上智の院まで出たのに、就活は惨敗した女。「東大に行けばよかった」と悔やんだ末、出した結論は
麻布には麻布台ヒルズ。銀座には、GINZA SIX。紀尾井町には、東京ガーデンテラス紀尾井町…。
東京を彩る様々な街は、それぞれその街を象徴する場所がある。
洗練されたビルや流行の店、心癒やされる憩いの場から生み出される、街の魅力。
これは、そんな街に集う大人の男女のストーリー。
▶前回:「息子は絶対インターに!」自身もインター出身の女が、挫折することになった“ある理由”
Vol.4 『今しかできないこと/東京ガーデンテラス紀尾井町』瑞稀(24歳)
― やっと終わった!みんな、ソワソワしだしてるな…。
上智大学大学院に通う大学院2年生の瑞稀は、外資系化粧品会社の入社前説明会に出席していた。
修士論文の提出も終えて、大企業への就職先も決まり、瑞稀はキラキラと希望に満ちた春を迎えてもいいはずだった。
しかし、その表情は晴れやかでない。
「瑞稀ちゃん!この後ランチでも行こうかってみんなで話してるの。よかったら一緒にどう?」
休憩中に自販機の前で言葉を交わした、ツヤツヤのショートボブヘアの女の子が、瑞稀に声をかけてくれる。
同じ上智大学出身ということだったが、大学4年生の彼女は、数人の同期を引き連れてリラックスした笑顔を浮かべていた。
「ありがとう。残念だけど、この後予定があって。また、4月に」
そう言って瑞稀は彼女たちに軽い会釈をし、コートを羽織って出口へと向かった。
― 2時間半ここにいただけで、息が詰まって仕方がない。
瑞稀はこの浮ついて落ち着かない様子の人混みから早く離れて、外の空気を吸いたかった。
続々と会場から出てくる、どこか誇らしげで希望に満ちた様子の学生たち。
4月から同期になる予定の彼らを尻目に、瑞稀は足早にエレベーターホールを目指した。
エレベーターに乗り込むと、窓からは見慣れた霞が関の景色が見える。
― 霞が関…。あまり目にしたくないな。
エントランスを外に出た瑞稀は、霞が関のビル群に背を向けて、真っすぐに前を向いて四谷方面へと歩き出した。
「はぁあ…。落ち着く」
赤坂から歩くこと20分。上智大学に到着した瑞稀は図書館に入り、いつもの席に荷物を下ろした。
― あと数週間で、ここには気軽に来られなくなる。参考書を読んだり、試験対策をしたり、論文執筆に明け暮れる日々は、終わり…。
6年間どっぷり浸かってきた、国際開発や地域経済といったアカデミックな世界を離れることの寂しさ。
しかし、瑞稀が後ろ髪を引かれる理由は、それだけではなかった。
― 来月から、社会人。これも、いいかげんに処分しないとね。
目線の先には、背負ってきた大きなリュック。中には国家試験の対策本が数冊入っていた。
去年の夏、瑞稀は国家公務員総合職試験に落ちた。
申込者は約15,000人。倍率8倍の難関だが、その中でも外務省に行けるのは30人程度と一層狭き門だ。
説明会やセミナーでさんざん官公庁へ通い、霞が関の街にも馴染んできた気がした。けれど、そのタイミングで味わった挫折──。
― 再挑戦したところで、選考通過は難しいってわかってる。
外務省勤務という夢をあきらめきれず、この春に実施される翌年度採用試験に申し込みは済ませてあった。
瑞稀はパソコンを開き、幾度となく確認した外務省総合職の採用実績を眺める。
そこに、上智大学の名前はない。
東大卒が過半数を占め、早稲田、慶應出身の大卒男性がパラパラと後に続くというわかりやすい構図だ。
出身大学以前に、女性であること、院卒で年齢を重ねていることもまた不利なように感じてしまう。
― 面接のたびに、「華やかな経歴ですね」って皆言うけれど。
皮肉なことに、一見華やかでエリートらしい瑞稀の経歴は、外務省の採用実績に照らすと不利な条件ばかりが揃っているようだ。
ぐずぐずと考えることを放棄して、天井を見上げる。すると瑞稀のお腹が「ぐぅ」と鳴った。
― あ。今日、朝から何も食べてないんだ…。
あたりを見回すと、大学構内は春休みのためか人気がなく、ひっそりとしている。
なんとなく雑踏が恋しくなった瑞稀は、ふらふらと紀尾井町へと向かった。
― 朝から活動して、どっと疲れた。甘いものが欲しい!
東京ガーデンテラス紀尾井町を歩いていると、色鮮やかなケーキの並ぶショーケースが瑞稀の目に止まる。
― 『ラ・プレシューズ』、お茶もできるんだ。テラスもある…。よし!美味しいケーキでも食べよう。
テラス席に座りプチティースタンドと紅茶をオーダーした瑞稀は、分厚い旅行ガイドブックをリュックから取り出した。
表紙に大きく描かれた国名は「インド」。
海外が好きで世界各国を一人旅してきた瑞稀だが、インドは未踏の地だった。
いつか行ってみたい。そして行けるのは長期休み、すなわち今なのでは…と思う。
その一方で、社会人になるための準備が必要では?はたまた、再試験に向けてもっと勉強すべきでは?と、進路が定まらない故、悩み続けていた。
しかし、ガイドブックのページを捲るごとに、旅路を想像しながら地図をなぞるごとに、ワクワクする気持ちは高まっていく。
すると突然、隣に座っていた人物に声をかけられた。
「お姉さん、インドに行くの?」
― えっ?お姉さんって、わたし?
