この水は「はるか未来の民」をも思う「天皇の心」なのかもしれない…なんと「2000年もの間」田をうるおしてきた崇神天皇陵「驚愕の構造」

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あの時代になぜそんな技術が!?

ピラミッドやストーンヘンジに兵馬俑、三内丸山遺跡や五重塔に隠された、現代人もびっくりの「驚異のウルトラテクノロジー」はなぜ、どのように可能だったのか?

現代のハイテクを知り尽くす実験物理学者・志村史夫さん(ノースカロライナ州立大学終身教授)による、ブルーバックスを代表するロング&ベストセラー「現代科学で読み解く技術史ミステリー」シリーズの最新刊、『古代日本の超技術〈新装改訂版〉』と『古代世界の超技術〈改訂新版〉』が同時刊行され、続々と増刷されています!

国内・海外のさまざまな遺跡を直接訪れ、そこに隠された「古代の超技術」を“自らの目”で探求してきた志村さんが、今春訪れたのが「やまのべのみち」です。

古の天皇の陵墓(古墳)をはじめ、さまざまな事跡・遺跡に次々と遭遇できる「やまのべのみち」は、日本の古代、すなわち『古事記』や『日本書紀』、『萬葉集』の時代を実際に体感できる最良の場所とも言われます。

前編では、「やまのべのみち」の途上で出会う「前方後円墳」の構造と機能の謎を解き明かします!

「古代の超技術」の謎を解く

私が古代世界史に興味をもったきっかけは、小学生の頃に『少年少女世界の歴史 第一巻 古代文明のあけぼの』(あかね書房)という本を読んだことだった。エジプトの大ピラミッドをはじめとする巨大な石造古代遺跡に圧倒された。

また、中学校の修学旅行で奈良を訪れ、法隆寺五重塔、薬師寺東塔、東大寺大仏殿などの古代木造建築物を見たとき、私はすっかり古代日本史の虜(とりこ)になった。そのとき私を魅了したのは、単純に、それら巨大な、美しい形の「物」であった。

“おとな”になってからは、私自身が長年、半導体エレクトロニクスという現代の最先端技術分野の研究に従事したこともあり、私の「古代史」に対する興味は「コンピュータも大型クレーンもない時代に、なぜあれだけ大きな、高い建築物を精巧に造ることができたのか」という「謎」、具体的には「古代の超技術」に移った。

幸いにも、この約40年間で、国内外の多くの古代遺跡や古代建造物を訪ね、自分の目で見て、私が抱いた「古代の超技術」の「謎」の多くを、自分なりに解明できた。

その「謎解き」を縷々(るる)述べたのが、私自身の幼時からの読書、勉強、研究・道楽、思索、総じて「人間論」の「集大成」ともいうべき、昨年12月に上梓した『古代日本の超技術〈新装改訂版〉』『古代世界の超技術〈改訂新版〉』(講談社ブルーバックス)である。

日本古代史上の重要人物たち

私の「古代史」への興味は「物」から「技術」へ、そしていま「人」、つまり日本古代史上の重要人物にかかわる史実と物語へと移っている。

特に2〜7世紀、『魏志倭人伝』や『記紀』(古事記と日本書紀)、『萬葉集』の時代の「人」を中心とする日本古代史は面白い。私はすでに、この時代にかかわる小説を含む100冊以上の本を読んでいるが、「日本国創成期」の重要人物、史実・推測に対する興味は尽きることがない。

日本の古代、つまり『記紀』や『萬葉集』の時代を実見・体感できる最良の場所が「やまのべのみち」である。「やまのべのみち」については、「山の辺の道」「山ノ辺ノ道」「山辺の道」など、いくつかの書き方があるが、本稿では『古事記』にならい「山辺道」と表記する。

