今年4月、6月、8月と3冊続けて発売された『決定版 零戦 最後の証言』(光人社NF文庫)シリーズは、私がこの30年のあいだに直接インタビューを重ねた元零戦搭乗員たちが、戦争をいかに戦い、激動の戦後をいかに生きてきたかを、本人の「証言」と戦中、戦後の写真とともに解き明かしたものである。登場人物は各巻8名で計24名。今回はそのなかから、『決定版 零戦 最後の証言1』に収載した中村佳雄氏の章より、唯一無二の体験とも言える「たった一人の漂流・放浪」から生還までの出来事を、リライトして紹介する。

零戦搭乗員、中村佳雄

太平洋戦争中、南太平洋における日本陸海軍の一大拠点だったラバウル。この地に展開した海軍の航空部隊は、俗に「ラバウル海軍航空隊」として知られ、その名を冠した歌(「ラバウル海軍航空隊」作曲・古関裕而、作詞・佐伯孝夫、歌・灰田勝彦)が国内でも大ヒットした。

だが、いかにも勇壮で軽快な歌の旋律とはうらはらに、ラバウルを拠点としたソロモン、ニューギニア方面の航空戦は、長く苦しい熾烈なものだった。開戦直後の昭和17年1月末、千歳海軍航空隊の九六式艦上戦闘機がラバウルに進出して以来、昭和19年2月下旬に航空隊の大部分がトラック基地に後退するまで、のべ2年1ヵ月におよぶ戦いに投入された搭乗員は、その4分の3が戦死。戦後、「零戦搭乗員会」が調査したところでは、ラバウルに進出した戦闘機搭乗員の、戦死するまでの平均寿命は3ヵ月、平均出撃回数8回、という数字が出ている。

そんな過酷な戦場で1年4ヵ月にわたり、一度の内地帰還もないまま百数十回もの出撃を重ね、誰よりも長く戦い抜いた零戦搭乗員が中村佳雄(1923−2012)である。

中村は大正12(1923)年、北海道上川郡上士別町(現・士別市)の農家に、7人きょうだいの三男として生まれた。昭和15(1940)年、手に職をつけようと海軍を志願し、横須賀海兵団に機関兵として入団するまでは、自転車も見たことがなく、汽車にも乗ったことがなかったという。基礎教育を修了後、戦艦比叡の機関科に配属されたが、ここで艦載水上機の勇姿に心を奪われ、飛行機搭乗員を志す。

昭和16(1941)年、部内選抜の丙種飛行予科練習生として土浦海軍航空隊に入隊。昭和17(1942)年5月、飛行練習生を卒業すると同時に第六航空隊(のち、第二〇四海軍航空隊と改称)に配属。同年10月、ラバウルに進出し、ソロモン、ニューギニア方面の激戦に参加。昭和18(1943)年6月には空戦で被弾し重傷を負うが、内地帰還を拒んで戦い続けている。

昭和18年10月20日、東部ニューギニア・クレチン岬に敵上陸との報に、磯崎千利少尉率いる二〇四空の零戦16機は、敵上陸用舟艇銃撃のためラバウル基地を飛び立った。中村は第二小隊長・片山傳少尉の二番機である。片山少尉は予備学生出身で、戦場に出てきたばかりだった。

被弾、落下傘降下

「行ってみると、海面には敵の上陸用舟艇がうようよといました。上空に敵機は1機もいないし、下からもほとんど対空砲火を撃ち上げてこない。それで、海面すれすれの超低空まで舞い降りて、海から陸地の方へ向かいながら銃撃しました。2撃か3撃、銃撃を繰り返しましたね。

そしてその帰り、高度5000メートルぐらいでしたが、我々よりちょっと上空を、コンソリデーテッドPB2Y、四発の大型飛行艇ね、あれが反航してくるのが見えました。それで、敵発見の合図に7.7ミリ機銃を撃って片山少尉に知らせるけど、彼はまだ経験が浅いせいか、キョロキョロするばかりで敵機がどこにいるのかわからない。それで、手信号で『お前、行け!』と言うから、編隊の前に出てバンク(翼を左右に傾ける)、『我誘導ス』の合図をして接敵、敵機の前下方から一撃をかけました。

