東京の女性は、忙しい。

仕事、恋愛、家庭、子育て、友人関係…。

2023年を走り抜けたばかりなのに、また走り出す。

そんな「お疲れさま」な彼女たちにも、春が来る。

温かくポジティブな春の風に背中を押されて、彼女たちはようやく頬をゆるめるのだ――。

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梨乃(27) 私、たぶん愛されてない…


2023年12月24日。

「あのさ、実は大事な話があって…」

その言葉に、梨乃は心臓が飛び上がりそうになるのを感じた。

レストランのテーブルを挟んで、彼氏の隆史が真剣な表情を浮かべている。

― ついに…?

頭に浮かんだのは、“プロポーズ”という言葉。

互いに27歳。周囲は結婚ラッシュ、クリスマスデート。

― あり得る。

アプリで出会い、付き合って1年弱なので結婚にはまだ早いと思いつつも、梨乃は笑顔でソファに座り直す。

しかし次の言葉は、想像とはまったく違った。

「急な話なんだけど、俺、香港駐在になった。実は前から話はあったんだけど、正式に決定したんだ。ビザ次第だけど2月半ばくらいに出国する」

梨乃は、ぽかんと口を開けて隆史を見つめるほかない。

「期間はおそらく2年くらい。ごめんな、梨乃。クリスマスディナーなのに、こんな話になって」

隆史は、大手海運会社で働いている。

「海外転勤をしたい」「出世コースだからね」といつも口癖のように言っていた。

暇を見つけては、中国語と英語の勉強に勤しんできた姿も見ている。

だから梨乃は笑顔で言った。

「よかったね。おめでとう」

しかし、声は震えてしまう。

― 「ついてきてほしい」とか、言ってくれないの?

