現地人に売られ、「米軍の捕虜」になった…生きながら「靖国神社」に祀られた男の「戦争に翻弄された人生」

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私が2023年7月、上梓した『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人は何を語ったか』(講談社ビーシー/講談社)は、これまで約30年、500名以上におよぶ戦争体験者や遺族をインタビューしてきたなかで、特に印象に残っている25の言葉を拾い集め、その言葉にまつわるエピソードを書き記した1冊である。日本人が体験した未曽有の戦争の時代をくぐり抜けた彼ら、彼女たちはなにを語ったか。

捕虜となり、戦死したと思われた戦闘機パイロット

「生きて虜囚の辱を受けず」という言葉は、近代日本の軍隊の道徳律を表すものとして、広く知られている。この文言自体は、昭和16年1月、東条英機陸軍大臣の名で陸軍内部に示達された「戦陣訓」の一節にすぎず、海軍はこれには縛られない。

そもそも陸海軍には「俘虜査問会規定」という規則があって、軍人が戦闘で捕虜になりうることは想定されていたから、示達にすぎない「戦陣訓」の教えは絶対的な拘束力を持つほどのものではない。海軍軍人だった人のなかには、陸軍にこのような示達や文言があったこと自体、知らなかったという人も多い。

――だが、当時の一般的な日本人の通念とすれば、やはり、捕虜になることは「恥」だった。「戦陣訓」のなかった海軍でも、将兵に対し、捕虜になったときの心構えなどを教えることはなかったし、捕虜になるなら潔く死を選べ、と教え込んでいた。

捕虜を、最前線で義務を果たした戦士として、むしろ英雄的に扱う西洋的価値観とは正反対の世間の「気分」が、軍民問わず、理屈抜きに醸成されていたと言える。そのため、あたら助かるべき命が数多く失われ、残された家族を悲嘆の淵に追いやったのだ。

それでも、支那事変から太平洋戦争で、敵軍の捕虜になった日本軍将兵は意外に多い。ほとんどが不可抗力によるものだが、そんな戦中の日本的な「気分」は、戦後も長い間、彼らを苦しめた。

大分県別府市に暮らす中島三教(なかしま みつのり1914-2007)を初めて訪ねたのは、平成8(1996)年春のことだ。音に聞こえた名戦闘機パイロットだったが、ガダルカナル島へ出撃の途中、エンジン故障で途中の島に不時着し、米軍の捕虜になった経験をもつ人である。

「私は、アメリカに捕まってから頭がおかしゅうなって。何もかも忘れてしまったんです。戦争が終わるまでは戦死の扱いで、靖国神社にも祀られとった。戦死認定後、家族に合祀の通知があったらしいです。戦後、靖国神社に生きて帰ったことを申し出ましたが、一度合祀したものは取り消しはできん、ということで、いまも『中島三教命』は祀られたままなんです。東京に行ったとき、『遺族でも戦友でもなく、祀られてる本人じゃ』と言うて、お参りさせてもらったこともありました」

中華民国軍機を相手に撃墜を重ねる

中島は大正3(1914)年4月1日、大分県宇佐郡に、7人きょうだいの三男として生まれた。大分県立中津中学校(現・県立中津南高等学校)を経て、一般志願兵として海軍を志願、昭和8(1933)年5月1日、海軍四等水兵として佐世保海兵団に入団した。

基礎教育を終えて空母「加賀」乗組を命ぜられ、砲術科に配属された中島は、そこで見た飛行機の姿に心奪われ、搭乗員を目指し操縦練習生を受験。数十倍の難関を突破して、昭和10(1935)年5月、第二十九期操縦練習生となる。練習機での操縦訓練を経て、選ばれて戦闘機専修と決まり、同期生13名とともに大村海軍航空隊に入隊した。

昭和12(1937)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突した「盧溝橋事件」を皮切りに「北支事変」が勃発すると、海軍はただちに航空兵力を大陸に派遣することを決定、第十二航空隊を大分県佐伯基地で、第十三航空隊を長崎県大村基地で編成した。

8月9日、上海で大山勇夫海軍中尉、斎藤與蔵一等水兵が中国兵に射殺されたことをきっかけに「第二次上海事変」が勃発、海軍は空母「加賀」「龍驤」「鳳翔」を上海沖に派遣、艦上機をもって南京、広徳、蘇州の中国軍飛行場攻撃を開始、烈しい航空戦が展開された。戦火は拡大の一途をたどり、9月2日、近衛文麿内閣はこれら両事変を総称して「支那事変」と呼称することを閣議決定した。

