生きたまま、ヒトの意識をコンピュータに移す方法とは?

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意識を宿す脳は、すこしばかり手のこんだ電気回路にすぎない。であれば、脳の電気回路としての振る舞いを機械に再現することで、そこにも意識が宿るに違いない。多くの神経科学者はそう考えている。

そのうえで、ここで注目するのは、ヒトの意識のコンピュータへの移植、いわゆる「意識のアップロード」である。仮にそれがかなえば、ヒトが仮想現実のなかで生き続けることも、アバターをとおして現世に舞い降りることも可能になる。

ただ、これまで提案されてきた手法は、頭蓋から脳を取り出し、薄くスライスして解析することで、コンピュータ上に個人の脳のデジタルコピーを構築するというものだ。これでは、死を望まない当の本人は間違いなく死を迎えることになる。この連載第2回では、わたしの提案する「死を介さない意識のアップロード」の具体的なプロセスを紹介し、その実現に向けての鍵をにぎるブレイン・マシン・インターフェースを取り上げたい。

前回記事はこちら『ヒトの意識をコンピュータへ移植することはできるか?』

ご愛読、誠にありがとうございました。

本連載(全8回)は、大幅加筆のうえ、再構成し、2024年6月、

『意識の脳科学――「デジタル不老不死」の扉を開く』(講談社現代新書)として刊行されました。

片側だけの世界

わたしは世界の片側しか見ていない。これは何かしらのメタファーではない。文字どおり、視線のちょうど真ん中を境に左側しか見えないのだ。

それゆえ、不意に自分の右手があらわれてぎょっとする。また、横書きの文章はまともに読むことができない。単語ひとつを拾うにしても、視線の先の一寸右の文字が目に入らず、匍匐前進するかのごとく一文字一文字読み進めるしかない。以前の何十倍もの時間がかかってしまう。

そう、わたしも昔からこうだったわけではない。あの日からすっかり変わってしまった。喋りたくても喋ることができない。そればかりか、わたしの口は思ってもいない言葉を紡ぎ出す。シャツのボタンを留めようにも右手がそばから外してしまう。ステーキを口に運ぼうにも右手のナイフがはらいのけてしまう。

まるで、わたしの右半身は、得体のしれない何ものかにのっとられてしまったかのようだ。右手も、右足も、別の意志があるかのごとく振る舞う。

せめてもの救いは、その何ものかがまったくの赤の他人ではないことだ。服や食べ物の好みは少なからず異なるようだが、その口から語られる記憶はわたしの子ども時代そのものだ……

ここに登場する人物は怪奇映画やSF小説の作中キャラクターではない。このような体験をしている人たちが実際にいる。てんかんの治療のため、右脳と左脳を切り離す外科手術を受けた患者さんたちだ。術後、視覚的にも、身体的にも、左半分だけを司る右脳の意識と、右半分だけを司る左脳の意識の二つが立ち現れる。

ひとつの頭蓋のなかのふたつの意識。神経心理学者のロジャー・スペリーは、まさにそのことの存在証明をもって1981年にノーベル医学・生理学賞を受賞した。

ただ、一言断っておかなければならないことがある。通常、医者や研究者と会話できるのは言語野をもつ左脳のみだ。スペリーも右脳の“供述”を引き出すのには苦労している。あれこれ試した結果、右脳が見ているものを応えさせるために、それが統制する左手にものをつかませることで事なきを得た。また、スペリーにとっては幸運なことに、右半球も課題の口頭指示を理解するくらいの言語能力はもちあわせていた。

偏頭痛発作と下條先生

ここであえて右脳を登場させたのには理由がある。冒頭の二段落は、実はわたしの体験そのものなのだ。中学3年生のとき、模擬試験の英語の最中、みるみる文章が読めなくなった。あとになって知ったことだが、それは偏頭痛発作の一部であった。

みなさんのなかにも偏頭痛持ちの方がいるかもしれない。わたしの場合、虹色のギザギザ模様が右視野にあらわれるところから発作がはじまる。このオーラと呼ばれる現象は、19世紀の書物にも挿絵つきであらわれる由緒正しい症状だ。自分の脳はだいぶ可怪しいのではと心配したものだが、同様に、奇天烈な幻覚に悩まされた大昔の先輩たちに出会い、胸を撫で下ろした。そのオーラが収まったのち、しばらくして視野欠損がはじまり、15分ほどで右視野全体がきれいさっぱり消滅してしまう。

不思議に思うだろうが、消滅した視野を埋めるのは白でも黒でもない。まさに“無”である。頭の後ろが見えないのと同じようにそこには何もない。あたかも、分離脳患者の視覚世界を疑似体験しているかのごとく。