いいところに命中してるのは見えたんですが、敵発見の伝達に手間どったために私の機のスピードが十分についてなく、撃ってから下方に避退するときの動きにキレがなかった。フワーッという感じになってしまって、そこを敵機の機銃に撃たれたんです。操縦席前の胴体燃料タンクに被弾して、バアッと火が出た。目の前が一面炎ですよ。ワーッ熱い!と思って何秒経ったか、気がついたら落下傘にぶら下がっていたんです。どうやって脱出したのか、全然記憶にありません。

落下傘が開くと同時に、敵機の方からバラバラと機銃を撃ってきました。後続の味方機が攻撃に入るとやみましたが、相当撃たれましたね。身を縮めて降下していきました」

中村が落下傘降下した場所は、ニューギニア本島から15浬(カイリ・約28キロ)沖合いの海上だった。

絶体絶命の海上漂流

「海面に着くと、磯崎少尉機が上空を旋回していて、私はそれに向かって手を振りました。その日はいい天気で風もなく、海はベタ凪ぎでした。確認してくれたから、これは夕方には助けに来てくれるわい、と、水中で邪魔な飛行靴を脱ぎ捨てて、フカ(サメ)よけにマフラーを足に結んで垂らしました。フカは自分より体の大きいものには襲ってこないといわれていたので……。ところが、味方機は夕方になっても来てくれない。

ライフジャケットで浮いてはいるけど、私は山育ちなもんで泳ぎができない。それでもはじめは、手足をバタバタさせて一生懸命前に進もうとしましたが、疲れてしまって、あとはただ浮いていました。夜になると、私のすぐそばを、人の何倍もある大きな魚がバシャバシャ跳ねて泳いでいるのが、月明りで見えた。あのへんは世界一フカの多いところだと聞かされていましたから、たぶんフカだったと思いますよ」

海上の思考

フカに身体を食いちぎられることを想像し、もう駄目だと観念した中村は、自決用に身につけていた十四年式拳銃をとり出し、夜空に向けて一発、試射してみた。すると、轟音とともに銃口から一メートル以上にもなる炎が出るのが暗闇のなかにはっきり見え、そしてまた、もとの静寂に戻った。

「やっぱりまだ子供だったんですね。いやー、これは、と怖ろしくなって、しまっとけ、と、また拳銃を元に戻しました。

それからまた、必死で水を掻いて少しでも陸地に近づこうと試みました。でも、20キロ以上も沖に降りたんだから、海岸に着くはずがありません。

やっぱり駄目だ、と思って、こんどこそ、と拳銃を頭にあてました。何とも思わないもんですよ。悲しくもなければ何でもない。失敗したな、これまでの命だ、と思っただけで。

それで、引き金を引いたけれど、カチッ、弾丸が出ない。いろいろ試してみたけど、とうとう出ませんでした。最初の1発は薬室に装填された状態なので発射されましたが、弾倉に残る8発は、長時間海水に浸かったために、バネが錆びついて装填されなかったのかもしれません」

いつの間にか眠っていた。気がつくと朝になっていた。

「泳げなかったのが幸いして、体力が残っていたんでしょう。気がつくと、すぐ近くに陸地が見える。夜のうちに風向きが変わって、陸地の方に吹き流されたみたいです。助かった!と思いました。

30分も足掻けば着くかと思い、また手足をバタバタさせてみたけど、そのときはまた、潮の流れが違っていたのかなかなか進まず、朝の9時頃泳ぎはじめて、岸に着いたのはもう日の暮れる頃でした。太陽はじりじりと照りつけるし、喉は渇くし、大変でしたよ。

その間、敵の飛行機が頭上にやって来て、おそらく私の降下地点を捜索してたんでしょう、旋回するのが見えたので、あわてて、フカよけに垂らしたマフラーをたぐり寄せ、見つからないようにじっとしていました。幸い、しばらく旋回して行ってしまいましたが。

結局、30時間近い漂流でした。ライフジャケットはその間、浮力の変化は感じなかったですね」

一人ぼっちの放浪生活

海岸にたどり着いた中村は、疲れ果ててそのまま樹の下で泥のように眠った。それから8日間、一人ぼっちの放浪が始まる。

「ニューギニアでは、ラバウルあたりとちがって現地人が友好的ではないし、ところどころに敵の見張所があって、捕まったら終わりです。

飛行服は海岸に埋め、裸になって防暑服を腰に巻き、カモフラージュに顔に泥を塗って、見当をつけた方向へ歩き始めました。

靴がないので、足が痛くて仕方がない。マフラーを裂いてそれを足に巻き、なるべく痛くないように工夫しました。でも、1日に歩けた距離はせいぜい5〜6キロだと思いますよ。体はいかれてるし、肩の骨は折れてるし、顔は大やけどしてるし。疲れたら木陰で休み休みしながら、歩き続けました。