中島は第十三航空隊に配属され、上海・公大飛行場に進出した。乗機は当時の最新鋭機・九六式艦上戦闘機(九六戦)である。中島は連日のように続いた戦闘で、中国空軍のソ連製戦闘機ポリカルポフE-15、E-16(本来はИ-15、16だが日本海軍、中華民国空軍ともにこう呼んだ)やアメリカ製戦闘機カーチス・ホークなどを相手に撃墜を重ねた。

その活躍はめざましく、のちに「勲功抜群」のあかしである功六級金鵄勲章を授与されている。ところが、いざ話題が戦闘におよぶと、中島の口はとたんに重くなった。

「空戦の話はあまりしたくない。敵機を撃墜したというのは人を殺したわけですからね。誰に聞かれてもしたことはありません。戦争はもう嫌です。戦争なんかないほうがいい……」

空戦の話をしたがらない中島だったが、それでも特に印象的な出来事はあったらしく、心を開くにしたがい、ポツリ、ポツリと戦闘の話も出てくるようになった。九六戦は最初の頃、故障が多く、敵地上空でエンジンが止まり、死を決意したこと。味方の軍艦から敵機と誤認され、対空砲火の味方撃ちで撃墜され、負傷した経験――。

家族を残し、最前線へ

昭和16(1941)年12月8日、日本は米英をはじめとする連合国との戦争に突入。中島は、飛行学生、飛行練習生の教員を務めていた大分海軍航空隊でそのニュースを聞いた。

昭和17(1942)年11月、准士官の飛行兵曹長に進級した中島は、12月、第一線部隊である第二五三海軍航空隊に転勤を命ぜられ、妻と生後半年の長男を大分に残して、昭和18(1943)年1月5日、ラバウルの北、ニューアイルランド島カビエン基地に展開していた二五三空に着任した。

昭和17年8月7日、米軍のツラギ島、ガダルカナル島上陸にはじまったソロモン諸島の戦いは、すでに泥沼化の様相を呈していた。米軍に占領されたガダルカナル島飛行場の奪還作戦はことごとく失敗に終わり、島に上陸した陸軍部隊への補給もままならない。

海軍は、ガダルカナルにほど近いニュージョージア島ムンダに前進基地を設け、零戦隊を進出させるが、間断のない敵機の空襲を受けあっという間に壊滅、日本側は、せっかく作ったムンダ基地を常駐基地として使用することをあきらめざるを得なくなった。

12月31日の御前会議でガダルカナル島撤退の方針が決定され、昭和18(1943)年1月4日、ついに大命が下る。中島が二五三空に着任したのは、そんな時期だった。

「着任してしばらくは、訓練やら当直やら基地の上空哨戒やらをしていました。そして1月24日、不時着機を捜索する飛行艇を護衛して、私が指揮官で6機を率いて飛んだんです。途中、燃料補給をしながら15時間。これだけ飛ぶと体がくたくたですな」

ガダルカナル島に向かう途中、不時着

ガダルカナル島からの撤退を成功させるための航空作戦が、始まろうとしていた。1月25日には、戦闘機、爆撃機の協同による大規模な作戦が行われることになる。前日、15時間におよぶ飛行から帰ったばかりの中島も出撃を命ぜられた。

中島は、二五三空第二中隊第三小隊長として、二番機・前田勝俊一飛曹、三番機・入木畩次二飛曹を従えていた。

「いよいよガダルカナル島が見えてきて高度を上げ始めました。ところが、6000メートルより上がろうと思ったらエンジンの調子が突然悪くなって、ブスブスと息をつき始めました。これはいかん、と思って列機に先に行け、と合図するんだけどもどうしても離れない。そこで2機を連れたまま、もと来た道を引き返しました。ふと攻撃隊の行った先を見ると、空戦しているのが見えました。それを見て、おう、やっとるやっとる、と。

しかし、私の飛行機はエンジンに力がなくなって、だんだん高度が下がってくる。そして、間もなくムンダの飛行場が見えるというところで、とうとうプスッと止まってしまった。これはもう不時着するしかない。そこで、滑空しながら島の海岸近くの海に降りたんです。

