実の息子を毒殺疑惑!戦国時代、“奥羽の鬼姫“の異名を持った「義姫」は本当に悪女だったのか?

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伊達政宗の母親で最上義光の妹・義姫。

男勝りな性格で激情家として知られており、奥羽の鬼姫の異名を持っておりました。そのような性格と政宗との確執からか、義姫は悪女のイメージがつきまとっています。

実際のところ、義姫は悪女だったのでしょうか。

今回はそんな義姫にまつわるエピソードを3つご紹介し、悪女か否かを考えたいと思います。

兄のために戦を止めた義姫

義姫の夫・伊達輝宗/Wikipediaより

1つ目のエピソードは天正6年(1578)の頃。

この頃は義姫の夫・伊達輝宗が最上義光(もがみ-よしあき)を裏切った上山満兼(かみのやま-みつかね)と協力し、最上領に侵攻した柏木山の戦いが勃発しておりました。

義姫は永禄7年(1564)より輝宗に嫁いでおり、兄・義光が攻められていたとしても伊達氏の味方をしないといけません。

義姫と義光は仲が良いことで知られており、この状況を義姫は静観できなかったのでしょう。なんと、自ら駕籠に乗って戦場に赴き、輝宗に抗議。

義姫の意地に押し負けた輝宗は義光と和睦を結び、兵を撤退させました。

義姫は義光が父の最上義守と出羽国にいた国人連合・最上八楯の外交方針で争った際、「不甲斐なし」と言って義光の頬を叩いたことから、兄のことを誰よりも心配していたと思われます。

それ故に輝宗に無理を言って和睦を結ばせたとうかがえます。

長期間戦場に居座り和睦させた義姫

義姫の兄・最上義光/Wikipediaより

2つ目のエピソードは、天正16年(1588)の頃。

この頃は大崎氏の内紛に政宗と義光が加担した大崎合戦の最中でした。合戦では、政宗が義光や蘆名氏の侵攻を受け、危機的状況に陥りました。

その際、またしても義姫は輿に乗って戦場へ出陣。両軍に和睦を呼びかけました。

しかし、両軍ともに義姫の要望に従わずにいたので、義姫は負けじと戦場に留まり続けます。

約80日もの間戦場に留まり続けた結果、政宗と義光は義姫の要望通り和睦を受け入れました。

義姫がここまで粘ったのは、天正15年(1587)に豊臣秀吉が惣無事令を発令しており、惣無事令に違反した状態が両家ともに危険と判断したためでした。

この義姫の活躍は、秀吉に伝わっていたと義光が手紙にて伝えています。

このエピソードから、両家のために命を懸けた義姫の度胸と時勢を読み解く聡明さがあったことがうかがえます。

息子を毒殺しようとした義姫

義姫の子・伊達政宗/Wikipediaより

最後のエピソードは、天正18年(1590)の頃。

この頃は秀吉による小田原征伐が始まる頃で、義姫は次男の小次郎を当主に据えるために政宗を毒殺しようと計画しておりました。

しかし、失敗に終わった末に次男の小次郎が殺害されると共に自身は義光の元に逃げるという自業自得な末路を迎えてしまいました。

これは義姫にまつわる有名なエピソードで、この息子毒殺未遂事件を起こしたが故に、義姫は悪女との印象が広まったと言っても過言ではありません。

しかしながら、このエピソードは江戸時代の記録『治家記録』によるもので、信ぴょう性のある史料がないため、現代では全くの嘘だったと言われています。

また、義光の元に戻ったのは文禄3年(1594)の時であり、小次郎が殺害された後も2人の仲は悪化しておりませんでした。

そのことがわかるように、元和8年(1622)に最上家が内紛によって改易になると、行き場を失った義姫に政宗は居場所を提供しております。

ただ、小次郎は天正18年(1590)に死亡しておりますが、死因がわかる史料がないために未だ謎のままとなっています。

まさかの自作自演!?実母・義姫による伊達政宗 毒殺未遂事件、実は捏造されたものだった?

果たして義姫は悪女だったのか

3つのエピソードを紹介し、義姫について紹介しました。

エピソードからわかる通り、義姫は兄の義光を誰よりも気にかけ、子の政宗と良好な関係を築いた悪女とは程遠い人物であることがわかります。

男勝りな性格と政宗毒殺に関するエピソードで悪い印象が持たれがちですが、いつの日か義姫の本当の姿が周知されることを願うばかりです。

 参考:火坂雅志『戦国を生きた姫君たち』‎2016年、KADOKAWA