「朝ドラらしいシーン」をわざと再現か…橋本環奈の朝ドラ『おむすび』に透けて見える「制作陣の意識」

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分水嶺は「昭和の戦争」

今回の朝ドラ『おむすび』は現代劇である。

主演は橋本環奈。

舞台は「平成のどまんなか」で平成16年(2004)から始まった。

どこをもって現代劇とするかはむずかしいところだが、朝ドラでいえば、昭和の戦争が入っているかどうかがひとつのポイントだろう。

先週終わったばかりの『虎の翼』は夫を戦争でなくすというどっぷり戦争の影響を描いたドラマであったし、そのひとつ前の『ブギウギ』も同じ時代を扱っていた。昭和10年代を生きているとき、この先どないなりますのんや、と右往左往するドラマである

さらにもうひとつ遡ると『らんまん』で、これは明治時代がメインの物語だったから、関東大震災のほうが大きく扱われていたが、でも昭和の戦争も(ほぼ最終盤ではあったが)しっかり描かれていた。

このあたりの朝ドラは、「時代もの」だと言えるだろう。

朝ドラはもともと現代ドラマであった。

「前向きに頑張る現代劇」がいきづまった理由

始まったのがまだ「戦後」と言っていいような昭和30年代であり、ヒロインも見ている人もだいたい戦争で恐ろしい目にあい、戦後に苦労してがんばった世代であった。

明治生まれの人の物語であっても、当時はまだ「現代の話」(ないしは現代と密接につながる話)であったのだ。

最初期は、戦争の話がしっかりと入ってくるが、でもいまの物語だったのだ。

朝ドラが、その世代の支持を受けて、視聴率が30%台だったのは平成5年までである。

半年のドラマ平均視聴率が30%だったというのはとんでもない数字だったのだなとおもうのだが、つまりはそれはほぼ昭和の出来事である。

そのころはあまり知られていない新人女優を抜擢して、前向きに頑張る現代劇を作って、受けていた。20世紀中はまだ何とかそれで乗り切れていた。

でも21世紀となると、そもそも戦争経験世代が少なくなってきて、いきづまってくる。

昭和ものは「時代もの」

2006年には、初めてヒロインのオーディションをとりやめ、宮崎あおいを指名してドラマを作った。それが『純情きらり』である。これは昭和ものであった。

そのあと現代劇が続き、そして2010年4月、放送時間が15分早まったときに放送されたのが『ゲゲゲの女房』であった。

これも昭和ものである。

ここをきっかけに朝ドラが少し変わっていく。

昭和で舞台が完結する物語は、21世紀から見れば「時代もの」と言える。

このあと2010年代は「時代もの」が多くなった。

時代ものといっても、必ず戦争が含まれるわけではない。

『梅ちゃん先生』は昭和20年を舞台に始まったが、戦争が終わったところからであった。

『なつぞら』は空襲シーンから始まったが、それはオープニングだけで、戦後を舞台として物語は進んでいった。

『ひよっこ』は昭和39年(1964)から物語が始まり、数年間の様子を描いていたばかりで、戦争はまったくふくまれていない。でも平成には入ってない。昭和で完結している。

