「光る君へ」の清少納言(ききょう)実はすでに人妻で子供もいた!息子・橘則長はどんな人物?その生涯をたどる

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まひろ(紫式部)とは奇妙?なご縁でしばしば顔を合わせる、ききょう(清少納言)。

打毬の会ではF4の藤原斉信といい感じでしたが、この時点で彼女は人妻、何なら息子が生まれていました。

ファーストサマーウイカ演じる清少納言(「光る君へ」公式サイトより)©NHK

さて、この息子はどんな人物で、どんな活躍をするのでしょうか。

という訳で今回は、清少納言の息子・橘則長(たちばなの のりなが)を紹介。NHK大河ドラマ「光る君へ」には出番があるのか、気になりますね。

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母の才知を受け継ぎ、実務面を支えた能吏

橘則長(イメージ)

橘則長は天元5年(982年)、清少納言とその先夫・橘則光(のりみつ)の間に誕生しました。

大河ドラマで言えば第1回放送から第2回放送の間ですね。

異母兄弟には橘季通(すえみち)・橘光朝(みつとも)・橘好任(よしとう)らがいます。

母の才知を受け継いだ(父はどちらかと言えば無骨な人物でした)則長は、若くして文章生(漢学専攻学生。進士とも)となり、やがて讃岐掾(さぬきのじょう)に任官しました。

讃岐掾とは現代の香川県に当たる地域の国司。その三等官(じょう)です。

県知事を守(かみ。一等官)、副知事を介(すけ。二等官)とすれば、掾は部長クラスでしょうか。

やがて寛仁元年(1017年)に天皇陛下の側近見習いである非蔵人(ひくろうど)となります。

熱心な働きぶりが認められたか、治安元年(1021年)には六位蔵人となりました。

後に図書権助(ずしょごんのすけ。文書管理部署の副官)や修理亮(すりのすけ。営繕部署の副官)、式部丞(しきぶのじょう。官僚養成所の幹部)などを兼任します。

まさに縁の下の力持ち。華やかさには欠けるけど、優秀なればこそ、こういう実務的な部署で重宝されたのでしょうね。

そして万寿元年(1024年)に晴れて従五位下に叙せられ、殿上人(てんじょうびと)の仲間入りを果たしたのでした。時に43歳。

殿上人とは代理に昇殿できる身分を指し、五位以上の位階が求められます。ただし蔵人らは天皇陛下にお仕えする都合上、六位以下でも昇殿していました。

長元6年(1033年)には越中守に任官。現代の富山県に当たる国の長官ですね。

きっと意気揚々と赴任したことでしょうが、翌長元7年(1034年)4月に現地で卒去してしまいました。享年53歳。

橘則長・略年表

母・清少納言の名に恥じぬ息子であった。土佐光起筆

天元5年(982年) 誕生(1歳)寛仁元年(1017年)11月 非蔵人(36歳)治安元年(1021年)1月 六位蔵人(40歳)同年8月29日 図書権助治安2年(1022年)3月29日 修理亮(41歳)治安3年(1023年)2月 式部丞(42歳)万寿元年(1024年) 1月 従五位下(43歳)時期不詳 橘忠望女(能因法師の姉妹)と結婚万寿2年(1025年) 嫡男・橘則季が誕生(44歳)
※このころ、母の清少納言が亡くなる時期不詳 庶子・橘則孝(母親不明)が誕生長元6年(1033年)1月 越中守(52歳)長元7年(1034年) 4月 卒去(53歳)

【没後】

応徳3年(1086年)9月16日 白河天皇の勅撰和歌集『後拾遺和歌集』が完成、和歌が3首入選永享11年(1439年)6月27日 後花園天皇の勅撰和歌集『新続古今和歌集』が成立、和歌が1首入選

終わりに

以上、清少納言と橘則光の息子である橘則長の生涯をたどってきました。

則長は一条天皇・三条天皇・後一条天皇・後朱雀天皇と4代の天皇陛下に仕え、実務面から朝廷を支えたことが分かります。

紫式部の没年は長和3年(1014年)から長元4年(1031年)まで諸説あり、大河ドラマでどの説が採用されるかは分かりません。

だから則長がどこまでストーリーにからんでくる可能性があるかも未知数なので、ワンチャン出番に期待しましょう。

よく清少納言は「中宮定子の没後に宮中を去り、晩年は落ちぶれた」と言われます(没年は不詳)。

しかしこれだけ頼もしい息子がいれば、少なくとも食うに困ったり、野垂れ死んだりようなことはなかったのではないでしょうか(母子関係にもよるでしょうが……)。

ちなみに清少納言は再婚相手との間にも娘の小馬命婦(こまのみょうぶ)を生んでおり、そちらの話も改めてできたらと思います。

※参考文献:

岸上慎二『人物叢書 清少納言』吉川弘文館、1962年1月