サントス旧市街地に残る石畳を走る元長崎電気軌道206号(写真:筆者撮影)

世界最大のコーヒー積出港のあるブラジル・サンパウロ州の港町サントス。港沿いの旧市街地はコーヒー景気がもたらした19世紀末からの繁栄の時代を今に伝えている。

そんな街並みを十二分に楽しませてくれるのが、サントス名物の「観光路面電車」だ。運行開始より今年で25年。2022年12月は同期比過去最高の月間乗客者数1万1244人を数えた。

石畳の街を走る「正覚寺下」行き電車

そんなサントスの観光路面電車の中に、日本人が見かけると思わず二度見してしまうだろう1台がある。というのは、その車両の行き先表示板に漢字で「正覚寺下」とあるからだ。

実はこれ、長崎県長崎市の路面電車として、2014年まで使われていたもの。

自動車や電車が海外で「第二の人生」を送ることはよくある話だが、路面電車のケースは珍しい。またブラジルといえば地球の反対側。その1台の数奇な人生を、世界100カ国以上の現地在住日本人ライターの集まり「海外書き人クラブ」の会員が追った。

「動く博物館」に加わった長崎の車両

サントスではかつて路面電車が普通路線として運行していた時代があり、その歴史は1909年からと古い。長らく市民の足として活躍していたが、モータリゼーションの到来により、1971年に全線廃止。もはや線路と路面電車の大方は過去のものとなっている。

しかし、中心街にわずかに残された線路を観光資源として活かそうと、市の観光局が2000年に観光路面電車として再開したのだった。


かつて長距離列車のターミナルとして使われていたバロンゴ駅から出発する206号(写真:筆者撮影)

当然ながら、当時の車両はすぐに使える状態ではなかった。

では、どうするか? 新型車両を導入するか? ここで一計を案じたのが観光局の人たち。「最新型の車両なら世界中どこにでもある。どうせだったら世界中から古い路面電車を集めたほうが、観光客にも喜んでもらえるんじゃないか?」。そう、「逆転の発想」だ。

こうして「動く博物館」をうたい文句に、今ではタイプの異なる13台の路面電車を収蔵し、そのうちいくつかを運行している。

海を渡ってポルトガルやイタリアからやってきたものもある。

車両番号40の路面電車は、動力部とシャーシがスコットランド製で、車体がブラジル製。1950年代に製造され、1970年代までこのサントスで運行されていた。サントスの「古きよき時代」を知るこの車両の内装は、当時の広告のレプリカで飾られている。

イタリア・トリノ市から2009年に寄贈された車両番号2840は、かつて観光用食堂車として運行していたもので、キッチンと客席に小型のテーブルを備えているのが特徴。現在は、老朽化のために倉庫で全面修繕中だ。

ポルトガル・ポルト市から寄贈された1920年代製の木製の車両は、2022年に他界したサッカーの王様ペレをオマージュする車両として改装され、2023年10月末に車両番号をペレの通算ゴール数1283に変えて、再出発したばかりだ。


撮影時完成間際だった「ペレ号」。ペレはこの街のサントスFCで活躍した(写真:筆者撮影)

当然ながらいずれの車両も年代物なので、修繕やメンテナンスは欠かせない。そんな老朽化の著しい車両が多いなか、最も新しく2019年に登場した期待の新人。それが車両番号206の長崎電気軌道の1台である。

路面電車の走る港町としての絆

日本車輌製造による202形206号は、1950年2月にデビューして以来、2014年8月の除籍まで長崎市民の足として長年活躍した車両の1つだった。長崎での稼働年数はなんと64年である。

長崎電気軌道は戦後、「長崎の復興は電車から」の標語とともに街の復旧作業に貢献。原爆が投下された日から5年弱で走り始めたこの206号もまた、復興へと街を導く役割を果たしたのだった。


206号の操縦席。前方には送電線が通る前にラバが引いていた側壁のないタイプの車両(写真:筆者撮影)

とはいえ、なぜ長崎から地球の反対側のブラジル・サントスへ? 実は、長崎とサントスはともに港湾都市であることから、1972年7月に姉妹都市を提携している。

両市のもう1つの共通点でもある路面電車の寄贈が、当時の長崎市長からサントス市長に約束されたのは、姉妹都市40周年を迎えた2012年。車両206号は3年後の2015年に博多を出港し、翌2016年1月にサントスに到着した。

その後、長崎電気軌道時代のオリジナルに忠実に塗装し直され、線路幅の異なるサントスで走るための改造が施された車両は、2019年にサントスで行われた「第1回移民フェスティバル」の目玉として、市民に披露されたのだった。


