連載◆『元アスリート、今メシ屋

第3回:山口俊(元DeNAほか)前編

 横浜ベイスターズ(当時)でプロ野球選手としてのキャリアをスタートした山口俊。現在は東京・六本木で、実家であるちゃんこ店『谷嵐』(大分県中津市)の味を継ぐ『ちゃんこTANIARASHI』を経営している。高校生ドラフトでの1位指名、クローザーとしての台頭、その後の不調と先発として起死回生の復活劇、涙のFA会見と巨人への移籍、平成最後となったノーヒットノーラン、そしてMLBへの挑戦と挫折。山口の野球人生は、17年間で積み上げた日米通算68勝112セーブという数字以上のドラマに溢れている。

 インタビュー前編では、主にベイスターズ時代の話と、FA宣言に至るまでの経緯を訊いた。


ベイスターズ時代の山口俊。主にクローザーや先発として活躍した photo by Sankei Visual

【力士である父からの言葉で奮起した少年時代】

――山口さんは現在、六本木駅/麻布十番駅から徒歩9分の場所で、ちゃんこ鍋と大分料理の『TANIARASHI』という飲食店のオーナーをされていますが、開店のきっかけを教えてください。

山口俊(以下、山口) 元々、祖父の時代から続いている『谷嵐』という本店が故郷の大分中津市にありまして、いずれ自分も飲食店を経営したいという希望もあり、2022年末に開店しました。2023年の春に現役を引退した後は、ほぼ毎日この店に出ていますね。

――山口さんが厨房に立っているんですか?

山口 いえ、私は主に接客をさせてもらっています。ただ、開店にあたって料理人には本店へ1年間修業に行ってもらい、大分の本店そのままの味で営業させてもらっています。お客様のニーズに合わせたオリジナル料理や、こだわりのオーガニックワインなども提供していますよ。

――プロ野球の世界とは違う世界。飲食業に従事しての感想はいかがですか。

山口 とにかく働く時間が長いですよね。ランチ営業もしているので、午前中から深夜まで働くのはプロ野球時代との一番の違いです。ただ、接客で幅広い分野の方々とお会いできるのは飲食店のよさですよね。勉強になるというか、現役中にはわからなかったことが見えたりして、非常に面白さを感じています。

――お店の話は後ほどじっくり伺うとして、まずは野球選手時代の話を訊かせてください。小さい時からプロ野球選手を夢見ていたのでしょうか。

山口 プロになると明確に決めたのは中学生の時ですね。僕は太りやすくて、力士だった父親から「痩せなかったら相撲をさせるぞ」と言われ、野球をやるために太らないよう毎日のように走っていたんです(笑)。

【投げ方が分からなくなり、球速が130キロにまで落ちたことも】

――相撲取りにはなりたくなかったから。

山口 はい。それに「人と同じことをやっていては成長のスピードは変わらないから、人がやっていない時にトレーニングすることが大事だ」とも言われていたので、雨の日であっても毎日のように走り続けました。もちろん最初は嫌だったんですけど、日課になると、走らなければいけないという強迫観念に駆られるんです。結果的に努力は裏切らないというか、走り続けてきたことによって「自分はこれだけやってきたから大丈夫だ」って思えるようになり、野球でも結果を出せるようになったんです。

――柳ヶ浦高時代に2度の甲子園出場を果たすと、2005年の高校生ドラフトで横浜ベイスターズ(当時)から1位指名されました。

山口 うれしかったというよりも、"スタート地点に立ったな"っていう感覚でした。目標だったドラフト1位入団をクリアして、"よしこれからが勝負だぞ"って。

――ルーキーイヤーから一軍のマウンドに立ちました。先発として初登板、初勝利を収めるなど結果を出しましたが、しかしその後、4年目まで苦しい時間が続きましたね。

山口 最初は怖いもの知らずで、どんどんストライクを投げ込んで、結果的に抑えられてはいたんですが...。経験を重ねていくほど、甘い球は痛打されますし、制球力をつけなくちゃと思って。でもそうすると腕がどんどん縮こまって、腕の振り方、ストレートの投げ方を忘れてしまって......。2年目はほぼファームでの生活だったのですが、一時期ストレートの球速が130キロぐらいしか出なくなってしまったんです。

――えっ、イップスのような感じですか?

