東京の女性は、忙しい。

仕事、恋愛、家庭、子育て、友人関係…。

2023年を走り抜けたばかりなのに、また走り出す。

そんな「お疲れさま」な彼女たちにも、春が来る。

温かくポジティブな春の風に背中を押されて、彼女たちはようやく頬をゆるめるのだ――。




美羽子(29) 閉じ込めたはずの思いが


― もう2月か。

千代田線の車内ビジョンに流れる天気予報を見て、美羽子はため息をつく。

気づけば、冬ももう終盤。

ついこの間新年を迎えたばかりなのに、時間は慌ただしく過ぎていく。

16時30分。

美羽子は、表参道駅で電車を降りると、打ち合わせを予定している得意先企業のオフィスへと向かった。

美羽子は新卒からずっと、大手旅行会社に勤めている。今は法人担当として、さまざまな企業とやり取りをしていた。

― まだちょっと時間があるし、大学の近く通って行こうかな。

遠回りだけれど、母校である青山学院大学の前を散策しようと決めた。

渋谷方向に歩いて約5分。

門の前で、歩みをゆるめる。

「なつかしい…」

出入りする華やかな学生たちの、白やベージュのコート。明るく染めた髪、ミニスカート。

美羽子は、卒業からもう7年も経ったのか、と信じられない思いになる。

― 私は、あれから何も進んでないなあ…。

社会人になって、一体何を得たのだろうかと思う。

大切な恋人もいなければ、仕事も淡々とこなすだけ。特に夢中になれるものはない。

― お金だけは貯まってきたけど、使うような趣味も物欲もないし…。

「え?美羽子?」

肩を落としていた美羽子は、ビクッと全身を硬直させながら振り返る。

「あ…」

見知った顔が立っていた。

まさにこの大学で、陸上サークルの同期としてたくさんの時間を過ごした、村雨研吾だ。


「け、研吾!」

短距離走の選手として名高かった研吾。当時は細身の体型だったのに、気持ちがっしりしている。

そのせいか、あの頃よりずっと頼もしい雰囲気をまとっていた。

「美羽子、久しぶり。何してるの?大学に来たの?」

「いや…このあと渋谷の方で打ち合わせで」

「俺も。今から表参道で打ち合わせで、せっかくだから近くに寄ろうと思ったんだ」

研吾は「おんなじ状況だな、すごいね俺ら」と笑う。

その顔に、美羽子の胸はギュッと動いた。

― ええ、こんな再会ある?

緊張で、顔が熱くなる。

美羽子は学生時代、誰にも言えずにずっと、研吾に恋をしていた。

いわゆるイケメンではない。けれど、自分にも周囲にも誠実で、いつも優しく声をかけてくれる。そんな人柄に惹かれていたのだ。告白しなかったのは、自分に自信がなかったからだ。

