自分らしく生きるため、「無駄に」あきらめるのをやめてみませんか(写真:KiRi / PIXTA)

生きていると理不尽なことや、思い通りにいかないことばかりで、モヤモヤした気持ちをなんとか抑えている人も多いのでは。しかし作家で書評家の印南敦史さんは「自分らしく生きていくために抗(あらが)おう」と話します。印南さん自身、これまでどうしようもない不遇に見舞われながらも、そのたび抗ってきました。なぜそう考えるようになったのか、印南さんの著書『抗う練習』から一部を抜粋、再編集してお届けします。

家が焼けてなにもなくなった

高校2年生だった10月のある日、修学旅行前日のこと。体調が悪かったわけでもないのに、その日の僕は学校にいてもなんだか落ち着きませんでした。あとから思えば、それは「虫の知らせ」というやつだったんですよね。

なんだかモヤモヤするような、表現のしようがないほどいやな気持ち。やがて耐え切れなくなり、3時間目が終わったところで、「印南、バックレかよー」という同級生の声に向かって背中越しに手を振りながら早退したのでした。

よく晴れた日でした。地元に着いて信号を待っているときに見上げた空は、まさにスカイブルーそのもの。最初は呑気に「きれいな空だなー」と感じていたのですが、やがて、美しいその空に真っ黒い煙が上がっていることに気づきました。

しかも位置的には自分の家の方角です。思わず、「あー、隣の**さん、とうとうやらかしたかー」などと失礼きわまりないことを感じたりしていたのですけれど、近づくにしたがって見えてきた**さん宅はいつものままです。

「え……いやいや、まさか、そんなことは」と思いながら小走りに近づいてみたら、数時間前にはなんともなかった我が家がものすごい勢いで燃えていて、道路側の2階にあった弟の部屋から真っ黒な煙が噴き出ていました。

出火原因は、祖母のたばこの火の不始末。一服して火を消したたばこの吸い殻を、紙にくるんでくずかごに捨てて外出したというのですから、そりゃー火事になって当然です。

しかも父の母に当たる祖母は、いろいろやらかすパンクな婆ちゃんとして以前から有名な人だったのです。

その日も帰宅したときには憔悴した様子を見せていたものの、心配した親戚が集まってきて謎の宴会状態になったら気が大きくなってきて、「こんな火事なんて運命だ」などと言い出す始末。

「自分が原因だろ、ふざけんな!」と声を荒らげたところを近所の電気屋のおじさんから、「わかる。気持ちはわかるけど、ここはがまんしろ」と止められたりして、なんだかホームドラマの登場人物みたいになっちゃったな、などと感じたりもしたのでした。

そんな経験があったからこそ実感できたことがありました。それは、「起きてしまったものは仕方がない」ということ。

起きてしまったことは厳然たる事実です。元に戻したいと思ったとしても、時間を巻き戻すことは決してできない。悲観したところでなにも変わらないのだから、ただ受け入れるしかない。そう感じたわけです。

そしてその先に、ひとつの重要な答えを見つけたのでした。

起きてしまったことを変えられないのだとしたら、すべきことはただひとつ。「では、ここからどう進んでいくべきか」を考えることだ、と。

これは、とても大切な気づきだったと思っています。そこからどういう選択をするかによって、人生は大きく変わるものだと実感できたから。そしてそれは、この世界を生きるすべての人にあてはまることでもあるはずです。

「いまある状況」を別の角度から見てみる

「起きちゃったことは仕方がない」などとことばにしてしまうと、なんとなく無責任なことのように、場合によっては軽そうにも聞こえるかもしれません。「だって、しょーがねーじゃん」みたいに。

でも、実際のところ「しょーがねー」のです。起きてしまった事実である以上、それを悲しんだり悔やんだり憂いたりしたところで、なんの意味もありません。

重要なのは、「いまある状況」をいろんな角度から見てみることなのではないでしょうか。ひとつの角度からしか見なかったとしたら、見えるものは限られてきます。その角度から見えたものがネガティブなものだったとしたら、それはネガティブなこととしか映らない。

けれども、Aという地点からはネガティブに見えるものも、B地点やC地点からはまた違って見えるかもしれない。そして、そんなところになにかしらのヒントが隠れている可能性も大きいのです。

