「万年課長」で定年を迎えた「負け組」会社員が、誰よりも順調に「定年後の仕事」に携われるようになったワケ

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日本では急速な少子高齢化の進行を背景に、労働力不足を補い、社会保障制度の持続可能性を高めるため、60歳を過ぎても働き続けることが可能な環境整備が進んでいる。働く側も経済的理由だけでなく、生きがいや健康維持などさまざまな理由で定年後の就業継続を望むケースが増えている。

『等身大の定年後 お金・働き方・生きがい』(発売中・光文社新書)の著者、近畿大学教授・ジャーナリストの奥田祥子さんは本書で、再雇用、転職、フリーランス(個人事業主)、NPO法人などでの社会貢献活動、そして管理職経験者のロールモデルに乏しい女性の定年後に焦点をあて、長期間に及ぶインタビューをもとに、あるがままの〈等身大の〉定年後を浮き彫りにして話題になった。本記事で実際の例を紹介する。

※本記事は奥田祥子著『等身大の定年後 お金・働き方・生きがい』から抜粋・編集したものです。

苦難の末に「快適」な再雇用

稲穂が黄金に色づき始めた2023年秋、同年春に60歳の誕生日を迎えて定年退職し、再雇用で嘱託社員としてフルタイムで働き始めて数か月の田川勉(たがわつとむ)さん(仮名)は、晴れやかな面持ちでこう話した。

「とても快適に働かせてもらっています。たぶん、私ほど順調に定年後の仕事に携われているケースは稀(まれ)なのでしょうね。まず、定年前まで長い間、働かせてもらった会社の人たちが、こんな私でもこれまで蓄積してきたノウハウや経験を必要としてくれていること。

そして、その期待に応えることで、私自身がやりがいを感じられているのが一番ですね。もちろん、定年退職してからも収入を得られるというのはありがたいですが……それよりも、人の、会社の役に立てているということが、何ものにも代えがたい充実感をもたらしてくれるというか……。自分は本当にラッキーで、感謝の気持ちでいっぱいです」

だが、田川さんの会社員人生の半分は、幸福感よりも苦悩が大幅に上回っていたであろうことを、筆者は長年の取材を通して目(ま)の当たりにしてきた。

自身を「万年課長」の「負け組」と称し、働くモチベーションを失いかけた時期もあった。上司との人間関係がギクシャクして手柄を横取りされたかたちとなり、やるせない思いを明かしたこともあった。

そうした「負け組」の苦難を乗り越えた先に、定年後の再雇用を「快適」と捉えられる第二のキャリア人生を迎えることができたのである。

「臭い物に蓋をしない」メンタルヘルス担当者

田川さんと出会ったのは、2006年。管理職ポストの削減や社員のリストラの進行と同時に、職務の個人化や職場のコミュニケーションの希薄化が進み、メンタルヘルス不調を訴えて欠勤、休職する社員が増加し始めていた時期だった。ただ、当時、新聞やテレビなどマスメディアが報道することはなく、水面下で深刻化する問題の取材に協力してくれる企業の人事、労務担当者はなかなか現れなかった。

そんな状況下で、「臭い物に蓋(ふた)をせず、これからの会社と社員のためになるなら」と、快くインタビューに応じてくれたのが、大手IT企業で人事部の課長として、社員のメンタルヘルス対策を担当していた当時43歳の田川さんだったのだ。

初対面の挨拶もそこそこに、田川さんは適応障害やうつ病など心の病の診断書を提出して会社を休む社員が増加している背景と要因について、こう熱弁を振るった。

「諸悪の根源は、成果主義です! かつてはともに助け合ってチームとして実績を上げて前進していくことが目的だった仕事が、成果主義人事制度が導入されてから、隣の席の同僚、年次の近い先輩、後輩が人事考課を競い合うライバルになってしまったんですから……。査定は昇格、昇進とともに、賃金に直接影響しますからね。管理職の上司だって、一次考課者の課長から二次考課者の部長まで、自分を審査する人間なわけですから。

