愛おしい人といるときは、何気ない時間が特別なものに変わる。

そして、2人の時間をよりスペシャルなものにしてくれるのが、ワインだ。

ワインには、香りと舌の記憶とともに一瞬を永遠に留めてくれる不思議な力がある。

今宵も、ボトルの前に男と女がいる。

長い年月を経て、このテーブルに辿り着いたこのワインのように、とっておきの物語が紡がれる。

▶前回:妻が見知らぬ男と2人きりで…。偶然目撃した夫が取った、予想外の行動とは?




Vol.7『年下の彼氏』マリエ(39歳)


水曜日の15時。

マリエは、5歳の息子の颯が通っている青山のスイミングスクールで、2階の観覧席から水泳のレッスンを見学していた。

周囲のママたちが、おしゃべりしながら我が子の様子を見守っているなか、マリエは、iPhoneで仕事をしている。

『マリエさん、明日のインスタライブは、予定どおりで大丈夫ですか?』

アシスタントの佳奈からのLINEに、マリエは『OK』とスタンプで答えた。

マリエは、スキンケア商品の開発や輸入販売する会社を経営している。

会社の経営は安定しており、現在39歳だが、この調子だと40代もいいスタートを切れそうだ。

マリエは、スマホの画面をスクロールしながら、ひとしきりLINEやメールをチェックすると、iPhoneをバッグに押し込んだ。

その時、ママ友が声をかけてきた。

「マリエさん、こんにちは。ここにいたのね」

マリエの頬が緩み、周囲と同じ保護者の顔になる。

「今日も颯は、バタ足10メートル連続でできなくて、足ついちゃったわ。葵くんは、上達早いね」

「冬休みにホテルのプールでパパと練習したからかな。

ところで、この間マリエさんからいただいたシートマスク、めちゃくちゃ良かったわ!」

先日マリエがプレゼントした新商品をベタ褒めする彼女の隣で、マリエは小さくため息をついた。

― はぁ…。パパとプールねぇ。やっぱりパパは必要なのかな。

マリエは、2年前に離婚をした。


マリエは、もともとは化粧品メーカーに勤め、広報を担当していた。

元夫は、妻が仕事をすることに理解がなく、家事、育児は当然のようにマリエの役割。子どものお風呂や保育園の送迎ですら、夫は進んで手伝うことはなかった。

夫に協力をあおげないため、急な出張や休日出勤を断らざるを得ない。結局、産休が明け1年働いたところで、退職したのだった。

専業主婦になったマリエは、気晴らしをSNSに求めるようになった。独身の頃から続けていたインスタに、美容情報をアップするようになるとたちまちフォロワーが増えた。

YouTubeも連動して始めると、化粧品の開発協力の依頼が次々と舞い込んだ。

こうしていわゆる美容家として少しずつ知名度を上げていった。

こんな夫だったら、いてもいなくても変わらない。むしろいない方が自分の負担は格段に減る。そう思うようになるまで、さほど時間はかからなかった。

そして、2年前。マリエから離婚を切り出したのだ。



水泳のレッスンが終わり、周りの母親たちが、いそいそと立ち上がり子どもを迎えにいく。

マリエもいつものように息子をロッカールームの入り口で待つ。すると、濡れた髪にタオルキャップを被った颯が出てきた。

「ママ、見てた?」

「見てたよ。バタ足10メートル、頑張ったのに惜しかったね」

颯に上着を着せながら、奮闘を褒めた。

― パパがいれば…。週末に練習しようとか言うんだろうな。

一瞬そんな思いが頭をかすめたとき。

バッグの中で“リン”とLINEを知らせる音がした。

『19時ごろ家に行くよ』

LINEの相手は、付き合っている彼・誠也から。短いメッセージに、思わずマリエから笑みがこぼれた。

「颯、今日お兄ちゃんが家に遊びにくるって」

マリエが伝えると颯は嬉々として飛び上がった。

「やったー!一緒に晩ゴハン食べれる?」

「うん、食べれるよ」




19時。誠也が花束と子どもへのトミカを手土産に、マリエの自宅にやってきた。

「クリスマスローズ。大好きなお花よ」

「良かった」

誠也が買ってきたのは、オフホワイトのクリスマスローズ。

木々や花が枯れる冬。味気ない庭に、ひっそりと咲くこの花が、マリエは子どもの頃から大好きだった。

「マリエさんに似てるよね、この花」

「そうかな?どこが?」

誠也は、薄葉紙をほどき、少し前に自ら調達してきた「イッタラ」のフラワーベースに手際よく生け始めた。




「さりげないのに凛としているところ。初めて会った時そう思ったんだ」

誠也と知り合ったのは、半年前。

メンズスキンケアを発売するにあたり、社内関係者の知り合いに声をかけ、モニターを募集したときにやってきたのが、彼だった。

10歳下の誠也は、アパレルメーカーに勤めている。

マリエから見た、彼の第一印象は「若くてイケメン」。

引き締まった体格と、端正な顔立ちからは、マリエの好きな韓国人の俳優を彷彿とさせた。

しかし、それ以上の感情はなかった。

「マリエさんを、ひと目見た時からタイプだなーって。年齢とか子どもがいるとか全然知らなくて、必死で食事に誘ったけど、軽くあしらわれたよね」

誠也は、少し前の記憶を楽しそうに振り返る。

「年が離れすぎてるし、子育てに忙しいし、この人何考えてるんだろ?って思ったわ」

当時の誠也の誘いをマリエはやんわりと断った。だが、それでも食い下がる誠也に、「じゃあ、モニターのお礼も兼ねて」と食事に行ったのが始まりだ。

「年上の女性を食事に誘うのは初めてだったけど、同年代の女の子にはない気遣いとか考え方にもっと話したいって思ったんだよね」