振られたら、きっと関係が壊れる。

同じサークルで仲良くやっている今が一番幸せだと思い、美羽子は気持ちを飲み込んだ。

「美羽子、打ち合わせのあとは何してるの?もし予定なければ飲みいこうよ」

「せっかくだしさ」と笑う研吾の誘いを、断る理由などなかった。




打ち合わせが終わったあと『セラヴィ トウキョウ』で、乾杯をする。

ワイングラスを傾けながら、美羽子は研吾のことをそれとなく見た。

つややかなスーツ、SEIKOの大きな時計。

― すごい。なんか、人生うまくいってる人って感じ。

かつて同じ世界にいたはずの研吾は、遠いところに行ってしまったようだ。

「…研吾、今は何してるの?」

研吾は、大手証券会社の名前を口にした。

「去年の秋に転職したばかりなんだ。それまでは、新卒で入った自動車メーカーにずっといた」

研吾は大学時代の就職活動で、その証券会社に落ちたそうだ。ずっと未練があり、いつか絶対に入ると決めていて、今回ようやく叶ったのだという。

「美羽子は?」

キラキラした目で聞かれて、ギクリとした。

「…旅行代理店」

「今も変わってないんだね」

研吾の言葉に他意がないことはわかっているが、美羽子は少し居心地が悪くなった。

新卒からの同期は4割が転職していた。

きっかけは、主にコロナ禍。美羽子も、正直転職を考えた。

― でも、私はいいかな。

転職活動を頑張った先に、今よりいい世界はあるとも限らない。今だって別に居心地は悪くない。

…こんなふうに「やらない理由」を探すのが、習慣づいてしまっていた。

みんなが普通にやってのけることをできない自分に、美羽子の中でモヤモヤする気持ちもあるのだが…。

そのとき、研吾が2台重ねてテーブルに置いていたスマホのうちの1台が鳴り響く。

「あ。上司だ」

小声で「お疲れさまです」と言って颯爽と去っていく背中は、知らない人のように遠い。




美羽子は、窓から見える、渋谷の街に目を移す。

賑やかなネオンと裏腹に、気持ちは沈んでいた。

大学時代の友人たちの結婚報告、妊娠、出産。

会社の同期の出世。

― なんとなく引け目を感じるのよね。

特に羨ましくはないはずだった。

別に、結婚したい相手がいるわけでもないし、今の仕事で出世したいわけでもない。

「身の丈に合った毎日で、十分」

そう思うのに、やはりどこかで心がギュッとうずく。



「ごめんごめん」

スマホを片手に戻ってきた研吾は、美羽子のために2杯目のグラスワインを注文してくれた。

美羽子と同じように、渋谷の街に目を移す。

「こう見ると、渋谷、変わったよな。新しいビルがどんどん建って、広告ビジョンも増えて。俺らがこの街にいた頃より、ずっと明るいなあ」

しばらく無言で景色を見ていると、研吾は「覚えてる?」と言った。


「美羽子と昔、渋谷で飲んだことがあったんだよ。

帰り道、スクランブル交差点のあたりでネオンを見上げて、美羽子は『いつかあそこに自分の書いたコピーを載せたい』って言ったんだ」

― もちろん、覚えてる。

忘れられない。

― 大学時代、毎日のように思ってたもん。

思い出さないようにしていた夢が、蘇る。

美羽子は、ずっとコピーライターに憧れていた。高校時代から毎月何冊も関連書籍を読み、お金がないなか、数回コピーライティングのスクールにも行った。




「恥ずかしい。思い出したくない」

「なんで?美羽子のああいう、夢を口にするところ好きだったけど」

「夢を口にして美しいのは、学生の特権よ」

夢も、努力も、むなしく散った。意気揚々と受けた広告系の企業は、全滅だった。

旅行会社に入るとき、憧れに固く蓋をした。

「もう今は、コピーライターには興味ないんだ?」

「…うーん。もういいかな。正直、始めるなら20代半ばまでだったと思うし」

研吾は「そうかな?」と優しい声で言う。

「今の美羽子の方が夢に近いところにいるんじゃない?」

「なんで?」

「詳しくはないけれど、人生経験を積んできた人のほうがいいもの書けるんじゃないの?」

「…でも、今さらよ。あと1年で30になる」

「まだ30、な」

研吾は茶化すように笑ってくれたが、美羽子はやはり居心地が悪い。

「箱根駅伝、見た?」と無理やり話題を切り替えた。




レストランを出て、スクランブル交差点にやってきた。

見上げた夜空に、ドーンと大きな化粧品会社の広告。美羽子は、かっこいいなと見とれてしまう。

そのとき、研吾がゆったりした口調で言った。

「今さら、は禁句にしようよ」

「え?」

「だって、一度でも『今さら』って言ってしまったらさ、この先の人生が縮んでいく感じがしない?」

真面目な顔で「俺はね、そう思う」と付け加える。

「いや、もちろん美羽子の事情やタイミングもあると思うけれどね」

研吾は昔からこうやって、優しく背中を押してくれる。

― 研吾の人柄、やっぱり好きだ。

久しぶりに心の中に、沸点を感じる。

コピーライティングと、研吾への恋。

諦めていたつもりだった夢が2つ、にわかに動き出した。

「ありがとう。頑張ってみる」

「おう。無理せずな」

大学時代から大好きだった、その笑顔。

「ねえ、研吾」

「ん?」

「…また会える?いや、彼女さんとかいたら、申し訳ないからやめるけど」

「もちろん、また会おうよ。…彼女は、いないし」

研吾は、照れた表情をした。

「寒いけど、気をつけて帰ってな。すぐ連絡するわ」

「うん。私も」

あと少しで、春が来る。

美羽子は明るい予感に満ちた心で、研吾に小さく手を振った。

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