人生に句読点を打つように自分の最後を選び取っていった女性。彼女の最後の日々とはーー(写真:塩内さん提供)

人はいつか老いて病んで死ぬ。その当たり前のことを私たちは家庭の日常から切り離し、親の老いによる病気や死を、病院に長い間任せきりにしてきた。結果、死はいつの間にか「冷たくて怖いもの」になり、親が死ぬと、どう受け止めればいいのかがわからず、喪失感に長く苦しむ人もいる。

一方で悲しいけれど老いた親に触れ、抱きしめ、思い出を共有して、「温かい死」を迎える家族もいる。それを支えるのが「看取り士」だ。

21歳甥っ子が祖母を看取っておぼえた安心感

塩内美春の長男、太一郎(21)が祖母の最期を振り返った。

「おばあちゃんが亡くなっちゃうと思うと、すごい怖いっていうのもあったんですが……、でも、何だろう? 少し安心感もありました。家族全員で見守りながら、僕の膝のうえで最期を迎えてくれたので、たぶん、おばあちゃんも安心していたんじゃないですかね」

浅黒く日焼けした太一郎は、ふっくらとした顔をやさしくゆるめて、悲しい場面について語った。祖母の千恵は81歳で、2023年1月4日の深夜のことだ。

肺と肝臓に末期ガンを患っていた千恵が、余命1カ月と診断されたのが2022年11月。千恵は一人暮らしの自宅にこのままいたい、と2人の娘に伝えて在宅介護が始まった。姉妹はそれぞれ近くに住んでいた。

腎臓透析を受けていた太一郎の祖父は一昨年、病院で亡くなった。コロナ禍の病院で面会謝絶の末に、たった一人での旅立ちだった。

「それが自分的にも悔しくて、おばあちゃんにはもっといい最期を迎えてほしくて。看取り士さんから(看取りの)作法を学んで、家族で看取れてよかったです」

彼の声音には表情通りのやさしい安堵感があった。


(写真:塩内さん提供)

千恵が寝起きしていた六畳間には、大病を患った50代をへて、60代から始めた登山で撮影した写真が数多く飾られていた。北アルプスの槍ヶ岳(やりがたけ、国内5位の標高3180m)山頂で、彼女が万歳をする1枚もあった。

その部屋は、千恵の長女で、助産院を営む赤塚庸子が、在宅出産で太一郎を取り上げた部屋でもあった。千恵が幼かった姉妹のワンピースなどを縫ったミシンが今もある。千恵が若い頃は自宅で子供を産むことや、親を看取ることは当たり前の時代だっただろう。

千恵の呼吸がハアハアハアと荒くなった。その左太ももに千恵の後頭部を置いて呼吸を合わせていた太一郎も、千恵の体を両側からさすっていた美春と庸子の姉妹の呼吸も自然と早まっていった。

正月の三が日には逝きたくないと話していた千恵は1月4日午前3時すぎ、望んだ通りに自宅で家族に見守られて旅立った。太一郎はその瞬間を振り返った。

「心の中に渦巻いていた気持ちがバーって出ちゃって、僕、大泣きしちゃったんです。この世にもういないんだっていう寂しさや悲しさ、本当にいろんな感情が入り混じって頭が真っ白で、疲れました。鼻血も出ちゃいましたし……」

「病院は人の死をゆっくりと悼む余裕がない」

庸子が日本看取り士会に母親の看取りを依頼したのは2022年12月上旬。千恵から「今日は(喫茶店に)行きたくない」と言われ、庸子はふいに死期が近いと直感した。実家近くのその店でモーニングを食べるのが、父親が健在だった頃から千恵にとって20年以上の習慣だった。主治医から余命1カ月とも言われていた。

以前から庸子は、日本看取り士会の柴田久美子会長の本を読み、講演会も聴いていた。さらに同会が主催する看取り学講座も一部受講した後での依頼だった。

「助産師という仕事柄、生まれるときは産む人と子どもの、死ぬときは旅立つ人とその家族の意思や尊厳がもっとも尊重されるべきだと思っています。看取り士という仕事もまさにそれだと思い、看取り学を学ぼうとしたんです」(庸子)

他方、身体的な痛みをやわらげる医学的な方法は、看護師で妹の美春とともに熟知していた。だから「自宅で逝きたい」という千恵の望みを、何よりも尊重してあげたいという気持ちが強かった。

看護師である美春も補足した。

「病院では亡くなる場合、ご家族にゆっくりと死を悼(いた)んでいただく余裕がないことが、とくにこのコロナ禍においては多くなりました」

患者が亡くなると周りに気づかれないように、看護師たちは遺体を30分ほどで手早くきれいに整えて霊安室にひとまず安置する。一方で遺族には葬儀社を早く手配するように求める。あるいは家族に事前確認をとり、葬儀社の人に遺体を病室からじかに葬儀場へ搬出させることもある。

病院関係者だけを悪者扱いしても仕方ない。物事の価値を「効率/非効率」ではかるようになった私たちから伸びる影の一つだ。

千恵が肺がん手術を拒んだ理由

千恵の主な病歴は50代から始まった。すい臓に腫瘍が見つかって受けた手術で合併症をおこし、再手術を余儀なくされた。良性腫瘍だったが、術後の約7年間は原因不明の下血に苦しんだ。