腹が減って、何か食うものはないかな、と、川べりに生えてる草をかじってみたら、これが甘い。野生の砂糖黍だったんです。これには助かりました。

あとは、現地人が野菜を作った跡なのか、トマトやトウガラシが野生化して、びっしりと実をつけているんです。それから地面に落ちた椰子の実とか、自生している芋とか。そんなわけで、食糧が何とか調達できたのは大きかったですね。

歩き始めて3日めぐらいだったか、顔がかゆくて、川面に映して見てみたら、何か白いものがいっぱいついてる。手でこすってみたら、蛆がボロボロ落ちてきました。このあたりはハエがすごくて、昼寝をしていてもワンワンたかってくるんだから。それで、傷口に卵を産みつけたんでしょう。これはいかん、と思って、あわてて顔を洗って、泥を塗り込んで、それからはマメに手入れをするようになりました。

漂流の終わり

やはり3日めぐらいの晩、海岸に近い、誰もいない小屋にもぐり込んで泊まりました。部屋の隅でぐっすり眠っていると、ふと気配を感じて目が覚めました。外から何か音が聞こえる。ボートのエンジン音です。しばらくすると、海岸にボートをとめて、人が2人ぐらい、小屋に入ってきた。もちろん敵兵ですよ。

もう遅い、これは捕まるかな、と観念しました。抵抗したり、自決するほどの体力も残ってない。息をころしてじっとしていると、敵兵たちは小屋のなかを探すでもなく、二言、三言何かを話すと、それからまた出ていったんです。

彼らが外に出てからも、話し声が聞こえました。ボートまで40〜50メートルだったと思いますが、そこからも声が聞えてくる。

すると、彼らのうちの誰かが、突然、空に向かって機銃をバババーッと撃ちまくった。日本兵がどこかに潜んでいたら出てくるとでも思ったんでしょうが。

夜が明けて、それからずっと歩いていくと、川がありました。幅が20〜30メートル、わりと浅くて歩いても渡れそうに思えました。

見つからないようにと草むらの見通しの悪いところを選んで渡ろうとしたら、目の前で大きなワニがポコッと頭を上げた。びっくりしましたね。これはいかん、と上流に向かって歩いてゆくと、現地人の家が2、3軒あって、水辺にカヌーが浮かべてある。草の間に隠れて様子をうかがうと、家のなかには人の気配がありました。

そこで、カヌーを貸してくれと言うわけにもいかんから、かっぱらう機会を待ちました。しかし、夜になってしまうと対岸まで渡る自信がないので、意を決してそっとカヌーに近づき、飛び乗って、対岸めざして漕ぎだした。すると、川の中ほどまで来たときに気づかれて、現地人が出てきてワーワー言ってる。何か言いながら手を上げているからこっちも手を上げたら、2人が別のカヌーに乗って追いかけてきました。

必死で漕いで対岸まで渡りきり、カヌーをポーンと離したら、彼らはもう追ってきませんでした。別の部族か何かがカヌーを盗みにきたとでも思ったんでしょう。

その後も海岸線を歩き続け、途中、日本陸軍の不時着機を見つけてそのなかで一夜を過ごしたりしながら、ようやく8日めに陸軍部隊と遭うことができたんです。

小屋から声が聞こえるから、敵かと思ってしばらくジャングルに潜んで見ていました。味方のような気もするし……と、小屋の外に三角に立てかけてある小銃の上に載せられた鉄かぶとの星のマークに気がついて、これは日本の陸軍だと。

それで、オーイと声をかけたら、兵隊が鉄砲を構えて出てきましたね。味方だ、日本の海軍だ、と言うと、そうかそれは、と、飯盒でお粥を炊いてくれ、傷の手当てもしてくれました。この陸軍部隊は、准尉が指揮官で、前線の傷病兵を交代させるための部隊だということでした」

続く戦い

中村は陸軍部隊とともに、さらに10日間以上にわたって歩き続け、ようやく陸海軍部隊が集結しているフィンシュハーフェンにたどり着いた。そしてここで海軍陸戦隊に引き渡され、ちょうどその日の夜、補給のために来た潜水艦に便乗してラバウルへ帰れることになった。

