フランス革命はこうして、1ヵ月半で1300人以上ギロチン処刑し、数万人を虐殺する「恐怖政治」に至った

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パリオリンピック開会式の「マリー・アントワネット生首演出」は、多くの人に衝撃を与え、「フランス人にとって、フランス革命とは何なのか」と考えさせた。

フランス革命では、1793年1月にルイ16世がギロチン処刑、10月には、あの開会式の演出が表現したように、マリー・アントワネットがギロチン処刑された。

その後、革命がもたらしたのはさらなる斬首と虐殺だった。

【本記事は、『物語 パリの歴史』(高遠 弘美著)より抜粋・編集したものです。】

打ちつづく粛清の嵐の中で

ルイ16世の処刑を挟んだ1792年から1797年にかけて、英国、スペイン、オーストリア、プロイセン、ネーデルラント、ナポリ王国、サルディニア王国等といった国々はフランス革命に危機感を募らせ、第一次対仏大同盟を結び、フランスに侵攻しました。

フランスは徴兵制度を敷き、抗戦。1793年以降、ナポレオンが各地で勝利を収め、大同盟の国々を押し返したばかりか、領土を拡大するに至ります。1797年10月のカンポ・フォルミオ条約で、英国以外はフランスとの休戦を受諾。その結果、ヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国は消滅しました。

そうした対外戦争を抱えただけでなく、国内でも反革命派の内乱が頻発し、経済的混乱も加わって、革命の基盤が弱体化しかねない中で革命政府が採った対応策が、「恐怖政治」でした。一般には、1792年9月に起こった虐殺事件から、1794年7月のテルミドール9日のクーデターでロベスピエールらが失脚するまでの期間を言います。

最初は民衆蜂起の形で特権階級や反革命派を殺害するテロ行為だったのですが、1793年10月に革命政府が樹立されると、今度は政府自ら、反革命派や旧体制の聖職者やジロンド派に属する人々を処刑します。さらに、途中から袂を分かち、恐怖政治に反対したダントンやカミーユ・デムーランも粛清されました。

1カ月半で1300人以上をギロチン処刑、数万人を虐殺

最初のうちこそ革命裁判所の判決を待って処刑されていたのですが、略式判決が認められた1794年6月11日以降、7月27日(テルミドール9日)のクーデターまでのひと月半あまりの間に、パリでは千三百数十名が断頭台で処刑されましたし、地方で虐殺された王党派や反革命派の数は数万にも及びました。

処刑された人々のなかには、化学者のラヴォワジエや詩人のアンドレ・シェニエがいます。元徴税請負人だったために死刑となったラヴォワジエですが、その処刑のもう一つの理由は、共和国に知識人は不要である、という信じがたいものだったと言われています。

革命政府は反革命派の土地を没収して民衆に無償で供与するなどの政策をとりますが、恐怖で支配する政治に叛旗を翻す人々によって、テルミドール9日のクーデターが起こります。

テルミドールというのは、王制が廃止された翌日の1792年9月22日を元年第1日とする共和暦の月の一つで、12ヶ月の11番目の月に当たります。7月から8月にかけての暑い時期に即した命名なので、日本語では「熱月」と訳すこともあります。

フランス革命の事実上の終結

共和暦は十進法をもとにして月の区切りや名前だけでなく、時間の単位まで変えたために不評で、結局、ナポレオンが皇帝になった2年後の1806年1月1日からは従来のグレゴリオ暦に戻りました(共和暦では1分は100秒、1時間は100分、1日は10時間、1週は10日で、3週でひと月でした。日もすべて名前がついていて、たとえばテルミドール9日は「ミュール(桑の実)」となっていました)。

ロベスピエールらの恐怖政治に反対する勢力が勢いを増し、器に注がれる液体がそのままではやがてあふれ出すように、テルミドール9日、国民公会でロベスピエール派の糾弾が決議され、一旦は市庁舎に逃げ込んでいたロベスピエールらは翌夕方には断頭台に送られました。

さらに翌日、ロベスピエール派の活動家が続けて処刑されましたが、その数は70余名に達しました。ジャコバン派が終焉を迎え、フランス革命は事実上の終結となりました。

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