次の言葉を待つ梨乃をよそに、隆史は目の前にあるサーモンの前菜を丁寧に口に入れる。

― そうだよね。私と離れることなんて、どうでもいいんだろうな。




2月15日。

梨乃は、新卒から勤めている大手印刷会社で、ぼうっと考えていた。

結局、悲しみを引きずったまま年越しをした。そして、あっという間に2月半ばが来てしまった。

― そして今夜、隆史は香港へ飛び立つ…。

結局、隆史からは一度も「ついてくる?」と聞かれていない。彼のあっさりとした態度に拍子抜けしている。

出発予定時刻は16時すぎ。

梨乃は「家の事情があり」と上司に相談し、早退して羽田空港に向かうと決めている。




早抜けするために仕事を片付けなくてはならないのに、今日の梨乃は効率が悪い。

昨夜のバレンタインデー。隆史と過ごせる出発前最後の夜が、不完全燃焼だったからだ。

― 昨日の態度も、ずいぶんあっさりしてたなあ。

梨乃の会社は、毎年1月後半から3月にかけてがもっとも忙しい時期だ。

最近部下が転職で辞めてしまったこともあって、梨乃は例年以上に慌ただしく過ごしていた。

なんとか仕事が終わったのは21時半。

すぐに「今から会いたい」と電話をしたところ、隆史に「無理しないでいいよ」と言われてしまった。

「無理してない。最後の晩だし、会いたいよ」

電話で念押しする梨乃に、隆史は言った。

「明日見送りにきてくれるんでしょう?それで十分だよ。今日は遅くまで働いたんだから、帰ってゆっくり休みな」

優しい言葉なのに、梨乃の心には、冷たさが走る。

バレンタインデー当日なのでチョコを用意していたのに、言い出せずに頷いた。

「わかったよ…」

― やっぱり隆史は、たぶん私のことなんて好きじゃない。

梨乃は、昨晩の記憶を振り払うように、仕事に今一度集中する。

そして11時になると早退して、大至急羽田空港へと向かった。




― あっけなかったな。

隆史が去っていったあと、出発ロビーに立ちすくみ、梨乃は宙を見つめる。

2人きりでじっくり話せると思ったのに、隆史の同期が4人見送りにきていたため、ほとんど話ができなかった。

辛うじてもらった言葉は「梨乃、ゆっくり話せずごめんな。ついたら連絡するわ」。

はつらつと言った隆史は、やはり寂しそうなそぶりをほとんど見せてくれなかった。

― やっぱり、私なんて…。

梨乃はうなだれる。

海外転勤のために自己研鑽を続けて、見事、新しいステージへ進んでいった隆史。

そんな彼と比較して、目の前のことに追われるばかりで、仕事を楽しいとも思えない自分。

悲しいほどのコントラストだと、梨乃はため息をつく。

― 隆史はそのうち、私のことなんかどうでもよくなるのかな。

物理的に離れたら、心が離れるのなんて時間の問題な気がした。

羽田空港の出発ロビーで涙があふれる。

ひとしきり泣いて、ようやく気分が落ち着いたとき、女性から声をかけられた。

「あの…」


「…梨乃ちゃん、だよね?」

振り向くと、大学時代の陸上サークルでお世話になった2つ上の先輩・美羽子さんが、立っていた。

「びっくり、久々だね!」

美羽子さんは、小さなメモとペンを携えている。

― たしか旅行代理店に勤めているはずだ。

「美羽子さん、仕事ですか?」

「ううん。今日は代休。今、コピーライティングのスクールに通ってて。お題が航空会社のコピーなの。あれこれ考えながらキョロキョロしてたら、梨乃ちゃんがいた」

美羽子さんは、満たされた様子で微笑む。

― たしかに大学時代、ずっと「コピーライターを目指してる」って言ってたわ。

「コピーライターになれるかは未知数だけれど、勇気を出して始めてみたの」

美羽子さんの笑顔は、梨乃の目にまぶしく映る。

「気をつけてね」と去っていく美羽子さんに、控えめに手を振った。




「隆史も、美羽子さんも、みんなすごいなあ…」

梨乃は、目の前の仕事が忙しい。

だから、まるで人生が充実している気分になる。

でも、ふとしたときに「私、どこに向かっているんだろう」と思うのだ。

― 私も何か始める…?

しかし梨乃は思う。

― どうせ挑戦したって、大変なのは同じだし。私にできる気がしないし。

空弁でも買って帰ろうと歩き出したとき、梨乃の視線がとまる。

大手新聞社のロゴが描かれた腕章をつけている、記者とカメラマンのペアがいる。

「報道記者さん。かっこいいなあ」

梨乃の父親は、地元・福岡のテレビ局で長く報道記者をしている。

その影響で梨乃は小さいときから、ニュースを見たり、報道関連の特集記事を読んだりしていた。

年を重ねるにつれて、政治や社会問題にますます意識が向くようになったのを感じる。

― もし私が、記者になったら。

父親が忙しく働くのを見て育ったから、梨乃は、記者なんて自分にはとても無理だと思っていた。

でも今、初めての妄想に、沈んでいた気持ちが少し晴れる。

梨乃は、子どものようなまっすぐな憧れの目で彼らを見ていた。

「いいかもなあ。記者」

隆史も、先輩も、憧れの場所に向かって歩いている。

― なら、私にもできる…?

梨乃の中に、ぼんやりながら、新たな選択肢が頭をもたげた。




8月。平日の8時。

梨乃は、伸びた背筋で、自宅マンションを出ていく。

報道記者に憧れを抱いた梨乃は、翌日から勉強を始めた。

時事問題と一般常識のテキストを数冊買って繰り返したり、朝刊を3社分とって毎朝読んだり。

そして6月前半、恐る恐る大手インターネットメディアの記者職を受けてみた結果「まずは業務委託で」というかたちで採用してもらえたのだ。

勇気を出して転職し、3週間が経った。

「それでね、初めて記事を書かせてもらえたの。もうすぐ公開されるから、送るね」

「おお。ついにか」

イヤホンから聞こえるのは、隆史の声だ。

記者の仕事は、印刷会社の仕事とはまるで違う。

― 慣れるまでに相当時間がかかりそうだし、これから何度も壁にぶつかる気がする。

それでも、「自分の人生の舵を取っている」という実感が、梨乃には新鮮で、大きな自信になっているのだった。

「梨乃が楽しそうで嬉しいよ」

「うん。正社員じゃなくなったから将来がちょっと不安だけど。早く登用されるように頑張るんだ。それとね、印刷業界の経験を活かして、副業も考えているところなの」

「…最近の梨乃、キラキラしてて素敵だな」

隆史からの優しい言葉は、約3,000km電話の距離を飛び越え、梨乃の心に直接響く。

「梨乃に会いたくなった。夏休みとって、一旦帰国しようかな」

「本当?うれしい」

「よっしゃ。久々の寿司デートに行こう」

隆史の声が、いつになく弾んでいる。

― 関係がいい方向へ変わりだした気がする。

梨乃は颯爽とした足取りで、駅へと続く道を急ぐ。

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