そしてバンドを外して翼の上に出て、海に飛び込んで、約300メートル、泳いで岸にたどり着きました。列機は上空をしばらく旋回していましたが、やがて帰っていきました。私の零戦は、海が浅いから全部は沈まず、尾翼の一部が海面から出ているのが見えました」

不時着水して岸に泳ぎ着いた中島が、さてどうしたものかと海を見ると、岩の間をウツボがたくさん泳いでいるのが見える。試しに木の棒でつついてみると、ガブッと噛みついてきた。いざとなればこれを捕って食べられないこともない。椰子の実もある。少し安心した気持ちで服を脱ぎ、乾かしていると、ジャングルの奥から「ニッポンバンザイ、ニッポンバンザイ」という声が聞こえてきた。

「拳銃を抜いて構えたら、出てきた男たちは現地人で、持っていた蕃刀を地面に捨て、『ニッポンバンザイ、ムンダ行こ行こ』と日本語で言う。ラバウルやカビエンでも現地人が日本軍に友好的だったのを思い出して、これは味方だ、助かったわい、と思いました」

現地人に売られ、捕虜になってしまう

中島が不時着水したのは、ニュージョージア島の南東、ガダルカナル島寄りに位置するウィックハム島だった。列機の報告をもとに、1月26日、27日と、2日連続で零戦12機が飛行艇とともに捜索に発進、浅瀬に不時着した中島機を発見している。

「不時着から一夜明けて次の日でしたが、上空を盛んに飛行機が飛んでいました。それで、探しに来てくれたと思って出ようとしたら、現地人が、出ちゃいかん、撃たれる、と言って怖がるんですよ。こっちは拳銃を持ってるんだし、無理にでも出ればよかったんだけど、まあムンダまで案内すると言うんだし、と、私の方が折れてしまいました」

そうして、ムンダももうすぐという2日めの晩――。

「その晩は、現地人の集落で歓待されて、酋長のような偉いのが出てきたり、鶏の丸焼きを食べさせてもらったり、すっかりええ気分になってしまいました。

そしたらいきなり、現地人に後ろ手に押さえつけられて、拳銃を盗られて。すると奥からイギリス軍の大尉が出てきて、現地人のやつはそいつに私の拳銃を手渡しました。いままで仲良くしていた連中も私に銃を突きつけて、こっちは丸腰でどうにもならん。隙を見て拳銃を取り返そうとしたけどダメでした。それで、これもわしの運命だと諦めて捕まったんです。それまでは、もうすぐムンダの友軍基地に着くと信じてたんですが」

中島は、現地人に売られたわけである。中島は逃亡を試み、それが無理と悟ると自殺を図ったりもしたが果たせず、数日後、ガダルカナル島の収容所に送られた。

日本では中島は「行方不明」として扱われたが、のちに戦死と認定され、海軍少尉に進級、正八位勲六等功五級に叙せられた。そして、靖国神社に合祀する旨の通達が、家族のもとに届いた。生きながらにして「英霊」になったのだ。

もう二度と日本には帰れないかもしれない

ガダルカナル島の収容所に送られた中島が見たのは、栄養失調で幽鬼のように痩せ衰えた陸軍将兵の姿だった。

捕虜になった現実が日に日に実感できるようになると、もう二度と日本には帰れないとの思いが胸に重くのしかかってくる。中島は、何もかもを忘れようと努力するうち、ほんとうに精神に異常をきたしたという。

「ガダルカナルに送られてしばらくして訊問を受けました。中佐か大佐の前に出されて、通訳が名前を書きなさい、と言うんだけど、書けなかった。中だけ書いて、島という字がどうしても思い出せなかった。忘れてしまったんです。

どうして名前を書かんのか、と言われて、いや島の字がわかりませんが、と言うと、バカヤロー! とえらく怒られた。なんぼ怒られてもわからんものはわからんのだから。結局、ガダルカナルにいる間、自分の名前が書けないままでした」

中島は、昭和18年4月頃、他の数名の捕虜と一緒に、ニューカレドニア・ヌメアの捕虜収容所に送られた。ここで、海軍兵学校68期出身の艦上爆撃機搭乗員で、のちに直木賞作家になった豊田穣中尉と会っている。豊田の直木賞受賞作『長良川』には、中島が「海軍の兵曹長」として登場する。

その後、中島らは船でハワイの捕虜収容所に送られ、そこで約半年を過ごした。さらにアメリカ本土のサンフランシスコに送られ、カリフォルニア州サクラメントの収容所で約2ヵ月。ハワイまでは捕虜になったときの服装のままだったが、ここではじめて、デニム地に白いペンキでPW(Prisoner of Warの略)と大きく書かれた服を支給された。