南北2つのルート

いま、奈良県桜井市の桜井駅(JR西日本・桜井線[愛称:万葉まほろば線]、近鉄大阪線)から大神(おおみわ)神社、景行(けいこう)天皇陵、崇神(すじん)天皇陵、石上(いそのかみ)神宮などを経て、天理駅にいたる約16kmの山辺道は「ハイキングコース」として人気があるらしいが、私のような古代史好きの者は、歴史上の人物や事跡・遺跡に次々と遭遇できることに終始、胸をときめかせながら歩くことになる。

じつは、上記のコースは、一般に「山の辺の道・南ルート」とよばれるものであり、『山の辺の道の遺跡を訪ねて』(天理市教育委員会、2004)によれば、これとは別に、石上神宮以北、布留(ふる)遺跡、石上大塚古墳などを経て櫟本(いちのもと)駅にいたる約7kmの「山の辺の道・北ルート」がある。

また、「山辺道」の定義も複数あるが、本稿では図1に示す「南ルート」を「山辺道」として扱うことにする。

「コフトモ」との散策

私は、桜が満開のうららかな春の日、同好の「コフトモ(古墳友だち)」3人と桜井駅から天理駅まで、適宜「寄り道」をしながら散策した。

地図では約16kmとなっているが、実際に歩いた距離は約27km、ほぼ中間点の天理市トレイルセンターでの昼食時間を含み、約10時間の「古代史散歩」だった。

大和桜井に生まれ育った日本古典の泰斗・保田與重郎(やすだ・よじゅうろう/1910〜1981)は、

〈今いふ山ノ邊ノ道は、勝地大和の中でも、春はことにうるはしい道である。三輪から狭井の址、玄賓庵、檜原社の前をへて、丘を上り下りする。穴師、巻向あたりの桃の花蔭の赤埴の畑道は、色も眺めも大和第一と私は自分では信じ、人にすすめて同意を得ることが多い。しかもこの道が、わが國の「歴史時代」の曙光に照らされた道であつたといふ民族の歴史の意味を、その春陽桃花の下を歩きつつ、詠嘆をこめて思ひ出すことであつた。それは山ノ邊ノ道を舞薹とし、道邊の諸々を歌枕とした、「萬葉集」の数々のうたを思ふよりも、はるかに身につまるものであつた〉

と書いているが(参考図書1)、われわれはまさに、うるわしき春の日、「春陽桃花の下」を「わが國の『歴史時代』の曙光に照らされた道であつたといふ民族の歴史」を想いながら山辺道を歩いたのであった。

古代日本の原風景

古代の山辺道は、「今の櫻井市に敷島といふ地名が、初瀬(ハセ)川と粟原(オオバラ)川に挟つた平野の一ケ所にある。古名で海石榴市(ツバイチ)、今の金屋の対岸である。このあたりから、三輪山の麓を通り、巻向(マキムク)、穴師(アナシ)から、渋谷(シブタニ)、釜ノ口をへて、北の端は、石ノ上(イソノカミ)の近く勾田(マガタ)といふあたりまで」(参考図書1)の幅約2m足らずの小道であったらしい。

現在の山辺道も、原風景の「幅約2m足らずの小道」であることに変わりはないが、前述のように、桜井駅〜天理駅の約16kmの「古代史」を堪能できるハイキングコースとなっている。古代の奈良盆地は沼地や湿地が多く、これらを避けて、山林、集落、田畑の間を縫うように三輪山、龍王山などの山裾に沿って造られた道であるため、曲がりくねったところが多い。

ともあれ、山辺道の沿道には平等寺、大神神社、狭井(さい)神社、檜原(ひばら)神社、景行天皇陵(渋谷向山古墳)、崇神天皇陵(行燈山古墳)、櫛山(くしやま)古墳、長岳寺、石上神社などの多くの神社や古墳があり(図1)、当時の古代国家の中枢がここにあったこと、山辺道が文化交流の重要な幹線道路であったことがわかる。

人と神々の間

前掲の保田與重郎にいわせれば、桜井市は「國の根源の地」であり「大和の磯城島(シキシマ)を中央にした巻向(マキムク)、三輪、磯城、泊瀬(ハツセ)、磐余(イハレ)からなる國の初めの土地」なのである。

