「そうですね。大学を卒業してから定年までひとつの会社に勤めてきて、社内でしか通用しない『根回し』など職場の文化が染みついてしまっていた。当然ながら、上位の管理職経験だけではものにならないし……平社員に戻った定年直前の転職活動スタートではアピールする点がなかったと思いますね。もっと早く気づいて、準備しておくべきだったんでしょうが……。それと、そのー……転職先でのポジション、賃金など待遇に関する条件を下げられなかったことも、転職に失敗した要因でしょうね」

「どうして、条件を下げられなかったのでしょうか?」酷な問いだったが、聞いておかねばならない。

「頑固なこだわり、プライドとも言えるかもしれませんが……条件を下げると、定年まで懸命に働いてきた自分の会社員人生を否定するようで……。でもまた働きたければ、そうせざるを得ないということは少しずつ理解できるようになってきたのですが……」

24年に63歳の誕生日を迎えるのを前に、今改めて働く意味について考えているという。

「今のところ、預貯金を取り崩して何とか生活はできていますが、これからはどうすればいいのか。遅ればせながら、人生設計も含めて練り直し……そのうえで、少しでも働くことができれば……そりゃ、図書館で時間をつぶすよりはいいですけどね……さあ、どうでしょうかね……」

そう言い終えると、笑みを浮かべた。浜中さんの笑顔を見たのは、最初の取材以来、十数年ぶりだった。

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「会社への復讐」として起業を選んだ元会社員男性を待ち受けていた「あまりにもつらい現実」