2003年、カリフォルニア工科大学の下條信輔先生のもとでサバティカル生活を送る幸運にめぐまれた。到着して間もなく、はじめて通された先生のオフィスで、自身の偏頭痛発作の話をしたことを今でも鮮明に覚えている。したためてきた実験アイディアが、氏にまったく響かなかったゆえの苦肉の策であった。ただ、わたしの視野消滅には俄然、興味が湧いたようだ。返す刀で、発作がでたら夜中でも連絡するようにと言われた。ラボご自慢の経頭蓋磁気刺激装置(TMS)にからめ、氏ならではの天才的なひらめきが訪れたのだろう。

TMSは、高校物理に登場するフレミングの右手やら左手の法則で、頭蓋の外から脳に電流を流してしまう恐るべき装置だ。渡米の数年前におとずれた学会で、「私はもう歳だから被験者兼著者になることを泣く泣く了承した」と悲壮感たっぷりに語る大先生の映像が流れ、それが強烈な印象として残っていた。当時、なにかと保守的な日本では、論文著者以外を被験者にすることがガイドラインで禁止されていたのだ。そんなこともあり、下條研に行ってもアレの被験者にだけはならないようにと心に誓っていたのだが、のっけから踏み絵を踏まされることとなった。

振り返ってみれば、視覚的な意識を生まないわたしの脳を肴に、意識のしくみに迫る実験を思い付いたに違いない。今のわたしなら、薬を盛られてでも偏頭痛発作を起こして協力するところだが、当時は意識の「い」の字も興味がなかった。

スモッグに霞むロスの淡い青空のもとで意識研究に出会い、はるか彼方まで見渡せる南ドイツの澄みきった青空のもとでおおいに頭を悩ませ、ある日、とある意識の研究手法に思い至った。その副産物として、わたしの提案する「意識のアップロード」があるわけだが、そのあたりの経緯についてはおいおい話していきたい。

死を介さない意識のアップロード

というわけで、お待ちかね「死を介さない意識のアップロード」である。これまで提案されてきた手法は、頭蓋から脳を取り出して、そのデジタルコピーを構築するというものだ。脳の解析精度の限界から、ほぼ実現性がないと考えるが、たとえ叶ったとしても、死を回避したい当の本人は間違いなく死ぬことになる。まさに本末転倒だ。

死にたくないのであれば、残る方法はただひとつ。生きているうちに意識をアップロードするしかない。

そのお手本となるのが、てんかん患者が分離脳手術でたどる意識の変遷だ。もともとあったひとつの意識は、死や断絶を介することなく、二つの意識へと移行する。

ここで仮に、わたしたちの生体脳半球と機械の脳半球をつなぎ、その間で意識を統合し、記憶を共有できたとしよう。そのうえで、生体脳半球側が否応なく迎える終焉のときにあわせ、分離脳手術よろしく、両者を切り離したらどうだろうか。死を介することなく、わたしたちは機械のなかで生き続けることにはならないだろうか。

もちろん、冒頭の分離脳患者にみられたような諸々の不便がでないよう、生体右脳と機械左脳、生体左脳と機械右脳といったようにたすきがけに接続したうえで、最終的には機械脳どうしを接続するつもりである。

非侵襲ブレイン・マシン・インターフェースの限界

ただ、あらかじめ述べておきたい。さきの意識のアップロードを完遂するには、その前段階として、生体脳と機械脳との間で意識を統合し、記憶を共有する必要がある。しれっと記したが、そのプロセスを、先日、惜しくもサッカー日本代表から落選した大迫勇也にたとえるなら、半端ない。

これまでも、映画やSF作品などには、生きている間に意識をアップロードする様が数多く描かれてきた。

映画「チャッピー」では、頭にかぶるだけで装着できるサイクリング用ヘルメットのような簡易な装置を使って、ものの数分で意識がアップロードされる。一方、「トランセンデンス」では、キアヌ・リーブス扮する主人公が、頭皮のうえから電極のようなものを数十個とりつけ、辞書の英単語を延々と読み上げながら意識をアップロードする様子が描かれる。

ただ、残念ながら、これらの映画に描かれるような非侵襲の計測装置、すなわち、開頭せずに頭蓋の外から脳活動を計測するような装置ではアップロードなど叶うべくもない。

脳のなかで情報処理を担うのはニューロンだ。脳の1ミリ角の立方体のなかには5万個ほどのニューロンがひしめいている。会社の部署にたとえるなら、それぞれが異なる“担当”をもち、他のニューロンに対して専用回線をひいている。特定の相手としかつながらない糸電話が複雑に張り巡らされたような状況だ。そんななか、ニューロンたちは日がな一日、じゃんじゃん電話をかけまくっている。

