かつて一時代を築き上げながら、生活保護を受け市井に沈んだ「伝説の一条」...その人生を世に知らしめた”遊軍記者”と彼女の「意外な出会い」

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1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。

「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。

『踊る菩薩』連載第111回

『かつて子を捨てた贖罪か...ストリッパーを引退した一条さゆりがドヤ街の人々に向けた『母親のような優しさ』』より続く

特捜部担当の新米記者

私が一条さゆりに興味を持ったのは1995年秋である。1月の阪神・淡路大震災、3月の東京・地下鉄サリン事件は、終戦から半世紀となった日本社会の変革期を実感させた。

秋になってもオウム真理教を巡るニュースが続いた。9月には教団に殺害された弁護士、坂本堤夫妻と長男の遺体が見つかり、10月には東京地裁が教団に解散命令を出した。

私は前年の94年から、新聞社の社会部で大阪地方検察庁特別捜査部(特捜部)を担当していた。脱税や汚職事件を追って検察官や検察事務官を取材する日々である。いわゆる「夜討ち朝駆け」で、朝は捜査員の出勤前、夜は帰宅後に取材をする。

特捜部は極秘で捜査を進める。贈収賄にしても脱税にしても、検察の担当する事件には直接の被害者がいない。そのため被害者の証言から事件の全体像に迫ることは不可能で、事件に関与した者たちに悟られないよう注意を払う。情報が漏れた途端に捜査は行き詰まる。捜査する側は情報を秘匿する必要がある。

情報の壁が厚い相手を取材することで、記者は情報の取り方、確認の仕方を学ぶ。新聞社が、若い記者に検察や警察を担当させるのはそのためだ。

検察担当記者はとにかく特捜部の動きを追う。そのため書く機会は極端に少なくなる。まずは捜査情報をつかむことが第一であり、執筆は二の次だ。

殺人や詐欺など警察が担当する事件では、被害者自身や彼らを守ろうとする弁護士、市民グループを取材して、人間ドラマも書ける。検察担当はそれも難しい。

書くことが好きで記者になった私は、特捜部への取材に面白さを感じながらも、執筆機会の減少に閉塞感も覚えていた。

「まだ生きていたのか」

検察を担当すると、平日は多忙だが、週末の昼間は比較的、時間がある。私は以前から興味を持っていたシナリオや翻訳の教室に通いながら、執筆意欲を持ち続けようとしていた。

そんなとき、大阪・釜ケ崎の「炊き出しの会」からミニコミ誌「絆通信」が届いた。それに目を通し、伝説のストリッパーが日雇い労働者の街に暮らしていると知った。

アジア初となる東京オリンピックが開かれた64年に生まれた私は、「一条さゆり」の名で自らの記憶を体験的に呼び戻されはしない。同じ時代を生きた感覚はゼロである。私が記者になった年に一条は大やけどを負っている。メディアが久々に彼女の名を紹介しても、それは私の興味の外だった。

ミニコミ誌にその名を見つけたとき、「まだ生きていたのか」と思った。そして、58歳という歳に驚いた。老人でさえないのか、と。

彼女について、ストリップ界で一時代を築き上げ、わいせつ裁判で権力と闘った女性という程度の知識はあった。その彼女が釜ケ崎で生活保護を受けながら暮らしている。

「一世風靡」「伝説のストリッパー」「特出しの女王」といった派手なイメージと、「労働者の街」「生活保護」という実情があまりにかけ離れているように感じた。反権力の闘士が国の世話になっている。「一世風靡」から「日雇いの街」へ。この人生の道のりを彼女はどう生きてきたのだろう。私は気になりながらも特捜部を追い続けていた。

96年の4月、特捜部担当を外れ、遊軍記者になった。比較的自由にテーマを決め、取材できるようになった私は、一条に会ってみようと思った。手紙でその趣旨を伝えると、すぐに電話をくれた。

生活保護で暮らす元女王

「手紙を受け取りました。会いたいって言われても、あたし、もう踊ってませんからね」

私の興味が現役時代にあると考えているようだった。

「とにかく1度、お会いできませんか。そのとき、説明したいんですが」

「来てもらってもええんやけど、あたし、身体こわしてるから。どこまで話できるかわかりませんよ」

88年の大やけどについて言っているのかと思った。少し震えるような声だったが、聞き取るには十分である。その場で訪問日時を決めた。

最初の訪問は96年5月27日だった。アポイントをとってはいたが、一条が対応してくれるのか、私は半信半疑だった。体調がよくないと聞かされたためだ。治療に出たり、入院したりしている可能性もあるだろう。

老舗和菓子屋「出入橋きんつば屋」(大阪市北区)で10個入りのきんつばを1箱買った。

96年は年初から、住宅金融専門会社(住専)の処理が社会問題となっていた。日本経済が実態以上に膨れ上がり、全国が好景気に沸いたバブル経済期、住専は不動産会社に多額の貸し付けをしていた。「バブル」の泡が消えた途端、その多くが回収不能となり、政府は6千億円を超える税金を投入して、処理するしかなかった。

住専の不良貸付先の不動産会社は大阪にも多かった。ミナミの繁華街を中心に多数のテナントビルを持つ末野興産とその社長は、この問題を象徴する存在になっていた。

連日の住専関連ニュースでは数千億から数兆円といった数字が飛び交っている。途上国の国家予算を上回る規模の数字である。私が釜ケ崎に一条を訪ねたのは、日本が「泡」の始末に追われる時代だった。

大阪で4月に末野興産社長らが逮捕されたのに続き、東京で桃源社社長が競売入札妨害容疑で逮捕されたのが5月27日。私が一条を訪ねた日である。

『部屋の扉を開けたまま“死んだように”眠っていて...伝説のストリッパーの取材に恐る恐る訪れた遊軍記者を待っていた「まさかの事態」』へ続く

部屋の扉を開けたまま“死んだように”眠っていて...伝説のストリッパーの取材に恐る恐る訪れた遊軍記者を待っていた「まさかの事態」