専業主婦から、いきなり「ベストセラー作家」へ…絵本『ぎょうざが いなくなり さがしています』創作アイデアの源になったもの
専業の主婦からプロの絵本作家デビュー、第1作がヒットを飛ばし注目を集めている玉田美知子さん。就職・結婚・出産・子育て……ライフステージが変化する中で「夢をあきらめず」挑戦できた理由、受賞作を生み出すまでに実践したことを、詳細に教えていただいた。
第8回未来屋えほん大賞の話題作はなぜ生まれたか
話題沸騰の絵本『ぎょうざが いなくなり さがしています』は、2022年に講談社絵本新人賞を受賞。
2023年8月に刊行すると、みるみる重版を重ね、すでに5万部を超える勢いである。
今月(2024年9月)には、ベストセラー『大ピンチずかん』(鈴木のりたけ作、小学館)や、大人気シリーズ「パンどろぼう」の一作も受賞した未来屋えほん大賞にも輝いた。
遊び心あふれる絵と奇想天外な話の展開に、何度読んでも思わずクスリと笑ってしまう絵本だが、40代後半で絵本作家としてデビューした作者の玉田美知子さんは、意外にもつい最近まで専業の主婦だった。子育てや家事にいそしみ、日々の暮らしを楽しんでいたという。
その生活を変えてまで、絵本作家を目指させたものは何だったのか? 夢を実現させるために何をしたのか? 玉田さんに「好きを仕事にする」ための歩みを伺った。
中学2年で絵本作家を夢見る
──絵本『ぎょうざが いなくなり さがしています』は、中華料理のお店から、焼きぎょうざが行方不明になったという設定です。
冒頭の「……ぎょうざがいなくなりさがしています。とくちょうはひだが5つあるひとくちサイズのやきぎょうざです。……」と町内アナウンスが入るシーンから、お話にグッと引き込まれてしまいます。
玉田美知子さん(以後、玉田さん):私の住んでいる地域では、「サルが駅前に出没しました。ご注意ください」などのお知らせや、「こんな年ごろでこんな服装の人が、いつごろいなくなりました」といった内容の町内アナウンスが流れることがあるんです。
聞くたびに、「どこにいるのかな」と心配になるのですが、しばらくたつと、「見つかりました」という放送が流れて、ほっと胸をなでおろします。
あるとき家族でテーブルを囲んでいるときに、「ふだん逃げ出さないものがいなくなったら楽しいよね」と話していて思いついたのが、「迷いぎょうざ」を主人公にしたストーリーです。
──ビジネスマンも大好物のぎょうざがテーマですから、ついつい大人も読んでみたくなる絵本ですね。読み終えると、ビール片手にぎょうざをつまみたくなってしまいます。
〈『ぎょうざが いなくなり さがしています』は、ある日、中華料理店から焼きぎょうざが行方不明になり、町内放送がかかって町の人たちが驚くというストーリー。ぎょうざはどこでどんな大冒険をしたのか? どうやって中華店に帰ってくるのか? 丹念に描かれた絵のすみずみまでユーモアにあふれた作品で、奇想天外なラストが「そうきたか!」とニヤリとさせられる。刊行と同時に、メディアにも取り上げられた話題の絵本〉
──絵本作家になりたいと思ったのはいつごろからですか。
玉田さん:中学2年生のころだったと思います。
絵本との出合いは、少し遡りますが、保育園に通っていたころ「キンダーブック」という絵本を定期購読していました。当時は馬場のぼる先生、やなせたかし先生、佐々木マキ先生などそうそうたる方々の作品が載っていたんです。
玉田さん:田舎に住んでいましたから、絵本が毎月届くのがすごく楽しみだったという記憶と、絵本から得られる情報がすごくたくさんあって、「絵本っていいな」と思っていました。