山辺道とともに「最古の官道」として知られる「磐余道(いわれのみち)」は、「一段と古い時代、まだ人と神々との間の遠くなかつた日の道」である。

このように日本の古代史が詰まった山辺道であり、興味深いことは尽きないのではあるが、本稿は、拙著『古代日本の超技術〈新装改訂版〉』第2章で縷々述べた「古墳」を主役にした話題に絞ることにする。

山辺道の出発点

桜井駅から30分ほど歩き、初瀬川(大和川)を超えたところに金屋河川敷公園がある。このあたりが、昔、中国大陸、朝鮮半島からの船が難波津(大阪)から大和川をさかのぼって到着し、多くの使者や物品が上陸した海柘榴市(つばいち)で、山辺道の出発点である。

第29代欽明(きんめい)天皇(在位539?〜571)の時代、この地域一帯は磯城島金刺宮(しきしまかなさしのみや)が置かれ、外国との交流も盛んで「複雑な國際情勢下の帝都」(参考図書1)だった。

そのようななか、552年、百済からの使者がこの地に上陸し、佛教を伝えたといわれ、いま、その地に「佛教傳来之地碑」(写真1)が建てられている(1997年7月「日本文化の源流桜井を展く会」建立)。

東大寺・平岡定海(ひらおか・じょうかい)別当揮毫(きごう)の迫力ある文字が深く刻まれた、高さ3.8mの堂々たる石碑である。

「佛教の伝来」は、単に佛教という宗教(あるいは思想)の伝来を意味するものではない。当時の中国・朝鮮半島の最先端技術の伝来・移植をもたらし、以後の日本古代国家の革新的発展をもたらすことになる。

そして、「乙巳(いっし)の変」「大化の改新」(いずれも645年)とよばれる日本古代史上最大の「事件」を経て、日本が「律令国家」への道を驀進することになったのは周知のとおりである。

「前方後円墳」という呼称への疑問

海柘榴市の「佛教傳来之地碑」から3時間ほど歩くと景行天皇陵(渋谷向山古墳)にいたり、そこからさらに20分ほどで崇神天皇陵(行燈山古墳)に着く(図1参照)。

ちなみに、『古事記』崇神天皇条に「(崇神の)御墓は山辺道の勾の岡の辺にあり」と書かれ、また景行天皇条に「(景行の)御墓は山辺道の上にあり」と書かれているので、山辺道が両天皇陵の設営以前から存在していたことは明らかであり、これが文献上「山辺道」の初出である。

第12代景行天皇(在位71?〜130?)、第10代崇神天皇(在位前97?〜前30?)いずれの陵(みささぎ)も、巨大な「前方後円墳」である(写真2)。

このような形の陵を「前方後円墳」とよぶのは、江戸時代後期の尊王論者・蒲生君平(がもう・くんぺい)が『山稜志(さんりょうし)』で「前方後円」という言葉を使って以来の“悪習”であり、私は拙著『古代日本の超技術〈新装改訂版〉』第2章で、「前方後円墳」なる呼称はまったく論理的ではなく、「方形部合体型円墳」とよぶべきであるということを論証した。

ここでは、その詳細を繰り返さないが(興味のある方は『古代日本の超技術〈新装改訂版〉』をご参照いただきたい)、多くの読者が違和感を覚えるであろうことを覚悟のうえで、以後、「方形部合体型円墳」という言葉を使うことにする。

古墳の構造に秘められた「意味」

円墳部に主被葬者を入れた石室・石棺などがあることから明らかなように、「前方後円墳」はあくまでも「円墳」である。

方形部は、その円墳に合体したものであり、関連する祭祀の場としての「目的」をもっていたであろうが、それだけの意味ではなかったのである。

巨大な方形部合体型円墳は、ほぼ例外なく周濠をともなっているが(写真2)、それは水田耕作に不可欠な灌漑用水を安定的に供給する「溜池」の役割を果たしていた。

周濠の容積を大きくすればするほど開拓可能な水田の面積が増し、結果的に稲の収穫量が増える。周濠の容積が拡大するということは、墳丘を造るための盛り土の量が増すということであり、結果的に、より大きな方形部合体型円墳の築造へとつながる。

