赤坂のタワマンに住む自慢の彼だけど、裏では…。29歳女の人には言えない悩み
東京の女性は、忙しい。
仕事、恋愛、家庭、子育て、友人関係…。
2023年を走り抜けたばかりなのに、また走り出す。
そんな「お疲れさま」な彼女たちにも、春が来る。
温かくポジティブな風に背中を押されて、彼女たちはようやく頬をゆるめるのだ――。
▶前回:「このままじゃ、ヤバい」銀行に入社して7年。惰性で働く30歳女が決意したコト
千佳(29) これって、誰の人生?
「このカバン、かわいい」
日曜日。
表参道にあるマルニのブティックで、千佳の目は釘付けになる。
― もうすぐ30歳の誕生日だし、一念発起して買っちゃおうかな。
店員に声をかけて持たせてもらうと、華やかな気分に包まれた。
「お客様、ステキです。本日のお召し物にもよくお似合いですよ」
ベージュのニットに、白いスキニーパンツ。
確かに今日のコーディネートに、赤は差し色として映える。
しかし千佳は、まじまじと鏡を見たあと、一転して暗い表情になった。
― 勇馬、何て言うだろう?
彼氏である勇馬の反応が、どうしても気がかりなのだ。
勇馬は35歳と年上で、シニア向けの化粧品会社を経営しているやり手の男だ。
千佳が27歳の頃に食事会で出会い、お互いに一目惚れして付き合って2年。
努力家で、自分にも他人にも厳しい。そんな彼に憧れ、尊敬の念を育ててきた。
しかし、その独特の厳しさが千佳にも降り注ぐようになり、最近は窮屈している。
― このバッグ、買ったらきっとジャッジされてしまう。
「ちょっと派手すぎるよ」
「小さいから、実用性には欠けるね」
勇馬は、いつも片眉をつり上げてジャッジするのだ。千佳のあらゆる選択を――。
「ただいま」
同棲中の赤坂のタワマンに帰宅した千佳は、長い廊下を歩いて、リビングルームへ続く大きなドアを開けた。
友人を招くと誰もが「広っ!」と目をパチクリさせる、45畳のリビング。革張りのソファに腰掛ける勇馬は、タブレットを凝視したまま「おう」と言った。
カバンは、結局諦めることにした。
― 高い金額を払って勇馬にマイナスの評価を下されるのが、怖いから。
広々とした洗面所に行って、一人手を洗う。
鏡を見ながら思うのは、最近の自分の8割くらいが、勇馬の手で作られているということだ。
― この茶髪も、服も、ネイルも、ぜんぶ勇馬のお達しなのよね。
たとえば3ヶ月前、久々に黒髪に戻したとき、勇馬は「茶髪のほうが似合うよ、戻しなよ」と言った。
オレンジベースのワンピースを着たときには「その服、子どもっぽくてちゃっちいね」と言った。
Instagramで見た真っ白なネイルをしてみたら「骨みたいで怖い」と言った。
勇馬は、あくまで真面目な表情で、ときには柔和な声色で、千佳のすべてに評価を下す。
そんな勇馬の意見に、千佳は耳を傾けてきた。
実際、勇馬のジャッジは正しいと千佳は思っている。
記念日にもらったティファニーのネックレス。誕生日にもらったセリーヌのバッグ。
身につけると、必ず友達に褒められる。
だから千佳は恐縮してしまう。
勇馬にジャッジされるのを「嫌だ」と言える勇気を、持ち合わせていないのだ。
― 勇馬は一般的に見てセンスが良いわけだし、かっこいいし。
勇馬との相性について葛藤を抱えたまま、29歳になってしまった。
― 今別れたら誰とも結婚できなくなりそうだし…。裕福な生活が送れるんだから、このまま我慢して結婚してもいいかも。
そんな本音を抱えているのが事実だ。
そのとき、千佳のスマートフォンが鳴った。
「ん?沙莉?」
大学時代、ボランティアサークルで仲が良かった沙莉から、久々の連絡があった。
『沙莉:久しぶり。千佳が忙しいのは重々承知してるんだけど、もし興味があったら一緒にまたボランティアしない?』
『沙莉:来週の日曜、もしよかったらどうかな?』
彼女は、神奈川県の大手地方銀行に勤務している。今度、地方創生を担当する部署に異動願を出したい関係で、再びボランティアをしてみたいのだそうだ。
― うれしい。
大学時代の友人とは、年々関係が薄くなっている。そのことに寂しさを覚えていたこともあり、千佳は誘われたこと自体に笑顔になる。
― 久しぶりに、いいかもなあ。
千佳が今勤めている病院の医局は、殺伐とした雰囲気だ。上下関係がきっかりしているので、年上の看護師に気をつかう。
― たまには上下関係を気にせずに、自分らしく何かを頑張りたい。
千佳はスマホを片手に、リビングルームに向かった。
相変わらずタブレットで何かを読んでいる勇馬に、声をかける。
「来週の日曜、お出かけしてくるわ」
「え、どこ行くの?」
「静岡」
「静岡?また何で?」と勇馬は言う。
「あの…ボランティアというか。大学のときの友達が、久々に一緒にやらないかって」
勇馬は片眉を上げた。
「ああ、千佳ってボランティアサークルだったもんね。でもボランティアって、どうなんだろう」
― ああ、またジャッジされそう。
千佳は、体を硬くして次の言葉を待つ。
「千佳は看護師免許を持ってて、キャリアを積んできたわけでしょう?大学時代とは千佳自身の価値が違うと思うんだよ」
「…そう?」
「千佳みたいな人がボランティアをやるのは、経済合理性がないと思うけど」