自分の仕事だけに打ち込むことになって、悩みを誰にも相談できないまま……心を病(や)んでしまうのも当然ですよ。そのことで労働生産性が低下して、結果、会社は損失を被る、という悪循環に陥りつつあるのが現状だと思います」

成果主義人事制度は、日本では1990年代後半から大企業を中心に導入され始め、今では広く浸透している。実績や能力に応じた給与など処遇を決めることにより、社員の働くモチベーションを高め、生産性向上にも効果があるとされているが、人件費削減策としての色合いも濃い。

田川さんは筆者が仮説として考えていた段階だった、成果主義による職務の個人化や職場の人間関係、コミュニケーションの希薄化が、メンタルヘルス不調を訴える社員の増加に大きな影響を与えているという因果関係を、現場の声としてズバリ、証明してみせたのだ。

「万年課長」でも「会社と社員のために」

しかし最初のインタビューの2006年時点では、田川さんが勤務する会社では就業規則で休職制度は設けられていたものの、精神疾患による休職は前例がなかった。今から20年近く前の時点では珍しいことではなかった。通院加療、自宅療養のため1週間程度、欠勤する診断書の提出を繰り返して、トータルで1か月以上など長期にわたって仕事を休むケースが徐々に増えていく。メンタルヘルス不調者に対する休職制度の充実が喫緊の課題だった。

そこで、田川さんは上司に心の病にかかった社員が診断書を提出して休職しやすくするために上司に進言するなど尽力し、2年後の08年、晴れて就業規則の「傷病休職」項目に、「精神疾患」が追記されることになった。当初彼が取材を受けてくれた理由でもあった「これからの会社と社員のため」にとっては紛れもなく画期的な進展である。

そしてこの後も新たなメンタルヘルス対策を打ち出し、実現させていくのだが、このあたりから、彼の積極的で、時にはアグレッシブな対策推進への進言によって、上司との折り合いが悪くなり始めたのではないかと推察される。

08年以降、田川さんは少しずつ、会社への不満を口にするようになる。09年、課長職のまま46歳の誕生日を迎えた直後のことだ。

「社員のメンタルヘルス不調は、会社の問題であって、個人の問題ではない。この点を上司の部長に訴えると、眉をひそめて露骨に嫌な顔をされました。その時点で意見を引っ込めるという手もありましたが、あくまでも自分の考えを推し進めた。その結果、就業規則に心の病での休職が明記されたんですが……それはつまり、自分の出世を見送ることにつながっているのかもしれませんね。これが、負け組の「万年課長」の始まりなんですかね……」

この時点で、彼は出世を完全に諦めていたかというと、そうではない。「誰か、わかってくれる上司が現れればいいんですけれど……」と最後につぶやくように漏らした言葉からも、そのことがうかがえた。

50歳目前で見せた「最後のあがき」

残念ながら、社員のメンタルヘルス不調を人事管理上の問題として、矢面に立って経営陣に改善策を要求する田川さんの姿勢を理解してくれる上司は現れなかった。実際には、田川さんが上層部に進言していた、管理職を対象にしたメンタルヘルス研修や、常勤の内科医に加えて精神科の産業医を非常勤で雇用することなどが数年後に実現し、大企業の中でも先進事例として業界紙で取り上げられるなどする。しかしながら、この間も上司との関係が思わしくなかったため、皮肉にも、彼の実績とはならなかったのだ。

いつしか、自らは課長のまま、所属する人事部の部次長も、部長も、自分よりも入社年次が下、つまり年下の上司となっていた。

2013年、50歳の誕生日まで1か月を切った田川さんは、それまで見せたことのない、苦虫を噛(か)み潰(つぶ)したような顔でこう、心境を打ち明けた。

「自分の手柄にはならなかったものの、結局は私が考えていた社員のメンタルヘルス対策が実現したわけですから……本当は気に病むことは何もないはずなんですが……。「万年課長」になることだって40代半ばの時点で予測していましたしね。うーん、何と言うんでしょうか……そ、そう、往生際が悪いというのかな……。50歳を目前にして、最後のあがき、とでも受け取ってください……」

