『ある一生』は7月12日より新宿武蔵野館ほかにて全国順次公開©2023 EPO Film Wien/ TOBIS Filmproduktion München(東洋経済オンライン読者向けプレミアム試写会への応募はこちら

1900年代のオーストリア・アルプスに、アンドレアス・エッガーという名の、ひとりの平凡な男がいた。

その80年におよぶ人生を振り返ると、虐待や搾取、貧困、戦争、山の事故など、数々の厳しい局面があった。そして多くの人たちとの出会いと別れがあった。だがそれでも彼はこう感じていた。自分の人生はだいたいにおいて、そう悪くもなかったと――。

世界的ベストセラーを映画化


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これまで160万部以上を売り上げ、イギリスの権威ある文学賞であるブッカー賞にもノミネートされた世界的ベストセラー小説の映画化作品『ある一生』が7月12日より新宿武蔵野館ほかにて全国順次公開となる。

“世紀の小説”“小さな文学の奇跡”などと評された作家ローベルト・ゼーターラーの原作を、美しい自然の情景とともに映像化している。

本作の物語は、母を亡くし孤児となった少年時代のエッガーが、遠い親戚である農場主クランツシュトッカーに引き取られるところからはじまる。

だが農場主は、エッガーを安価な労働力としか考えていなかった。彼がミスをするたびに激しく折檻を行うなど、暴力で彼を支配し続けた。

そんなエッガーの唯一の理解者であり、心のよりどころとなったのが農場で一緒に暮らす老婆のアーンル(マリアンネ・ゼーゲブレヒト)だった。彼女は諭すように少年に話す。「すぐよくなるわ。(人生と同じように)そういうものよ」と。

それから時は過ぎ、エッガーはひとりで農作業ができるほどにたくましく強い青年へと成長を遂げていた。

農場を出たエッガーは、雪山の山小屋の中で、瀕死の状態で横たわるヤギハネスと呼ばれる羊飼いと出会う。エッガーは男を背中に背負って、谷まで降ろすことにする。その道中で男は語る。「死ぬのは別に最悪なことではない」「死というのは氷の女だ」と。

ヤギハネスと別れた後、宿屋のバーに入ったエッガーはウェイトレスのマリー(ユリア・フランツ・リヒター)と運命的な出会いを果たす。

彼女の手がエッガーの腕に軽く触れた瞬間、彼は心臓に近いところに繊細な痛みを感じた。その繊細な痛みは、自分がそれまでの人生の中で受けたどんな痛みよりも深いものだった。愛というものを知った、その一瞬の記憶が、彼のその後の人生に大きな影響をもたらした。


エッガーはマリーと運命的な出会いを果たし、彼女にプロポーズをすることに。それはまさに彼にとって人生最良の瞬間であった。©2023 EPO Film Wien/ TOBIS Filmproduktion München

それまで女性とは縁遠い人生を送っていたエッガーは、マリーへの接し方がわからなかった。

だが不器用ながらも、少しずつマリーとの距離を近づけていった。マリーを守りたい、彼女にふさわしい男になりたい。日雇い労働者だった彼はマリーとの結婚を決意、安定した仕事を請け負い、自分を変えようと努力する。

普段は寡黙で内省的なエッガーだが、マリーを家に招いた際に、彼女との将来を饒舌に語り始める。そんなエッガーのめずらしい姿にマリーは「口数が多いね」と優しい眼差しを向けるのだった。その後、夫婦となったふたり。孤独だったエッガーの魂は、愛によって解放されていくのだが――。

作者は『キオスク』『野原』などヒット連発

2014年に刊行された原作小説は何カ月にもわたってベストセラーランキングの上位を走り続け、およそ40の言語に翻訳された話題作。

もともとは俳優として活動していたローベルト・ゼーターラーだが、脚本家として執筆した『Die zweite Frau(原題)』(2008)でハンス・シュタインビッヒラー監督とタッグを組んでいたことがある。その後、ゼーターラーは小説家として『キオスク』『ある一生』『野原』などの世界的ベストセラーを連発する人気作家となった。

一方、『ヒランクル』『アンネの日記』などを手がけ、“スイス映画界の革新者”の異名を持つシュタインビッヒラー監督は、2014年に刊行された『ある一生』の原作本を読み、「この映画をつくらなければならない」と運命的なものを感じたという。

アルプスのキームガウで育ち、幼い頃はドイツで登山雑誌をつくっていた父親とともに山を旅していたという彼は、その理由を「小説で描かれている内容が、自分の山での生活や、キームガウの農家の息子だった実父の人生と結びついていたから」と語っている。

原作小説はおよそ150ページとそれほど長くはない中で、主人公の80年におよぶ人生を簡潔に、淡々と描き出しているのが特徴。そしてなんといっても、誰ともコミュニケーションをとらず、誰にも心情を打ち明けない主人公の視点から描かれているということもあり、シュタインビッヒラー監督はインタビューで「映画化は不可能だと思った。あまりにも美しすぎて、触れたくなくなるのだ」とその困難さを告白している。


主人公エッガーの80年におよぶ人生を描き出すため、少年期、青年期、老年期はそれぞれ、3人の俳優が演じ分けている。©2023 EPO Film Wien/ TOBIS Filmproduktion München

そこで彼は『マーサの幸せレシピ』で知られるウルリッヒ・リマーに脚本を依頼。リマーは、主人公のエッガーが妻のマリーにあてた手紙というスタイルを使い、彼の内面に迫る、というアイデアを思いつく。それによって、彼の人生を彩ったマリーに対する思いがクッキリと浮かび上がるという効果もあった。

アルプスの広大な自然でロケ敢行

そして登場人物同様、本作で重要な位置を占めるのが、アルプスの広大な自然だ。ひとりの人間の80年にもおよぶ人生を、山の四季とともに描き出すために、撮影の80%は東チロルの山脈で行われ、その他、南チロルとバイエルン州でも撮影は行われた。

撮影は2022年2月から計47日間にわたって行われ、山の季節によって撮影を中断。季節の変わり目を数カ月待ち、そこから再び撮影に取りかかることもあったそうで、そうしたこだわりから丁寧に映し出されたアルプスの風景は本作の見どころのひとつである。

エッガーの人生はけっして歴史に名を残すような華々しい人生ではなかったかもしれない。はたから見たら孤独で苦渋に満ちた人生のように映るかもしれない。だが彼は人生をあきらめることなく、地に足をつけて、粛々と生きてきた。

人は死の間際に、その人生が走馬灯のように現れるというが、その時に感傷や陶酔ではなく“自分の人生はそう悪くはなかった”と言うことができるだろうか。人のしあわせのかたちとは何か、ということを考えさせられる1本だ。

(壬生 智裕 : 映画ライター)