非侵襲計測は、分厚い壁―頭蓋骨の向こう側からかろうじて聴こえてくるオフィスのざわめきを捉えるようなものだ。当然、会話が幾万と折り重なったざわめきから、個々の会話を聞き分けることはできない。通常の解析でできるのは、新しい案件、たとえば視覚刺激が飛び込んできて、全体の通話量が増えたことを感知することくらいだ。最新の解析手法を用いれば、舞い込んできた案件のごく大まかな分類も推測できるが、一回一回の推測精度はあてにならない秋の天気予報くらいに考えておいた方がよい。何十回と同じ条件を繰り返すことにより、脳の働きについて科学的に解明できることは計り知れないが、意識のアップロードなど夢のまた夢である。

従来型侵襲ブレイン・マシン・インターフェースの限界

非侵襲がだめなら、当然、侵襲ということになる。頭蓋骨に穴をあけ、脳の灰白質に直接電極を埋め込むことで、今度はニューロンどうしの会話の内容をじかに聞き取ることが可能になる。一つの電極で複数のニューロンをとらえることができ、最も多いものでは千に近いニューロンの同時記録がこれまでに達成されている。

では、生体脳半球と機械脳半球を接続し、その間で意識を統合し、さらには記憶を共有するには、どのくらいの数のニューロンを記録する必要があるだろうか。

ヒトの左右の脳半球を結ぶ神経繊維束は三つある。そのなかでもっとも太い「脳梁」では、左右一億個ずつのニューロンが糸電話―神経繊維を通している。さきほどの一千とくらべると桁が五つも多い。

さらに困ったことに、反対半球へと連絡するこれらのニューロンは脳の広範囲に散らばり、その他のものとさっぱり見分けがつかない。ヒトの片方の脳半球には約100億のニューロンが存在することから、ざっくり見積もって百個に一個の割合ということになる。たとえるなら、広い海原を泳ぐ無数の小魚のなかから、黒くないスイミーを探り当てるようなものだ。

つまるところ、生体脳半球どうしの連絡を完璧に再現するとなると、大脳のすべてのニューロンを計測するはめに陥る。わたしたちの脳は、わたしたちが思い浮かべるよりもはるかに中身が詰まっていて、脳髄液の占める隙間部分は全体の20%ほどにすぎない。そこへ、ニューロンの何十倍も大きな電極が、生体組織をめりめりと破壊しながら入り込んでくる様子を思い描いてほしい。すべてはおろか、脳全体のわずか0.01%のニューロンを計測するのも困難と言わざるを得ない。

脳への情報書き込みの困難

だめ押しとして、脳の灰白質に挿入した通常電極によるブレイン・マシン・インターフェースにはもうひとつ致命的な欠陥がある。なんと、情報をきちんと書き込むことができないのだ。

脳への情報の書き込みは、電極から電流を流すことによって行われる。それにより、犬を見たときに反応する「犬ニューロン」が活動すれば、脳に「犬」という情報が書き込まれたことになる。逆に、精確に「犬」という情報を書き込みたいときには、その犬ニューロンのみを活動させる必要がある。仮に、隣の「猫ニューロン」もいっしょに活動してしまったなら、「犬猫」の情報が書き込まれてしまい、その魑魅魍魎が眼前にあらわれることにもなりかねない。というわけで、一つの電極あたり、それにもっとも近いたった一つのニューロンを活動させることが理想であり、その具体的な方策として電流値をぎりぎりまで下げていくことになる。

ところが、最近になって、ターゲットとなるすぐ近くのニューロンだけを活動させようとしても、遠くの複数のニューロンも活動してしまうことが報告された。その種明かしは簡単だ。電流値を下げていったときに、電極にもっとも近いニューロンを活動させるのに必要な電流よりも小さな値で、電極のより近傍を通過する複数の神経線維が刺激されてしまうのだ。結果、その神経線維の先につながる遠くのニューロンが活動してしまう。そして最大の問題は、それら遠くのニューロンが電極の観測網にかからず、“何”ニューロンであるかをうかがい知ることができないことだ。ちなみに、電極が捉えることのできるニューロン活動は、距離にして1/10mm以内にあるものに限られる。

言い方はわるいが、どこの馬の骨だかわからない幾多のニューロンが活動し続けることになる。この読み書きの不一致により、従来型電極では、脳にまともに情報を書き込むことができない。この現象を発見したクレイ・リード博士らは、論文の結びとして、通常電極によって構成されたブレイン・マシン・インターフェースの将来性に強い警鐘を鳴らしている。

夢のブレイン・マシン・インターフェース

どんなかたちであれ、脳と機械をきちんとした形でつなぎたいのであれば、お互いがお互いの情報を読み、お互いがお互いへと情報を書き込むことが前提条件となる。さらに、意識のアップロードはもちろん、医療応用などでの性能を追求したければ、脳部位どうしが当たり前に行っている相互作用を再現する必要がある。

