「プロ生活に別れ」ヤクルト・青木宣親、球史に残る安打製造機は「非常識発想」から生まれた

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常識を変えたバッティング

NPBでの通算打率は3割1分3厘で、歴代6位(4000打数以上)。プロ野球史に名を刻んだヤクルト・青木宣親は、あまりにも他の選手たちとは違っていた。早大時代からのチームメイトだった武内晋一氏(現ヤクルト編成部)が目の当たりにした青木の真のすごさを振り返る(記録は9月30日現在)。

前回記事『《引退》ヤクルト・青木宣親、後輩が明かす「プロでの活躍がイメージできない『叱られ役』だった」早大時代』から続く。

類のない話だが、青木は毎打席のように、バットや構え、打ち方などを変えてピッチャーと対峙していたという。型がない、いや、型を数えきれないほど持っていたバッターだった。

「前の日の夜のうちに対戦するピッチャーなど、様々なことを考えている。毎日、毎日、そうやって過ごしているんだなというのはすごく感じました。球場に来て、練習する前でも『今日はこれでいける』と話したりすることもありましたね。

でも、変わるのは相手だけじゃない。自分の体の状態も常に変わりますから、コンディショニングにもすごく気を使っていて、『自分の体が今はこうなっているから、こういうふうに打つ』ということは、よく言っていました。そうした感覚もすごく鋭いものがあるんだと思います」

発想も枠外まで広げてしまえる。

青木はかつて、打球に順回転を与えた方がゴロの球足が速くなるとしてボールの中心よりも上側をレベルスイングで打っていると自身の打撃について語ったことがある。

「青木さんが3年目のころですかね。相当、意識してやっていました。今でこそ誰もがピッチャーが投げてきたボールの軌道に対してバットの軌道が一直線上になるようにスイングしますが、当時はまだダウンスイングが主流だった。でも、固定概念にとらわれることがない。そういう探求心、考える力というのも、すごいですよね」

障壁が立ちはだかっても、信念に従い、迷うことなく飛び越えた。

青木が口にしない言葉とは

11年オフ、ポスティングシステムを利用してのメジャー・リーグ挑戦を決断。ミルウォーキー・ブルワーズが交渉権を獲得したが、入団交渉はアメリカでの練習を視察した後に行うと、実質上の入団テストを課せられた。だが、青木はブレなかったという。

「迷っていなかったですね。メジャーへの憧れだけでなく、自分をさらに成長させたいという考えもあったと思います。でも、首位打者を3回も獲って、確固たる地位を築いていたのに向こうでトライアウトのようなことをやらされる。条件もいいわけではなかった。こっちに残っていれば安泰なのにと僕は思ってしまいましたけど、それでも行くというんです。あのときは特に青木さんの気持ちの強さを感じました」

メジャーでは7球団を渡り歩き、環境が変わっても2割8分前後の打率を維持し続けた。 18年に古巣・ヤクルトに復帰。青木はまた、違った姿を見せてくれた。36歳とベテランの域に差し掛かっていたが、渡米前よりも体を大きく使って力強いスイングをするようになった。

「体は大きくないですけど、体力はすごいですからね。大きな怪我をしない強い体と、練習できる体力。それに常にやり切ろうとするモチベーション、気持ちの強さ。いつもポジティブでネガティブな発言は聞いたことがない。後輩と接するときも、その選手に対してのネガティブなことは言わないです」

メジャーから戻ってきて、ガラリと変わったことがあるという。

「おまえの方がすごいよ」

「向こうに行く前はチームの中で年齢が上の方でもなかったですし、先輩もたくさんいたのでそうでもなかったのですが、帰ってきてからは後輩の面倒をすごく見てくれるようになりました。いろいろな選手に、いろいろな声をかける。偉そうにすることもなく、ときにはふざけたり、『ここはおまえの方がすごいよ』と認めてあげるようなことも言ったりして、後輩たちはすごく接しやすい先輩というイメージがあると思います。

僕にも『おう、タケ』って普通に話してくれる。これほどの選手なのに、遠い存在だとは感じさせない。そういう雰囲気を出せるのもすごいところなんです」

多くの後輩に慕われた。引退会見に花束を持って登場し、涙を抑えきれなかった村上宗隆も青木を師と仰いだ一人だ。

「今となったら村上も特別な選手ですけど、青木さんは村上が高卒1年目のオフから声を掛けて、毎年、自主トレに連れて行った。村上も野球に対する取り組みはすごいものがあるので、なにか感じるものがあったんでしょうね。青木さんも野球以外のところで『いろいろなことを結構、うるさく言った』と話していました。

でも、いい巡り合わせでしたよね。青木さんがヤクルトに戻ってきた年に村上も入団している。村上も若かったですし、ムッとするようなことも言われたと思いますけど、彼の野球人生で大きなポイントになったんじゃないですかね」

武内氏が引退をしたのも18年。引退会見では、青木が復帰したことで武内氏の本職のファーストに坂口智隆が回ってきたことを挙げて、「青木さんのおかげで仕事がなくなった」と言って会場を笑わせた。

青木の背中が、第二の青木を生む

「僕も青木さんには『大学に入ってきたときは衝撃だった』とよく言ってもらっていました。でも、プロでは青木さんのような活躍はできなかった。どこに差があったのか。

野球との向き合い方、探求心、貪欲さ。ヒット1本を打つことに対しても、技術を向上させることに対しても、そこはかなわないと強く感じます。

青木さんは本気で全打席ヒットを打つという気持ちで打席に入っていると思います。どんなに点差が開いていても集中力を欠いたりはしない。普通はそれも難しいことなんですけどね。今の若い選手を見ても、みんな頑張っていますけど、青木さんほど考えてやっている選手がいるかというと見当たりません」

それでも、後輩たちは青木の背中を目に焼きつけた。

「青木さんはファームに来ても若い選手たちに聞かれればアドバイスを送ってくれていましたし、朝からいろいろなトレーニングをしたり、練習をする姿を見せてくれていた。若い選手たちも学ぶところがあったはずですし、青木さんも『チームとして、そういうところはある程度、浸透してきたのかな』と話していました」

青木の引退試合は10月2日。チームメイト、武内氏も見守る中、現役最後の打席も青木はこれまで通りにヒットを狙い、神宮球場に快音を響かせることだろう。

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