突然の声かけに瑞稀が驚いていると、女性がこちらへ無邪気な笑顔を向けた。
目が合うと、瑞稀の訝しげな表情に気づいた彼女が声のトーンを上げる。
「突然ごめんね。『インド』って書いてあるから、つい話しかけたくなって」
「あ。はい、ずっと行ってみたくて…」
「そうなの!?インドいいよね。街から街への移動に鉄道で10時間かかったり、街中に牛がいっぱいで道を通れなかったり…それでも魅力に溢れてて」
海外では他人に話しかけられることはよくあるが、日本ではめずらしい。
しかし瑞稀は、この女性と話してみたいと感じていた。
不思議な出会いを楽しみたい。それに、彼女から元気をもらえる気がする──そう思った。
「インド、楽しいんですね!ああ、行きたいな。でも、実は…」
瑞稀は彼女に、今の状況を簡単に話した。
国際問題について学びながら海外に何度も足を運び、国際的な課題にアプローチできる仕事に就きたいと考えていたこと。
外交官になれば希望が叶うと思い、国家公務員総合職試験に臨んだこと。
結果として内定には至らず──今も夢を捨てきれずにいること。
すると、話を聞いている女性の顔が笑顔になっていく。
この話でなぜ笑顔になるのか、瑞稀は不思議に思いながらも一通り話を終えた。
「なるほど。でも、迷う必要はないんじゃない?」
「え?」
「だって、試験は3月中旬だよね。終わったら翌日からインドへ行きなよ。合格発表までしばらく時間はあるはず」
「でも、2次試験の対策もしないと。それに、4月から一般企業で働く予定で…」
― やることだらけだ。のん気に海外旅行へ行っている状況じゃない、よね。
瑞稀は心のどこかで、インド行きを諦めるきっかけを探していた。しかし、女性の反応はシンプルだった。
「そっか。じゃあ、4月には帰国しないとね!勉強はもう、いいじゃない。たった1、2週間で何も変わらないよ」
「それは…」
「今行きなよ。行きたいって感じている時は、自分にその経験が必要なタイミングだよ」
― 彼女の言う通りかもしれない。でも、本当にいいのかな。
逡巡している瑞稀を前に、女性は先ほどから見せていた笑顔を弾けさせ、イタズラっぽく言った。
「あのね、私、実は外務省で働いているの」
「えっ?外交官なんですか?」
「ううん、一般職。そう、一般職っていう道もあるのよ。総合職にこだわらなくてもいいじゃない」
― 一般職…。
瑞稀は今まで無意識に自分をエリートだと自負していたのか、総合職として第一線で働くことしか頭になかった。
国家の外交政策の中枢を担い、世界を舞台に官僚として圧倒的なスピードで昇進する総合職。
対して、彼らの傍らで証明書の発行や会計業務などの事務作業を担う一般職は、あくまで“サポート役”というイメージだった。
しかし、化粧品会社への入社が現実味を帯びた今日。喜びよりも挫折を感じている自分は、働き方や肩書よりも、夢の実現を望んでいるのだと気がつく。
― 国際的な課題解決に少しでも貢献したい。それが私の夢だ。
「そうですよね。あの…えっと」
「あ、ごめん。名乗ってなかった、さくらです」
「さくらさん…は、どうして外務省の一般職員になったんですか?」
「私も一般企業で働いていたんだけど、結婚とか子育てとか色々あって。歯車が狂い始めた時に、全部リセットしたの。それから、幼い頃から外国が好きだったことを思い出して、勉強して、就職した」
「そんなケースもあるんですね」
「うん。数年かかったけど…その時にやりたいことをやってきた結果だから、後悔はしてない。それにだからこそ、今幸せなの」
「その時にやりたいこと、か…」
やりたいことがありすぎて、瑞稀は頭を抱えた。
そんな瑞稀の様子を見たさくらは、シンプルな問いを投げる。
「じゃあ、こう考えてみるのはどうかな。やりたいことのうち、今しかできないことは何?」
「今しかできないこと?」
「そう。例えば、自由に時間が使える今、インドに行く。帰国後はその会社で一度頑張ってみるのもいいし、外務省に気持ちがあるなら総合職試験に再挑戦しながら、一般職の可能性も模索する」
「ふふ。結局全部やるってことですね」
さくらの提案は、目が回りそうな盛りだくさんプランで思わず笑ってしまう。
― でも…できない理由をさがすより、できる方法を考える方がワクワクする。
「大丈夫よ。外務省は逃げないし、私みたいな例もある。それに、全部やってみて見える世界もあるかもよ」
話しすぎちゃってごめんね、と言い残してさくらは席を立った。
次第に遠くなっていく彼女の背中を見つめながら、瑞稀はこの5分間の会話を反芻する。
― 私のキャリアは…私の人生は、ここで決まったわけじゃない。これから自分で試行錯誤しながら描くんだ。
瑞稀はリュックからパソコンを取り出し、ニューデリー行き航空券を探し始めた。
▶前回:「息子は絶対インターに!」自身もインター出身の女が、挫折することになった“ある理由”
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