大ヒットしたSF小説『三体』、とりわけ第三部の『死神永生』には、宇宙の超文明による超ブレインテック(脳科学を活用したテクノロジー)が登場する。もし、同様に人類がブレインテックを進展させたいのであれば、地球型脳のこんがらがった神経配線にうまく適応するような、まったく新しいタイプのブレイン・マシン・インターフェースが必要不可欠となる。

そのうえで、打倒、超宇宙文明ではないが、さきの問題を一気に解決しうるのが、わたしが2020年に東京大学から特許を出願した新型のブレイン・マシン・インターフェースである。拙著『脳の意識 機械の意識』(中央公論新社)を執筆中に思い付いたものだが、特許の関係で盛り込むことができなかった。英語版”From Biological to Artificial Consciousness”(Springer)の方で大々的にお披露目しており、脳半球間を連絡するすべてのニューロンへの読み書きが可能で、読み書きの不一致も生じない。

ポイントは、どこに、どのように、どのような電極を入れるかである。またまた引っ張るようで申し訳ないが、次回までみなさんの宿題としたい。

アポロ計画になぞらえて

本稿の最後に、意識のアップロードを実現していくための方策について考察しよう。(といえば聞こえはよいが、実際のところ、今後の戦略のためにぜひみなさんのご意見を伺いたい!)

ひとつ確かなのは、わたしたちの目の黒いうちにそれを実現するとなると、研究開発を相当に加速させる必要があるということだ。お手本としたいのはNASAのアポロ計画である。もちろん、予算規模や人的リソースにおいて、そこまで欲張るつもりはないが。

1961年、「60年代のうちに人類を月に着陸させる」と、当時の大統領であったジョン・F・ケネディが宣言することで、アポロ計画は始動した。人類の共通の夢への挑戦という華々しい側面にどうしても目がいきがちだが、東西の冷戦構造なしにそれを語ることはできない。

1957年にソ連のスプートニクが夜空を舞い、1961年にはガガーリンが初の有人宇宙飛行を成功させた。宇宙開発に先鞭をつけられたアメリカは焦っていた。ロケット技術は、そのまま大陸間弾道ミサイルの性能に直結するからだ。有人月面着陸というわかりやすい目標の裏に、軍事開発上の実利があったわけだ。

わたしにとっての月面着陸が意識のアップロードだとしたら、その一歩手前の月周回軌道投入は意識の解明である。死を介さない意識のアップロードの途中経過に位置付けた、生体脳の意識と機械脳の意識が統合された状態は、まんま意識が解明されたことを意味する。提案する意識のアップロードは、もともと、意識を科学的に解明するための方法論について頭を巡らすなかで出てきたものなのだ。ちなみに、わたしの“現世”のライフワークは(機械におさまったところで、また次のライフワークは考えるとして!)、意識を科学の俎上にのせる実験プラットホームを提供しつつ、意識にまつわる自身の仮説を検証することである。

では、大陸間弾道ミサイルに相当するものは何だろうか?

意識のアップロードを目指すにしても、その途中過程において、開発されたさまざまな技術を社会に還元していくことが求められる。一番の果実は、AIによる脳機能支援、脳機能代替といった先進的な医療応用になるはずだ。具体的には、新型ブレイン・マシン・インターフェースならではの稠密な脳とAIの連携による、認知症治療をプライマリーターゲットに見据えている。

高い目標をおくことで、イーロン・マスク率いるニューラリンク社の背後につけ、どこかで一気に抜き去る算段だ。

ちなみに、ニューラリンク社のプライマリーターゲットは、脊髄損傷患者向けの脳制御ロボット義肢の開発だ。それだけであれば脳から情報を読み取るだけで事足りる。イーロン・マスクの面目躍如ともいうべきセンスのよさだが、埋め込み電極の安全性が担保され、その先を狙うとなると、どうしても脳への情報書き込みが避けられなくなる。

日本伝統の実験神経科学の先進性を活かし、きれいに抜き去るためにも、ここは官民挙げてのオールニッポンのサポートを得たいところだ。

実は、このことにからめてひとつ悩みがある。ぜひみなさんのご意見を伺いたい。

前回の記事で、だいぶ死の恐怖を煽ったつもりだったが、残念ながらほとんど効き目がなかったようなのだ。読む前から、死ぬことが怖い人は怖いし、読んだからといって、怖くなかった人が怖くなることは滅多にない。そのことが改めてわかった。次回の記事でも、意識のアップロード後にどんな世界が拡がるかを語ることで、その魅力について引き続き布教していく所存ではあるが。

つまり、「意識のアップロード」は、有人月面着陸のような大役を担うことはできないのでは、ひょっとして、人類共通の夢たりえないのではと頭をよぎるようになったのだ。むしろ、認知症治療などの医療応用をそのポジションに据え、意識のアップロードは大陸間弾道ミサイル的にどさくさに紛れて目指すべきものなのかもしれない、と。みなさんはどうお考えだろうか?

(つづく)

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