2019年サントスにて、ブラジル長崎県人会による「龍踊り」とともに列車を発表(写真:Raimundo Rosa)

ブラジルのエンジニアが寄せる気持ち

「日本の路面電車は、これまで寄贈されたなかで最高の車両です。経年劣化はありましたが、とてもよい状態で到着しました」と語るのは、サントス交通エンジニアリング社(以後、CETサントス)車両整備部長マルコス・ロジェリオ・ナシメント氏(55)。この会社は、路面電車の運行、管理を行うほか、サントス市内の交通取り締まりを担う第三セクターだ。

キャリア33年でトロリーバス、ディーゼルバスの整備を経て、観光路面電車の開通前年から「動く博物館」すべての車両の整備主任を務めてきた。


「電車好きならみんな友達!」と市電への思いを語るナシメント部長(写真:筆者撮影)

路面電車を含む鉄道の国際的な標準軌(レール間の隔の基準)が1435mmなのに対して、サントスの軌間(レール間の幅)は世界で唯一1350mm。そのため元長崎電気軌道の車両も軌間が変更された。

「軌間変更そのものは難しくないのですが、モーターとかみ合わせる歯車の位置とブレーキのシステムも変更する必要があました。それができない車両はサントスを走れません」

また206号は長崎ではパンタグラフで電気を取り入れていたが、当地では他の車両と同様のトロリーポールに取り替えられた。


パンタグラフからトロリーポールに変更された送電装置(写真:筆者撮影)

専門家として車両の技術面に感じた興味は少なくなかったが、何よりも歴史的な背景に感銘を受けたそう。

「原爆投下は悲しい歴史でした。戦後に長崎を走った車両が、ここにあることに特別な意味があります」と、ナシメント氏は長崎の車両に気持ちを寄せた。

昭和の雰囲気がたっぷりの車内

CETサントスの車庫で停車中の車両に立ち入ると、ブラジルにありながらも車内はまるで長崎の日常をとどめたタイムカプセルのようだった。

ブラジルの地下鉄と比べて低い位置にぶら下がるつり革。停車ボタン下の「お降りの方はこのボタンを押してください」の日本語表記。「大人120円、小児60円」と書かれた長崎電気軌道の電車路線案内図。日本を離れて久しい筆者には、ノルタルジーがこみ上げてきた。


原爆投下によって長崎電気軌道が受けた被害を紹介(写真:筆者撮影)

唯一異なるのは車両中央に連なる車内広告がないことで、その代わりに長崎の観光地や原爆投下により路面電車の多くが破壊された歴史などを紹介したボードが掲示されている。

車内の隅々を撮影している最中に乗り込んできた路面電車の運転士が「日本からのものはそれだけじゃないですよ。ほら!」と、車両後方の片隅の業務用ホウキを取って見せてくれた。確かにブラジルにはなさそうな長さのホウキの柄には「206」とマジックペンで手書きされている。

ジョズエ・モンテイロ・ドゥアルテ氏(57)は観光路面電車開通以来、日々車両を運転してきたベテラン運転士の1人。

「サントスにはいろんな車両がありますが、操縦の仕方はほとんど同じです。でも、この車両は運転席まわりのすべてが日本語だけで書かれていますから、最初は戸惑いましたよ」と笑顔で、年季の入った操縦レバーをさすりながら語ってくれた。


車内の隅々を案内してくれたドゥアルテ運転士(写真:筆者撮影)

サントスゆかりのコーヒーとともに

さてこの206号には他の車両たちとはちょっと異なる仕事がある。それは、毎週金曜日と土曜日に「コーヒー路面電車(Bonde Café)」として、4便運行するというもの。これは旧市街地に立つコーヒー博物館とのコラボ企画で、車両走行中にバリスタがコーヒーを淹れ、乗客にサービスする。

このような企画が可能なのは、「動く博物館」のうち206号が唯一ロングシートの車両であり、バリスタがゆっくり走行する車内を歩き回ることができるためだ。

かつて長距離列車のターミナルとして使われていたバロンゴ駅の前から出発する「コーヒー路面電車」は、音声ガイドでサントスとコーヒーの歴史、206号の由来、街の名所案内などを放送しながら、コーヒー博物館、税関、郵便局など旧市街の要所を周回する2.8キロのルートを25分かけて巡る。

長崎での64年にもおよぶ現役生活を終えたあともなお、ブラジルで活躍する206号。いつまでも人々に求められ、愛される「第二の人生」は、ここサントスで輝いている。

(仁尾 帯刀(海外書き人クラブ) : ブラジル・サンパウロ市在住フォトグラファー)