絵本を読むのも絵を描くのも好き。保育園のお友だちに似顔絵を描いてあげて喜んでもらえるのがうれしかったことを覚えています。小学校に入ってからは図工や家庭科など、モノをつくる授業がとても好きでしたね。
それから、中学2年生で進路を考えたときに、「将来、できたら絵本を描く人になりたい」と思うようになりました。高校は先生の勧めもあって普通科に進み、大学で美大を目指すことにしたのです。
高校2年生の冬休みからは、美術予備校に通うようになりました。受験まで1年あまりのあいだ、日曜日以外は毎日、片道2時間くらいかけて行っていたんです。夕方5時から8時までの授業で、家に帰るのは毎日夜10時すぎでしたね。
──子どもには遠いですね! 頑張りましたね。
玉田さん:それだけ頑張ったのですが、残念ながら受験には落ちてしまいました。それで受験浪人に。東京で一人暮らしをして、美術予備校に通いました。
会社を退職 「ほんとうにやりたい仕事なのか」
──翌年、大学は合格されたのですか。
玉田さん:はい、多摩美術大学立体デザイン専攻のインテリアデザインコースに合格しました。ほんとうは、グラフィックデザイン学科に入りたかったのですけれど……。入学してからは、いつか転部しようと思いながら、好きな絵を描いたりしていました。
大学の図書館で、ブルーノ・ムナーリの絵本を見つけて、「こういう絵本をつくりたい!」と思ったりして。最初のころは、絵を描くこと、絵本をつくることに気持ちがまっすぐ向かっていました。
でも、あるとき友人から「ドラマーがいないんだ、ドラムを教えるから」と誘われてバンド活動を始めると、音楽のほうに夢中になってしまったんです。スタジオに毎週入り、ライブ活動をしたり、デモテープのジャケットのデザインをしたりしているうちに、音楽が楽しくて絵を描くことから遠のいてしまいました。
大学を卒業すると、文房具のデザインをする会社に就職したのですが、その会社は数ヵ月で辞めることにしました。
──なぜ辞めたのですか。
玉田さん:通勤が大変ということもありましたが、「これがほんとうに私がやりたかったことなのかな?」という気持ちが膨らんでいったんです。
バンド活動も続けていましたので、通っていたCDショップでアルバイトをして、「お金がたまったらスペインに行ってサグラダ・ファミリアを見たいな」なんてのん気に過ごしていて、将来のことは何も考えていませんでしたね。
──そのころは、絵は描いていなかったのですか。
玉田さん:就職した会社はMacを使ってデザインをする仕事でしたし、自分の絵を描く時間は一切ありませんでした。
子育てで「絵本作りの夢」を思い出す
──また絵を描こうと思われるようになったのは、いつごろからですか。
玉田さん:結婚して子どもを出産したあとです。子どもを連れて、毎日のように図書館に通うようになりました。子どもに絵本を選んだり、私も図書館の絵本を端から読んで、「やっぱり絵本っていいな」とふたたび感じるようになりました。
その間も好きだったモノづくりはしていました。「かうよりもりようか」という、上から読んでも下から読んでも「買うよりも利用化」となる回文を店名にして、海岸でシーグラスや流木、山に落ちている木を拾ってきたり、折れたドラムスティックなど、使われない身近なものを利用して、モノづくりをしていたんです。
でも、絵本は描いていませんでした。
──実際に絵本を描き始めたのは、どんなタイミングだったのですか。
玉田さん:子どもが高校に入学すると親の手を離れていき、自分の時間が持てるようになったんです。そうして、久しぶりに絵を描くようになりました。
──いよいよ絵本をつくりはじめるのですね!