幾度も沈黙を挟みながら、歯切れの悪い話し口調だった。

田川さんが言った通り、13年のインタビューを「最後」に、彼が仕事の不満を口にすることはなくなった。

なぜなのか。今でも明確な答えを教えてくれてはいない。だが、彼の取材での受け答えや、仕事と私生活に対する考え方の変化をたどるなかで、前向きに定年後の再雇用の日々を送るヒントが見つかるかもしれない。

再雇用で「働く意味を問い直す」

大きく分けて3つの変化があったように思う。1つ目は、働くことの意義、価値観である。厳密に言うと、定年退職後に再雇用をスタートさせるまでの50歳頃からの10年間について、定年後に働くための助走期間と捉え、労働に対する意味や考え方を変容させていったことだ。

まず、昇進することなく、課長職のまま55歳で役職定年を迎えるまでの間、部下の指導のみならず、上司にも、社員のメンタルヘルス対策はもとより、社員の採用から人材育成・能力開発、人事評価まで人事全般についてアイデアを次々と打ち出していった。そのプロセスで、部員たちからも信頼を集めていったのだ。

「50歳になってしばらくしてから、課長止まりであることにも吹っ切れ、年下の上司ともうまく人間関係を築くコツをつかめるようになっていったんです。上司も、私が人事部の古巣で、特にメンタルヘルス対策では私よりも熟知している部員がいないことはわかっていますからね。そうこうしているうちに……職場での地位に関係なく、仕事のやりがいを感じることが増えていって、上司や会社上層部への不満も払拭されていったように思います」

役職定年を迎えてから2か月後のインタビューで、そう仕事や職場に対する心持ちの変化を話した。

次に定年退職を迎えるまでの5年間は、さらに幅広い年代層の部員たちに人事のノウハウを伝授していった。特に若手の育成に貢献し、再雇用でも引き続き、同様の任務を担うことになったのだ。

「定年後の再雇用は、価値観の転換点。働く意味を問い直す必要があります。社内の上下関係や役職に囚われず、一人の働き手として、これまで長年、培ってきた経験やスキルを生かし、会社のために働くことに意義がある。そこにはもはや、偉くなって周囲から評価されたい、といった野心はありません。私の場合は、「万年課長」のつらさを経験したからこそ……まあ、『負け組』の底力とでもいうんでしょうか、そうした現役時代とは180度異なる価値観へと、難なく転換することができたのではないかと思っています」

私生活の充実と「先は気楽に」

そうして、私生活の充実も、田川さんにとって定年後を心地よく過ごすにあたって欠かせない重要なことだった。2つ目と3つ目の変化は、趣味の充実と、夫婦関係の改善である。

仕事の忙しさから30年以上も途絶えていた趣味の登山を50歳で再開し、妻とともに月に1度は山に登るようになったことで、ストレスの多かった状態から、健全な心身を取り戻していったという。

「自然を五感で楽しむことで、40代で悩んでいた、出世できなかったことや年下上司とのギクシャクした人間関係がなんてちっぽけなことだったのか、と思えた。大袈裟かもしれませんが、いろいろと経験を積んだ末の登山で、世界は広いんだということを、若い時とはまた違って感じることができたんです。本当にうれしかった。大学の登山部の後輩で専業主婦の妻とは年を重ねるにつれて会話が少なくなっていましたが、一緒に山に登ることで共通の話題も増え、良好な夫婦関係を築けるようになりました。定年後の仕事は、やっぱり私生活の充実とセットでこそ、うまくいくと思いますね」

24年春、田川さんは1年ごとの再雇用の契約を更新した。65歳までは働き続けたいと考えている。ただ、現時点では今の会社には、66歳以降の継続雇用制度はない。どう考えているのだろうか。

「何も考えていません。あっ、ははは……。この春に61歳になったばかりで、まだ4年先のことですから……。まあ、そう気楽に考えることができているから、今も仕事を続けられているのかもしれませんね。少しでも必要としてくれる会社、職場があれば、働きたいとは思っていますが……」

どこかで見た表情、だと思った。顔にシワが増え、頭髪が黒から白髪交じりのグレーに変わりはしたものの、18年前、初めて取材した時、メンタルヘルス対策の重要性について熱く語った顔つきに似ていた。

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