「私は、子どもが小さいし、恋愛なんてもっと先の話だと思ってたよ」

2人で会うことにマリエは消極的だった。

「でも、次はお子さんも連れてくればいいじゃないですか、って言われて、途端にハードルが下がっちゃった。連れていっていいんだーって」

そんな誠也にマリエは次第に心を開いていった。息子もあっという間に誠也に打ち解け懐いた。

「でも、マリエさんは僕にまだまだ遠慮してる。そうでしょ?」

花を生け終えると、誠也は残念そうに言った。


マリエと誠也は、年齢差だけでなく、収入にも差がある。

だから、何か支払いがある場合は、ついマリエが払ってしまう。特別な理由があるわけではなく、「年上だし、子持ちだし、当然でしょ?」という軽い気持ちだ。

それを誠也は「遠慮」と考えているらしいのだ。

「じゃあ、僕はマリエさんのために何をすればいいの?」

いつだったか、誠也に聞かれたとき、マリエは答えた。

「遠慮なんてしてないよ。でも気になるなら、お部屋に素敵なお花と美味しいワインを欠かさないようにして」

その場を逃れるためになんとなく言った言葉。

しかし、誠也は間に受け、以来素敵な花を持ち来るようになった。セラーが空いている時はワインも。

食事を終え、子どもを寝かせた後。

「セラーにモンラッシェ買ってあるの。誠也、開けて」

誠也がグラスによく冷えた白ワインを入れ、テーブルに置いた。そして、浮かない顔でつぶやいた。

「ブルゴーニュ白のトップ生産者、エティエンヌ・ソゼのピュルニー・モンラッシェ。

確かに美味しいけど、初めて飲んだ時の感動は、もう越えられないんだろうな…」

マリエは誠也の様子を気に留めず、グラスに顔を近づけるとワインを構成する香りの一つひとつを確かめていった。




「マリエさんに付き合ってだいぶ飲んだので、同世代からするとちょっとしたワイン通に見られるよ」

「そのうち、仕事で役立つといいわね」

マリエは、ワインを一口含み、グラスを置いた。



数日後の日曜日。

昼間は3人で代々木公園をサイクリングしたり、原宿でクレープを食べたりした。

夕方になると、遊び疲れた颯はソファで眠ってしまった。

マリエと誠也は、のんびり夕食の準備をしている。




「飲みながら作らない?モンラッシェあるよ」

この間の飲み残しを真空状態にしてセラーに戻してある、と誠也が言う。誠也は、美しい黄金色のワインをマリエに手渡した。

「うーん、この間より美味しくなったかも?完熟した洋梨の香り。だけどどこか芳ばしくて、濃厚で…。私やっぱり、モンラッシェが好き」

マリエがそこまで言うと、誠也がマリエに手を伸ばし、グラスを取り上げた。

「どうしたの?」

不思議そうに誠也の顔を見上げるマリエ。

「ごめん、実はこれ、この間飲んだモンラッシェじゃないんだ」

「えっ?じゃあ何?」

驚くマリエに、誠也は申し訳なさそうに打ち明けた。

「グラスに入っているのは、僕が買ってきた『ドメーヌ・デ・ドゥー・ロッシュ・サン・ヴェラン・レ・シャトネ』。モンラッシェのそっくりさんと評判のワインなんだよね」

庶民のためのモンラッシェと高く評価されるワインで、ピュリニー・モンラッシェ村と同じ土壌をもっている、ラ・ロッシュのふもとに広がる畑のぶどうから作られたワインなのだと誠也は説明した。

数日前、一緒に飲んだモンラッシェは、1本5万円ほど。ワインの深い知識がない自分が気軽に飲んでいいはずがないと、誠也は思ったという。

「僕の年齢で、モンラッシェクラスのワインが日常になったらマズいよなって思った。で、気兼ねなく飲めるそっくりさんを探したんだ」

「ぜんぜん気づかなかった。ていうか、モンラッシェって信じて疑わなかった。でもなぜこんなことを?」

マリエが感心していると、誠也はセラーからボトルを取り出し、マリエに見せた。

「だってさ、マリエさんがモンラッシェをセラーに貯蔵するようになるまで、めちゃくちゃ努力をしたと思うんだよね。

これなら1本4,000円ちょっと。気軽に買えて、その上マリエさんに楽しんでもらえる」

誠也の口から出た想定外の言葉に、マリエは胸が締め付けられるようだった。

「マリエさんは美容業界じゃ有名人だし、綺麗だし。

でも実際は、子どもを一生懸命育てていて、ひっそりと咲くクリスマスローズのような人じゃん?」

「誠也…。私こそ、ごめん。そんな風に思ってくれてたなんて…」

マリエは、思わず誠也の肩に頬を寄せた。すると誠也が耳元で言った。

「だいたい、もうすぐ40歳なのに、こーんなに素敵なんだもん。涙ぐましい努力があってこそだよね。

でも、そういうところも引っくるめて大好きです」

悪戯めいた誠也の表情に、マリエは思わず吹き出した。

「まったく、もうっ!ほら、ワイン飲むよ!」

マリエは、笑いながらグラスを手に取った。

「かんぱ〜い」

少し前までのわだかまりはどこかへ消え、いつもに増してワインの香りが心地よく鼻腔を抜けていく。

【今宵のワインはこちら】
『ドメーヌ・デ・ドゥー・ロッシュ・サン・ヴェラン・レ・シャトネ』。

庶民のためのモンラッシェと高く評価されるワインで、ピュリニー・モンラッシェ村と同じ土壌をもっている、ラ・ロッシュのふもとに広がる畑のぶどうから作られたワイン。

▶前回:妻が見知らぬ男と2人きりで…。偶然目撃した夫が取った、予想外の行動とは?

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