玉田さん:そうですね、それで絵本教室に通うようになったんです。勇気を出して申し込んで、自分を追い込んで頑張ろうと思いました。それが5〜6年前ですね。
絵本作家を養成する実践的なスクールに通う
──どんな絵本教室に通われたのですか。
玉田さん:築地にある「パレットクラブスクール」という、プロフェッショナルから直接指導が受けられるイラスト専門スクールです。そこに絵本コースがあるんです。20代前半の若い方から、主婦の方、すでに絵本の出版経験のある方まで、受講生はさまざまでした。
毎週日曜日に2時間の授業で8ヵ月間に33講座があり、絵本作家さんや編集者さんが教えに来てくれました。イラストレーターで絵本作家の飯野和好さん、絵本作家のtupera tuperaさん、石津ちひろさんなど、講師は第一線で活躍中の素晴らしい方ばかり。
飯野さんは着物を着てハットをかぶってお越しになり、自作の三味線のような楽器をベンベン!と鳴らしてくださって。すっかり見とれてしまって、質問するのも緊張してしまいました。ただのファンになってましたね。
作家の先生方にはそれぞれの描き方があって、それを直接見られたのがとても勉強になりました。そこで「自分なりの描き方を探すことが大切」と気づきました。ここに通ったことが、ほんとうに今の私の土台になっていますね。
〈パレットクラブスクール/1979年、イラストレーターの安西水丸、ペーター佐藤、原田治、アートディレクターの新谷雅弘が「パレットくらぶ」を結成。1997年、次世代のイラストレーターが学べる場として、原田治が生まれ育った築地に設立。第一線に立つ現役のプロフェッショナルから直接指導が受けられる、実践的なイラスト専門のスクール。次世代のイラストレーターや絵本作家を応援している〉
子育ての経験が絵本づくりに役立った
──絵本づくりに、お子さんを育てた経験が生きたのではないですか。
玉田さん:絵本をつくりたいと思ったきっかけは、確かに子どもへの読み聞かせのときでした。子育ても少し落ち着いて、自分がやりたかったことに挑戦しよう、と心に決めました。
──スクールでは、どんな課題が出るのですか。
玉田さん:例えば、ハロウィンをテーマに絵本のラフをつくるとか、リンゴをモチーフに一枚絵を描くなどです。先生によって課題がいろいろで、作っていくと講評をいただけるんです。
ちゃんと取り組めば、頑張った分だけ自分の力になる
──初めて作った作品が賞をとりますね。
玉田さん:パレットクラブスクールのやぎたみこ先生の講座で、「子どもがちょっと怖いと思うものでキャラクターをつくって絵本を描く」という課題をいただいたんです。
それでつくった『しりとりきんちゃく』という作品を「ピンポイント絵本コンペ」に応募したら、入選をいただくことができました。
──とんとん拍子ですね!
玉田さん:入選しても出版の確約があるわけではありませんので、より完成度を上げなければと思いました。
そこで、「nowaki絵本ワークショップ」という絵本作家を目指す人のためのオンラインワークショップを受講しました。毎月2回、11ヵ月で全22回のオンライン講座です。あらかじめスキャンして送っておいた作品を、受講生の前で講評してもらってブラッシュアップしていくというものでした。
〈nowaki絵本ワークショップ/絵本編集者筒井大介が講師をつとめる、プロの絵本作家を目指す人のためのオンライン(Zoom)ワークショップ。あらかじめデータで送っておいた絵本ラフを、Zoomで画面共有して読み聞かせののち、講師が講評する。オンラインなので、全国どこからでも参加できる〉
──さらに勉強されたのですね。
玉田さん:講師の編集者の方が1対1で意見をくださるのですが、自分の技量がなさすぎて、要求に応えられない。おっしゃることはわかっても、提案された構図が描けなかったり、助言に沿ったストーリーがつくれなかったりで、苦しかったですね。
一つの作品の精度をあげていくのは、すごく難しいことなのだと痛切に感じました。でも、ここでちゃんと向き合ってやっていけたのが、講談社の絵本新人賞受賞につながったのではないかと思います。
「学んでいるこの時間を無駄にしてはいけない」という気持ちで、一つひとつの課題に取り組みました。大人になってから学校に通うと、やる気と根気が子どものころとは全然違うように思います。
──それだけ苦しい気持ちを抱えて、くじけなかったのはなぜですか。
玉田さん:「パレットクラブスクール」に通っていたときもそうでしたが、「ちゃんと取り組めば、頑張った分だけ自分の力になる」と気がついたからでしょうか。だから、最後まで頑張りぬくことができたのだと思います。
人生で初めて1番を目指そうと思った瞬間
──「ピンポイント絵本コンペ」の次は、講談社の絵本新人賞に応募されますね。
〈講談社絵本新人賞/1979年より開催されている講談社主催の創作絵本の公募新人賞。息長く絵本作家として作品を世に出し続ける作家を育てることを念頭においている。新人賞受賞者の作品は、講談社より単行本(電子書籍含む)として刊行される〉
玉田さん:はい、『じごくの2ちょうめ5ばんち9ごう』という作品で、佳作をいただきました。
──地獄に住所があるのですね。面白そう!