山口 そうですね。3年目のキャンプインの時、当時ファームの投手コーチだった吉田篤史さんといろいろ話して、マンツーマンで見てもらったんです。膝立ちでのネットスローから始めて、吉田さんは徹底的に付き合ってくださいました。そうしたら夏場にようやく150キロに戻すことができたんです。振り返れば、あそこがベイスターズでの1度目のターニングポイントでしたね。

【復活の裏にあった木塚コーチの存在】

――そんなことがあったんですね。4年目の2009年からはクローザーに抜擢され、強いストレートと鋭いフォークを武器に、2012年には通算100セーブを達成しました。勝ち試合を締めるクローザーという立場はいかがでしたか。

山口 やりがいもありましたけど、いろいろな意味で大変でしたね。当時はなかなかチームが勝てない状況だったので、出番が週に1回とか、ひどい時には投げずに10日間空いたり、気持ちを維持するのが大変でした。と思ったら7回途中から最後まで投げることもあったりして。今思えば貴重な経験をさせてもらいましたね(笑)。

――今では考えられない起用法ですね。山口さんは2014年に先発に転向します。その直前はクローザーまたはセットアッパーとして試合に出ても抑えきれず、ファンからも厳しい声が飛んでいました。

山口 先発転向もまた自分にとって大事なターニングポイントでした。リリーフとして結果が出ない時期に、ファームに落ちた際、投手コーチだった木塚敦志さんといろんな話をしたんです。その時、僕は木塚さんに「先発をやらせてください」と伝えたんです。リリーフとして苦しい状況下、これで終わってしまったら後悔しかない野球人生になってしまう。だったら以前からやりたかった先発にチャレンジしてみたいって。

――まさに背水の陣ですね。これでダメだったら、もう終わりという覚悟。

山口 はい。木塚さんは「(首脳陣に)伝えることはできる」と。「ただもう一度、お前自身、野球を見直すことができるか?」と問われ「しっかりやるので、お願いします」と頭を下げました。そこから毎日、朝一番にグラウンドに来て先発としての調整が始まりました。木塚さんは親身に付き合ってくださって、本当に感謝しかないですね。

――親身と言えば、現在ベイスターズを指揮する三浦大輔監督は現役時代「一番叱った後輩は山口俊」と、おっしゃっていました。

山口 はい。三浦さんにも本当にお世話になりました。常々「このままじゃ終わっちゃうぞ」と言われていて、クローザー時代も「お前が試合を締める役割なんだから、立ち振る舞いなどで隙を見せるな。お前が打たれたら仕方がないと思われるような選手にならなきゃダメだろ」と。三浦さんの言葉で、ピッチャーとしていろいろと考えさせられました。本当にありがたいことです。

「ベイスターズに残りたい」という気持ちも抱えながらのFA宣言

――ベイスターズ時代、先発としては二桁勝利を挙げるなど存在感を示しました。抜群のスタミナに強いストレート、縦の変化と緩急を織り交ぜながらゲームを作っていく。やりたかった先発で投げてみて、どんな風景が見えていましたか。

山口 正直に言えば、自分はプロになってこれがやりたかったんだって。2014年9月の阪神戦で初完投・初完封をすることができたのですが、達成した時は、自分が理想とする、憧れてきたピッチャー像はこれなんだって素直に思えたんです。

――起死回生の先発転向。しかし先発になって3年目の2016年シーズンを終えると、11年間過ごしたベイスターズを離れFAで巨人へ移籍します。

山口 FAに関しては、移籍するにせよしないにせよ、他球団の評価を聞いてみたかったというのはありました。

――当然の権利だと思います。当時、涙を流しながらの権利行使表明でしたね。

山口 正直に言えば、ベイスターズに残りたいという気持ちもあったんです。2016年にベイスターズは初めてクライマックスシリーズへ進出したものの、僕はシーズン終盤の故障で、最後まではチームの力になれなかったという心残りもありました。しかし交渉を重ねた結果、うまくいかず、愛着のあったベイスターズを離れることになりました。

>>インタビュー後編に続く

【Profile】山口俊(やまぐち・しゅん)
1987年7月11日生まれ。大分県中津市出身の元プロ野球選手。大相撲の元幕内力士である谷嵐関を父に持つ。甲子園に2度出場し、2005年の高校生ドラフトで横浜ベイスターズ(当時)から1位指名を受け入団。2009年のシーズン中にクローザーとして頭角を現し、2010年から2年連続で30セーブを記録。その後先発に転向し、自身初となる二桁(11勝)勝利をあげた2016年オフにFAで巨人に移籍。2018年には平成最後となるノーヒットノーランを達成。2019年は勝利(15勝)、勝率(.789)、奪三振(188)の3冠に輝く。2019年オフに、巨人の選手としては初となるポスティングシステムによる移籍でMLB挑戦を表明。2023年春に現役引退を表明した。現在は東京・六本木でちゃんこ店『TANIARASHI』を経営している。日米通算460試合に登板し、68勝70敗112セーブ。

<山口俊さんのインタビューの動画はこちら>