捕虜の身ながら、丁重に扱われた

「それからこんどは、ウィスコンシン州のマッコイキャンプにつれていかれました。汽車に乗せられて、だいぶ時間がかかったですよ。

マッコイでは、真珠湾攻撃の特殊潜航艇で捕虜第一号になった酒巻和男少尉と会いました。酒巻さんは豊田さんと海兵の同期生です。しっかりした人でマッコイキャンプのリーダーでした。英語も堪能でしたしアメリカ側からも信任されて、彼だけは自由に町に出たりしていました。酒巻さんが押さえてたから、マッコイでは捕虜たちの統制が保たれて、オーストラリアのカウラ収容所のような暴発は起きなかったんだと思います」

捕虜に対する米軍の扱いは、きわめて人道的かつ丁重なものだった。捕虜には労働が課せられるが、マッコイキャンプでは日本軍の風船爆弾への対策として、防火施設のための道路をつくる作業に駆り出されたという。

捕虜にはさまざまな前職の者がいて、たいていのものは自分たちで作ることができる。それでも足りないものは、労働で得た給与で買うこともできた。

「冬は寒いところですから、運動場に囲いをして風呂の湯をジャーッといっぱい入れて、するとすぐに凍ってスケートリンクになるんです。スケート靴は、靴職人だった兵隊がこしらえたのを履いたり、酒巻さんが町に出て買ってきたりして。おかげでスケートはだいぶ上手になったです。なにしろ広いところで、運動はなんでもできましたよ」

監視つきではあったが、外出を許されることもあった。

「時々、トラックの荷台に乗って大勢で町に出たりもするんですが、町の人たちはとても好意的でした。年寄りは無言で通り過ぎるけど、手を振ってくれる人も多かった。市民がわざわざキャンプに来て、ハンカチを出してそこへサインを求められることもありました」

アメリカで終戦を迎える

囚われの身ながら、何不自由のない暮らしが続いた。ただ、捕虜になった現実は誰の心のなかにも澱のように溜まっていて、少しでも先ゆきを考えれば、胸が締めつけられるような気持ちになるのであった。

「それから最後に、テキサス州の砂漠の端にあるケネディキャンプに移されました。そこでは、サイパンやらあちこちで捕虜になった陸軍の兵隊がずいぶん増えました。みんな痩せ衰えた姿で、陸軍さんは大変じゃな、と思ったですよ。テキサスでは、煙草を止められたり食事が悪くなったり、米兵にちょっといじめられました。

戦況は、現地の新聞で読むことができるし、新たに送られてきた捕虜の話を聞いても想像がつきます。私は、いまは負けていても最後には必ず日本が勝つと信じていましたが、豊田さんはしっかりしてましたな。もう長くは続かん、日本は負ける、と。特攻隊で、撃墜されて海に放り出されて捕まった搭乗員もいて、負けた、どうしても勝てん、と言ってました」

そして終戦。

「その頃の我々の長は、海軍の中村中佐という人でした。ある日、重大発表があると集められ、そこで日本が降伏したことを知らされました。泣く人も騒ぐ人もなく、みんな静かに聞いていました。日本に帰ったら軍法会議にまわされて死刑になるかもしれんが、じたばたしても始まらん。とにかく日本政府の命令を待つしかないと、船に乗せられて帰国の途についたんです。

日本に帰れることが嬉しいとは思わなかったですな。なにしろ、私らは捕虜になったんじゃから。いつまでも気持ちは落ち着きませんでした」

昭和21(1946)年1月4日、中島らアメリカ本土より送還された捕虜たちは、三浦半島の浦賀に上陸した。

帰国し、家族と再会する

「戦場ではいつでも死ぬ覚悟ができていると思っていたのに、助かったとなると生への執着が頭をもたげてくる。人間は弱いもんですな。捕虜になった自分たちを日本はどう扱うのか、不安におびえながら帰ってみたら、係官の簡単な聞き取り調査があってそれで終わり。拍子抜けしました。

電話や電報は通じないと言われ、汽車も何時に出るかわからないけど、とにかく復員者用の無料乗車証となにがしかの現金をもらって、そのまま郷里に帰りました。しかし、日本に帰ってみたら、人の心は荒んでいるし、歯がゆくて悔しくて、やっぱり戦争は負けるもんじゃない、と思ったですな。