そしてそれは、どんなことにもいえることなのだと思います。

逆にいえば、ひとつの角度からだけ見て、そこから見えることだけがすべてだと決めつけてしまうと、そこで可能性は終わってしまうのです。それは単に“ひとつの側面”にすぎないのに。

「いまの自分」を客観的に判断する

起きてしまったことを修正できないのだとしたら、そこからするべきは、「これからどう進むべきか」を考えること。そして重要なポイントは、「それが起きてしまったからといって、すべての可能性が閉ざされたわけではない」ということです。

これは非常に大切な考え方です。

起きてしまったのは事実だけれど、だとすれば、(少しでも精神的に楽になれそうな)よりよい道筋を探して進んでいけばいいのです。そうすれば、いま目の前にある“最悪の結果”よりもいいものに出会えるかもしれないのですから。

つらいつらいと嘆いていたところで、なにもはじまらない。大切なのは「そこから先」について考え、そして進むことなのです。

そして、そのために重要なのは「いまの自分」を客観的に見つめること。悲しかったり悔しかったりするのなら、「なぜ、悲しいんだろう?」「なぜ、悔しいんだろう?」と、あえて自分の負の感情と向き合ってみるのです。

そうすれば、(ネガティブな感情に押され忘れてしまいがちな)「そうか、○○だから、○○が悲しいと感じるんだな」「なるほど、○○だから悔しいし、気持ちが落ち込むんだな」ということを冷静に理解することができるようになるからです。

問題を「なかったこと」にしない

そこまでたどり着ければ、自分を取り巻く問題の半分は解決したようなもの。

なぜならそこから先は、自分を追い詰めるそれらの“理由”を解決するための策を考え、実際に動いてみればいいからです。そうすれば間違いなく、その問題は乗り越えることができるはず。

僕自身、日常的にこの作業を行っています。たとえば悩み事があって寝つけないときには、「早く寝よう」としても無駄。悩みが邪魔をするのですから当然です。

だからこそ、「なかったこと」にするのではなく、あえて向き合ってみるのです。なかなか寝つけないベッドのなか、寝つけない自分を認めたうえで、「なぜ、自分はこんなにモヤモヤしているんだろう?」とその理由を考えてみる。

“モヤモヤ”の原因だと思われる要素を、ひとつひとつ洗い出してみるのです。そうすれば原因は必ず見つかりますから、あとはそれを翌日やそれ以降にクリアにするだけ。

それに、そこまで考えて納得できれば、そのうち自然と眠たくなってきます。だから、そのまま眠って翌朝目を覚ませば、そのときには「昨晩考えたことを、これから形にしよう」と多少なりとも前向きな気分になれるはずなのです。

「いま足りないもの」を探す

モヤモヤとした感情が心のどこかにわだかまっているとしたら、それは自分が求めているなにかが足りないからかもしれません。だとすれば、その“足りないなにか〞を手に入れられれば、少なくともその時点でのモヤモヤは解消できるわけです。

もし、なにか欲しいもの、手に入れたいものがあって、でも手に入れることができず、「○○が欲しいけれど、手に入れられないからモヤモヤしている」というような状況にあるのなら、方法はいたってシンプル。一生懸命働いてお金を貯めるなどして、なんとか○○を手に入れられる状況をつくればいいわけです。

物質的なものではない、たとえば仕事などについての「あの結果にたどりつきたい」というような思いにしてもそう。たどりつきたいのであれば、それなりの努力をして、たどりつけばいいのです。

いたって当たり前のことですが、実際のところ、それができていない方も少なくないはず。

なぜならそういう方は多くの場合、やる前から「どうせ無理でしょ」などとあきらめてしまうからです。いわば、抗っていないのです。だとしたら、やってみたほうがいいに決まっているじゃないですか。


もちろん、どれだけ努力したからといって、結果が保証されているわけではありません。「必ず手に入れられる」とは誰にも断言できませんし、時には失敗に終わることもあるからです。

いや、現実的には「努力したから手に入れられた」ということより、「努力したけどダメだった」ということのほうが多いかもしれません。

しかし「乗り越えた」ことが事実であるなら、そのときには○○とは別の、大切ななにかを手に入れているはずです。

じつは、もともと欲しかった○○よりも、そちらのほうが人間形成という意味では大きかったりもします。もちろん、欲しかったものが手に入れば、それに越したことはありませんけどね。

(印南 敦史 : 作家、書評家)