中村を乗せた潜水艦は、道中、敵駆逐艦による爆雷攻撃を受けながらも数日後にはラバウルに入港した。落下傘降下から1ヵ月近くが経過していた。

ときに昭和18年11月半ば。すでに中村と一緒にラバウルに進出した搭乗員はほとんどが戦死し、数少ない生き残りである大正谷宗市上飛曹、大原亮治一飛曹、坂野隆雄一飛曹の3名は、中村が海を漂流していた10月下旬、内地への転勤命令を受け、11月上旬には輸送機でラバウルを発っている。中村は、二〇四空でいちばん古くからいる搭乗員になっていた。

「陸戦隊で打ってもらった電報が届いておらず、私はとっくに戦死したことになっていました。のちに日本へ帰るときに司令・柴田武雄中佐が言ってましたが、実は大原たちと一緒に転勤命令が来ていたんだと。ところが、行方不明、戦死認定になっていたので、それを取り消す手続きをする間、残されたということだそうです」

中村はその後も連日の邀撃戦に参加、昭和18年12月27日には、ラバウル上空でF4Uコルセア戦闘機1機を撃墜している。

「うまい具合に、敵機に気づかれないまま追尾できて、うんと近づいて射撃、あやうく追突しそうなところで左にかわすと、その瞬間、そいつはバアッと火を噴きました。しかしそのとき、驚いて振り返った相手のパイロットの顔を、間近ではっきりと見たんです。

めったにないことだけど、自分が撃った相手の顔を見るのは嫌な気持ちでしたね。戦後も、あの恐怖に引きつった顔を夢にまで見ましたよ。あれはいまでも忘れられません」

そして終戦へ

中村に、ようやく内地への転勤が発令されたのは、昭和19(1944)年1月のことだった。新たな任地は厚木海軍航空隊である。ラバウルに進出してから1年4ヵ月が経っていた。

そしてしばらく、厚木海軍航空隊で教員配置についたのち、同じ厚木基地に本拠を置く第三〇二海軍航空隊に転勤を命ぜられた。昭和19年12月3日には局地戦闘機雷電を駆って、銚子上空を単機で飛んでいた手負いのB-29に対し直上方から攻撃をかけ、これを撃墜している。

昭和20(1945)年の元旦を厚木基地で迎え、こんどは第三四三海軍航空隊に転勤を命ぜられ、愛媛県の松山基地に着任した。――そして終戦。

矜持を胸に

「鉄道は復員者でごった返していて、郷里の北海道に帰るのも容易ではなかった。生家は農家でしたが、その頃は澱粉工場も営んでいて、私はとりあえず、その工場を手伝うことになりました。全国的に食糧難の時代、北海道の食糧事情はさらに悪く、米の飯などとても食べられませんでしたね。結婚したのは昭和24(1949)年、26歳のときです。28(1953)年、独立して木材の会社を始めました。主な仕事は造材請負い。それから40年間、ずっとこれ一本でやってきました。

しかしね、ラバウルでの月日はほんとうに長かった。それに比べて、帰ってからの歳月の短かったこと。戦争中の出来事は、日付や人の名前まではっきりと憶えているのに、戦後のことは、何が何年にあったかさえ思い出せなかったりします。

戦場で一緒だった戦友も、それがたとえ半年の付き合いであっても、いつまでも忘れられません。戦友会で会っても、いつも同じ話を繰り返すだけなんだけど、話が尽きることはありません。戦中戦後を振り返ってみると、誰よりも長く戦場にいて、命を懸けて戦い、そこを生き抜いたという自信、実力では負けなかったという誇り、これは重みがありますよ。ああいうことがあったからこそ、その後の私がある。ほんとうにそう思います。いまはもう、4人の息子たちも立派に成人してくれて、天下泰平の日々ですがね」

平成24(2012)年11月29日、死去。享年89。

――自転車も見たことがなかった地方の農家の三男が、手に職をつけて独立するため海軍に入った。そして空に憧れ、たった2年で戦闘機搭乗員となった。訓練中に戦争が始まり、激戦地・ラバウルに送り込まれて誰よりも長く戦い、数多くの敵機を撃墜しながら奇跡的に生き残って終戦を迎えた。戦後は、戦時中とはまったく別の職業についたが、戦闘機乗りとしての矜持を胸に必死で働き、戦後の日本復興の下支えとなった。

大正年間に地方で生まれ、激動の昭和を生きた、誠実な庶民の歴史そのものの縮図のような生涯だった。

【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!