郷里に帰るまでは心配でした。あちこち焼け野原になってることは聞いていたから、はたして家はあるんじゃろうか、捕虜になった私が帰ったら、長男坊がいじめられやせんかと。もし長男坊がいじめられるようなことになったら、長男坊を殺して自分も死ぬわい、などといろいろ覚悟しながら帰りました。

宇佐の家に帰ったら、母と弟がいました。私は戦死したことになっていたから、信じられなかったみたいでした。母が私の体をなで回して、おうおう泣き出して……。弟が私の位牌を庭に投げて、『焚き物じゃ、焚き物じゃ』と。すぐに高田の実家にいた家内のもとへ連絡がいって、翌朝、義父が大きな鯛をもって、家内と長男坊をつれてきてくれました。

最後に見たときは1歳にもならず、まだ歩けなかった長男坊がもう4つになっていました。家内から写真を見せられて父親の顔は知ってたでしょうが、こっちに来んかい、と言うのに人見知りしてなかなか寄りつかない。私の体のまわりを2回か3回、ぐるぐるまわって観察して、やっとわかったんでしょう、突然、『わあ、父ちゃんじゃ』言うて飛びついてきました。感激したですよ」

中島の予想に反して、郷里の人々はみな、あたたかく迎えてくれた。

「捕虜になって帰ってきたのに、まわりはみんな歓迎してくれる。みんな喜んでくれる。しかし私は、なんだかそらごとのような気がして、ほんとうは蔑まれてるんじゃないかと、相当悩みましたよ。いつまでも長い間、『恥』という感覚は消えませんでしたなあ。

日露戦争でロシア軍の捕虜になった人が、日本に帰れずアメリカに渡って浄土真宗の僧侶になっていて、マッコイに面会に来たことがありました。立派な人でしたが、我々も日本がもし勝ってたら帰れなかったでしょうな。負けて、日本の軍隊がなくなったから帰ってこられたようなもんですよ」

「幸福な人生だった」と述懐

中島は役場で戸籍を回復し、少尉進級と戦死認定後の勲六等功五級の叙勲は取り消された。だが先に述べたように、いったん合祀したものの取り消しはできないとの建前から、靖国神社には祀られたままになっている。

戦後は地元・宇佐で薬局に勤めたあと、小さなおもちゃ屋を営んだ。その後、高田にある妻の実家の食料品店を引き継ぎ、店はやがて小さなスーパーマーケットに発展した。

占領軍によって禁じられていた日本の航空活動が再開されると、中島の操縦技倆を惜しむ関係者を通じ、自衛隊や日本航空からパイロットへの誘いがあったが、すべて断ったという。

「操縦にはいささか自信があったし、ほんとうは飛行機にまた乗りたかった。しかし、捕虜になった私は、過去を忘れて生きなきゃいかんと思っていましたから。マッコイで一緒だった空母『飛龍』機関科の萬代久男さんは、自分の経験を後輩に伝えようと海上自衛隊に入られて、そういう考え方もあったのかもしれませんが、私にはできなかった。戦闘機で一緒だった斎藤三郎少尉が自衛隊の教官になっていて、何度も誘ってくれたですがね」

中島は、高田市の中央市場の組合長、役員を経て、私が出会った頃にはすべての役職から身を引き、息子たちが建ててくれた別府の自宅をベースに、平日は店を手伝ったりと、自適の日々を送っていた。

「私は海軍では上官に恵まれていました。みんなかわいがってくれましたし、海軍で嫌な思い出は一つもありません。ええ、一つもない。子供にも恵まれたし、家内にも恵まれたし、幸福でしたよ。人には笑われるかもしれんが、いまはほんとうに楽をさせてもらっています」

と、中島は言う。だが、戦争についてどう思うかとの問いに対しては、

「戦争は嫌いですな。戦争はないほうがいい。あればもちろん負けちゃいかんが、戦争は悪いですな。戦争は悪い……ほんとうに戦争は悪い。戦争のない時代にならないと、いつまでも。戦争はいかんです」

と、首を振り振り、何度も繰り返した。

「幸福な人生だった」との述懐に偽りはあるまい。だがその表情には、戦争に翻弄された人生の重みが、年輪となって宿っているように感じられた。

(中島氏のエピソードは『太平洋戦争の真実』および『決定版 零戦 最後の証言1』にも収載しています)

【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!