玉田さん:タイトルのインパクトだけが(笑)。「よし! 佳作だ」と大喜びしたものの、新人賞ではなかったので、本にして出版してはもらえないんです。そうか、本にならないのか。新人賞をとらないとダメなんだ、とそのときにわかりました。
「じゃあ、もう1回、今度こそ新人賞を目指すぞ!」と決意しました。それまであまり順位というものに執着して生きてこなかったので、人生で初めて1番を目指そうと強く思った瞬間だったかもしれません。
その想いを込めて描いたのが、翌年の応募作『まよいぎょうざ』でした。
でも、前回の応募作の地獄よりも面白くなければ、新人賞はいただけません。地獄とぎょうざの作品を何度も見くらべているうち、これは面白いのか面白くないのか、だんだんわからなくなってきて……。
家族や友人にも見てもらって、いろいろな意見を聞いて描き直していました。ラストシーンも、子どものアイデアをヒントにしたんですよ。
でも、応募してからはすっかりネガティブな気分になり、「もうダメだ……もうダメだ……」と毎日思っていました。
──新人賞受賞の連絡が来たとき、どう思いましたか。
玉田さん:信じられませんでした。一次、二次、最終と、選考が3回あるんです。1年前に経験していますから、受賞の連絡がくる日を勝手に予想してしまいまして。
一次、二次を通過して、「今日電話が来なければ、落選だ。来年また頑張ろう」とがっくりしていたとき、電話が来たんです!
──よかったですね。
玉田さん:思い出しただけでも、泣けてきます……。
──その作品が本になって世に出るのですものね。
玉田さん:はい、毎朝、目が覚めるたびに「夢だったんじゃないか」と思ってました。家族もとっても喜んでくれました。それからは、編集の方の意見をいただきながら手直しして、『ぎょうざが いなくなり さがしています』という絵本として刊行することができました。
「好きなもの」を大事にしていく
──どんな絵本づくりを目指していきたいですか。
玉田さん:一見、明るい絵本だけど、ただのハッピーエンドではなく、「おっ、そうきたか!」と思うような、ちょっと一捻りあるお話も私は好きです。
──絵本の次回作を考えていますか。
玉田さん:絵本を出版してから、ありがたいことに、たくさんの餃子情報をいただく機会が増えました。おいしいお店を教えていただいたり、地方の冷凍餃子を送っていただいたり。
ですので、まずはぎょうざのお話の第2弾をつくりたいと思っています。ほかにも、食べものの本のリクエストもいただいていますし、いつかコーヒーの絵本も描きたいです。
キャラクター商品もつくりたいと思っています。今日、胸につけているのはぎょうざのブローチですが、これも私がつくったんですよ。「かうよりもりようか」の体験が役に立っています。
──『ぎょうざ がいなくなり さがしています』の絵本から、たくさんのアイデアが膨らんでいきますね。思い切って絵本作家の道を進む決心をしたことが、道を開きましたね。一歩を踏み出そうか悩んでいる人に、アドバイスをお願いします。
玉田さん:アドバイスなんてとてもできませんが、一つ気づいたこともあります。絵本作家を目指してスクールに通っているころ、ちょうど親が病気を患い、たいへんな時期でした。でも、絵本の勉強をしていたことで、自分を支えることができたように思います。
何か新しいことを始めなくとも、自分の好きなものを大切にしていくことができればいいのではないでしょうか。「好き」と思えることを大切にしたいと思います。