勇馬は、とても優しい表情をしている。悪気がないことが手に取るようにわかるから、千佳は努めて笑顔を作った。
「勇馬の言っていることはわかるんだけれど…あくまでプライベートとして行きたいのよ。
私、毎日病院に行って、すごく疲れているから、気分転換したいの。それに、久々に友達に会いたいし」
「だったら」と勇馬はハキハキと言う。
「気分転換したいんなら、ゴルフがいいよ。ゴルフなら俺も行くし、その子も誘ったらいい」
勇馬はタブレットをいじり始めた。
「それこそ静岡、久々に行ってもいいな。御殿場とかね…」
楽しげな勇馬を、千佳はこっそり睨む。
― 私、ゴルフってよくわからないし、あんまり好きじゃないのに。
このことも、千佳が勇馬に言えずにいることの一つだ。
かつて勇馬は言っていた。
「ゴルフが嫌いって言うやつは、だいたい怠け者で、仕事ができない奴だよ」
だから千佳は「ゴルフ好き」の顔をして、誘われたらついて行くことにしてきたのだ。
◆
次の日曜日。
沙莉に「予定が合わない」と言い誘いを断った千佳は、勇馬と2人で前半のラウンドを終えた。
ランチを食べながら、勇馬は言う。
「大学時代の子、来たらよかったのにね。今日は結局ボランティアに行ってるのかな?」
「そうだと思うよ」
天ぷら御膳と、うな重。今日のそれぞれのランチは、勇馬がセレクトしたものだ。
しかし、美味しいものを食べている割に、千佳の表情は浮かない。
― ゴルフは…やっぱり私には合わない。
疲れた心身をごかまして笑顔で食事を終えると、化粧室に寄った。そのとき、沙莉からまたLINEが送られてきた。
サークルの仲間が沙莉を合わせて4人。静岡で、地元の人たちとフリーマケットを開催している様子を映した動画だ。
『沙莉:大学時代を思い出すよ!千佳も今度は来てね』
― 私だって、今日はゴルフじゃなくてそっちに行きたかったなあ。行きたかったのに、行けなかった…。
立ち尽くしたまま、短い動画を3回再生する。そのたびに、自分の本心が浮かび上がる。
― でも、行かないという選択をしたのは、自分。私、一体誰の人生を生きてるんだろう。
大きな窓からグリーンを見つめる千佳は、ふと、勇馬にちゃんと自分の意見を言えたら、という想像を膨らませた。
そしたら、身につけるものも、休日に行く場所も、自分の好きなものを選べる。
「経済合理性」なんて気にせずに、ボランティアに行きたい。
「漫画より本のほうがいいよ」なんて言われずに読みたい漫画を読みたい。
「料理はYouTubeで学べば十分」と言われずに料理教室に行きたい。
レストランで、好きなものを食べたい。
― 今日のお昼、私は本当はざるそばがよかったけれど、言えなかった。
「そばは茹でるだけなんだから、費用対効果悪くてもったいないよ。外食は、手間がかかるものを頼まないとね」
過去に勇馬がそう言ったから、外食でそばを頼まない人間になっていたが、好きにそばを注文できる。
「自分の好きなものを、堂々と好きって言える自分になりたい…」
勇馬には、感謝をしている。自分一人ではできないようなラグジュアリーな経験をたくさんさせてもらった。
でも、これ以上自分の気持ちを押し殺していると、自分の人生というものがなくなるような気がしてくる。
「千佳?」
背後から声をかけられる。
「ここにいたのか。そろそろ後半、始まるよ」
少し日焼けをした勇馬の顔。
千佳は、思い切って本音をぶつけてみたい気分になっている。
「ねえ勇馬」
「ん?」
「私、次の休みはボランティアに行くね」
口を開いた途端、千佳の中で堰き止めていた不満が、噴出する。
「あと、料理教室にはやっぱり行きたい。…黒髪も、オレンジのワンピースも、白いネイルも私は好き。漫画もたくさん読みたい。ずっと言えなかったけど、私には私の好きがあるの」
すると、勇馬は浮かない顔で「何、急に?」と言う。
「つまり…。これから私は、私の本当に好きなことをしたいの」
初めて本音を伝えたから、心臓がバクバクする。勇馬は、優しい反応をくれるだろうか。千佳は淡い期待を胸に反応を待つが、勇馬はフッと鼻で笑った。
「でも…千佳が好きってと思うもの、俺は好きじゃないからなあ」
千佳は、途端に頭が真っ白になる。でも、勇馬の反応はなんとなくわかっていた。
「…そうなんだね。もしかしたら、合わないのかな、私たち」
すると勇馬は眉間にシワを寄せて言う。
「だから、俺がもっといいものを教えてあげてきたんだろう。何がダメなんだっけ?」
― ふう…。やっぱり、話が噛み合わない。もう、別れたほうがいいのかな。
千佳はなお、勇馬を手放すことにものすごい惜しさを感じる。しかし、別れたあとに到来する自由を思うと、気分がちょっと明るくなるのだった。
そのことに、千佳は自分で苦笑する。
― 別れたら…次のお休みに、マルニのあの赤いバッグを買いに行こう。
千佳は、勇馬の質問には答えない。
「よくわからん」と腑に落ちない様子の勇馬を置いて、先に“最後のラウンド”へと向かっていく。
▶前回:「このままじゃ、ヤバい」銀行に入社して7年。惰性で働く30歳女が決意したコト
▶1話目はこちら:大学卒業7年で差が歴然。29歳女が同級生に感じるコンプレックス
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