そういう「戦争は含まないがもう現代とはいえない昭和」を舞台としたドラマもいくつか作られた。

2010年の『ゲゲゲの女房』以降の完全な現代劇は少ない。

じつは「心配なところ」

まず『純と愛』(2012年10月)と『あまちゃん』(2013年4月)と連続して現代劇であったが、そのあと少し間が空いて次は『まれ』(2015年4月)。

その先はまた5作あいて『半分、青い』(2018年4月)である。2010年代の現代ものはそぐらいだった。

2020年代での現代劇(舞台がおおよそ2000年以降)の作品は『おかえりモネ』(2021年4月)、『舞いあがれ!』(2022年10月)の2作である。

いまは昭和の物語(ないしはさらにそれより古いもの)が多くなっている。

そして、3作ぶりに『おむすび』で現代ものとなった。舞台は平成16年の2004年。

2004年が現代なのか、というふうなことを言いだしたらきりがないので、2000年以降が舞台だと現代ものとさせてもらいます。

ここのところ、昭和ものに見慣れていたので、その目から見ると現代ものドラマはやはりちょっと雰囲気がちがう。

正直なところ『おかえりモネ』や『舞いあがれ!』は、時代ものに比べてややインパクトが弱かったので、そこのところが心配でもある。

それを意識してか、『おむすび』は第一話から「朝ドラらしいシーン」をわざと入れてきていた。

冒頭、橋本環奈が高校の制服の着こなしに悩んでいるところから始まって、すぐに家族の食卓シーンとなった。

「お馴染みのシーン」をわざと再現?

父と母と祖父と祖母が並んで向かいあって食事をしている。

父が北村有起哉、母が麻生久美子、祖父が松平健で、祖母が宮崎美子、四人が向かい合って食事をしている平和なシーンから始まり、でも、四人がきちんと座って向かい合って食事をしているというシーンも、あらためて見ると、ずいぶんと「朝ドラらしいシーン」である。リアルにこんなふうに朝食をゆっくり食べている家庭は、そんなにないとおもえる。

平成のころの朝ドラお馴染みのシーンを、わざと再現している、という感じがした。

食卓シーンのあとオープニング曲となって、自転車にまたがってヒロインが一人、高校に向かって漕いでいく。

これが見事な田園風景なのだ。

ずっとヒロイン一人きり。誰もいない田畑のあいだをヒロインの自転車が一人いく。まあ本当にそういう地方はいまもあるのだろうが、でもすでにこのシーンが昔っぽい。ふと明治時代の熊本の田舎を自転車を乗り回す女性をおもいだしたくらいだ(『いだてん』の綾瀬はるかさんです)。

学校の帰りに、ヒロインは海辺に寄った。埠頭から海を眺めているシーンである。

どこまでも続く田園シーンと、すぐ近くに海があるというシーンを存分に見せて、都市周辺だけど自然が豊かだと見せて、これがとても朝ドラっぽい。

そしてこの海辺で、小さい男の子が帽子を海に落としたのを見て、ヒロインは埠頭から飛び込んだ。

飛び込んでから自分で、私は何をやっているんだ、朝ドラのヒロインか、とつぶやいて、朝ドラヒロインが、私は朝ドラヒロインかとつっこんでいるという、そういうメタ構造でもある。

野球部との関わりが?

制服姿のまま、つまりそこそこ短いスカート姿のままヒロインは海に飛び込んでいたのだが、でもどこにも緊急性はなかった。急いで飛び込む必要がない。少なくともスカート姿で飛び込む場合ではない(着換えて飛び込むのも変だけど)。

「むこうみずで元気あふれる女子」というわけでもなさそうだった。

ただヒロインらしい行動をみせるためだけに飛び込んでいた。

ばかばかしくて、とてもおもしろい。

このときヒロインが溺れていると勘違いした野球部員が飛び込んでくる。(佐野勇斗)

彼が勘違いで助けてくれた。

その少し前のシーンでも幼馴染みの陽太(菅生新樹)が坊主頭で、彼も野球部に入るらしい。

1話を見るかぎりは、野球部との関わりを持ちそうだ。

野球部員は、坊主頭が大半で、見た目がどうしても古くさい。あまり現代的ではない。そのへんが関わってくるようだ。

緊急性も必要もないのに海に飛び込むヒロインは、楽しみである。

無意味すぎておもしろい。

意味のあることをやろうとしてヒロインが突っ走ると、けっこう見ていられなくなることがあるので、なるたけこのナンセンス路線が維持されて欲しい。軽くばかばかしい朝ドラがいい。

たぶん昭和ものが主流のなかにはさまり、現代ものをまじめにストレートに描くと、ひょっとしたら弱いかもしれない、という意識が制作陣にあるのかもしれない。

この自分たちを俯瞰して眺める視点を意識しているようで、そこのところに期待したい。

“儚げな美少女”橋本環奈の透き通るような一枚にファンから「まさにクリスタルって感じ!」「バリ可愛い〜」の声続々!