方形部の規模(幅、長さ、高さ)は陵の周濠の容積に比例し、それは、繰り返しになるが、水田の面積、稲の収穫量に比例するのである。

以上は、前掲の拙著『古代日本の超技術〈新装改訂版〉』第2章で詳細に述べたことの要旨である。

最も驚かされた「事実」

今般、私が山辺道を実際に歩いて最も驚き、感動したのは、古墳周濠の水は「古墳時代」だけのものではなく、現在まで連綿と1500年以上もの間、水田耕作の灌漑用水の「溜池」として使われているのを自分の目で確かめられたことである。

崇神天皇陵円墳部の周濠と斜樋(しゃひ)を写真3に、底樋(そこひ)と斜樋を写真4に示す。斜樋とは、堤の斜面に沿って設置し、底樋に接続する管である。

崇神天皇陵周濠の水は、底樋と斜樋を通して、灌漑用水として周囲の水田(写真2参照)に供給されている。つまり、図2に示すように、崇神天皇陵の周濠は3つの池で構成されており、いまでも「現役」の灌漑用水溜池なのである。

貴重な証言

崇神天皇陵円墳部と石畳の残る山辺道をへだてて隣接し、より山側の高い位置にある櫛山古墳にも、同様の「現役」灌漑用水溜池が見られる(写真5、図2)。

櫛山古墳の2つの池は、江戸時代に灌漑用溜池として掘られたものといわれているが、古墳築造当時からもともとあった周濠を改修したものと考えるのが妥当であろう。櫛山古墳の南側の池には底樋があり、傾斜を利用して、現在でも崇神天皇陵の上池に水を流せるようになっている(参考図書2)。

崇神天皇陵の西側に拡がる水田地帯の灌漑用水は、天理市の柳本(やなぎもと)水利組合によって管理されてきた。その組合長の、崇神天皇陵周濠の水がいまでも「現役」の灌漑用水であることを語る貴重な話が参考図書2に載っている。以下、要旨を引用する。

〈組合が管理する水田面積は約100ヘクタール、約300戸の農家が組合に加入している。もともと水利組合の水田は、崇神天皇陵とその西側500メートルほどにある黒塚古墳の周濠の水を灌漑水源としていた。奈良盆地は雨が少ない地域であるが、柳本はその2つの周濠の水のおかげで、夏場に雨が少なくても灌漑用水確保に苦労することがほとんどなかった。

いまでは、奈良盆地のはるか南、和歌山県の吉野川から分水した水が柳本の水田にも補水されるようになり、基本的に干ばつの心配はなくなった。それでも、30〜40ヘクタールの水田が周濠の水をあてにしており、周濠の水は大事に利用されている〉

いまも生きる「2000年前の天皇の言葉」

崇神天皇陵周濠の満々とした貯水を目の前で見た私は、崇神天皇が詔した「農は国の基本である。人民のたのみとして生きるところである。今、河内の狭山の田圃は水が少い。それでその国の農民は農を怠っている。そこで池や溝を掘って、民のなりわいを広めよう」という言葉(宇治谷孟 現代語訳『日本書紀(上)』講談社学術文庫、1988)を思い出した。

2000年以上も前の崇神天皇の詔は、いまも生きているのである。

ちなみに、天皇陵と治定(じじょう)されている古墳の周濠の水は、宮内庁の管理下にあるらしい。そのため、水田を灌漑したいときには、水利組合は宮内庁に周濠の水の放流を願い出て、その水の分配・管理を水利組合が行うことになっているそうである。

すべての天皇陵正面の拝所に立てられている宮内庁管理の説明札を見れば、なるほどと合点がいく話である。

【参考図書】

保田與重郎『保田與重郎文庫17 長谷寺/山ノ邊の道/京あない/奈良てびき』(新学社、2001)

田久保晃『水田と前方後円墳』(農文協プロダクション、2018)

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