それでも家事や散歩で体力を徐々に取り戻し、60代になって始めたのが登山。低山から始め、国内有数の槍ヶ岳の登頂も成功させた。

その前年に同じ北アルプスの燕岳 (標高2763m)への登頂を果たした千恵は、素晴らしい雲海を眼下にしてふいに大号泣していたらしい。69歳のときだ。


(写真:塩内さん提供)

登山仲間によると、「1回死にかけたのに、こんな素晴らしい景色を見られる人生が、私にはまだあったんだ……」と、感極まっていたらしい。その隣に屹立する槍ヶ岳を見上げて、「私は来年絶対にあの山に登る!」と宣言したという。

翌年、その夢を見事にかなえてみせた。

しかし、70代後半の2018年には大腸、2019年は肝臓、2020年は肺と、相次いでがんが見つかる。それでも千恵は食事の量や内容、散歩の距離などを日々微調整しながら体力を保ち、好きな登山をこつこつと続けた。

大腸がんは切除。肝臓がんは放射線治療を行った。

だが、最後に見つかった肺がんの切除は拒んだ。それは50代から繰り返した手術への嫌悪感と、槍ヶ岳をはじめ、大好きな登山を自分なりにやり切った達成感があったのかもしれない、と姉妹は話す。

美春の話だと、終末期に体力が衰えると肛門周りの筋力も低下。トイレに行くまで我慢できずに介護用オムツを汚すことになる。だが、千恵は一切なかった。

「亡くなる2日前まで介助されながらトイレに行った母は、稀少なケースだと思います。60代から始めた登山に晩年まで情熱を燃やし、日々の散歩などで足腰の鍛錬に努めた賜物(たまもの)ではないでしょうか」(美春)

12月28日の午後、看取り士の小川が自宅を尋ねると、部屋のカーテンを閉めたまま、千恵は寝室で一人横になっていた。4回目の訪問だった。小川が玄関口で声を何度かけても返事がなかった。部屋に入ると、「大丈夫、大丈夫」としか答えない。

急変を察知した看護師でもある小川は、寝室で横たわる千恵の上半身を起こして、栄養飲料を急いで飲ませた。

千恵は「あー、おいしい」と漏らすと、おぼろげだった意識が少しはっきりしてきたようだった。小川は美春に電話をかけて状況を伝えた。翌29日昼過ぎに今度は美春から小川へ、千恵の状態が急変したと連絡が入った。在宅医に往診してもらうと脱水症状で点滴を処方され、採血の結果も思わしくなく厳しい状況だという。姉妹は28日の夜から千恵宅で寝起きしていた。

「僕に、何か言い残したことはないの?」 

太一郎が千恵にそう尋ねたのは30日昼。そのときの動画が彼のスマホに残っている。千恵は息も絶え絶えに、最愛の孫へ言葉をしぼり出すように語っていた。

「生きていると……、つらいことや、嫌なこともいろいろあるけど……、でもつらいことばっかりじゃない、いいこともたくさんあるから……」

赤の他人が見ても心を揺さぶられるひたむきさだった。

「……本当にしんどかったら休めばいい。困ったときにはお父ちゃんとお母ちゃんにも相談して……、そのうえで最後は自分の意見を通させてもらえ」

最後の一言が、さすが孫の一番の味方らしかった。

日記に一つずつ「最後」を書き込んでいく強さ

千恵の他界後、小川が美春から電話を受けたのは1月4日の午前3時半頃。すでに家族だけで小川から教わった看取りの作法をしながら、亡くなった千恵のそばで、昔話に花を咲かせた後だった。小川が千恵宅に到着したのは午前4時20分頃。

美春の話だと、年末の27日に千恵がふいに「こんなモシャモシャな髪では、正月を迎えられんわ」と、自ら行きつけの美容室に電話して自宅に来てもらい、髪を切ったという。その分、翌日の急変が信じられなかったと美春は、小川に話した。


(写真:塩内さん提供)

布団に横たわる千恵の表情が、小川には満足げに微笑んでいるように見えた。姉妹を含む家族も「お母さん、笑っているみたい」と話し、千恵の背中などの温かさに触れることで、そのエネルギーをしっかりと受け取っていた。

それから呼ばれた在宅医が確認した死亡時刻は午前5時12分。小川は訪問看護師の協力を得て、足湯を以前楽しんでもらった薬草入りのお湯で千恵の体を清拭後、本人の希望通りに大好きだった登山服に着替えさせた。 

日本看取り士会の柴田久美子会長は、2022年の死亡者数が約156万人となり、戦後初めて150万人を上回ったと指摘する。

「鹿児島県の総人口が約157万人、沖縄県が約146万人。あるいは神戸市が約151万人です(2022年10月1日時点)。それほどの人数の方が毎年全員亡くなられていくことを、想像してみていただきたいんです。病院にも老人施設にも入れず、自宅で看取るしかない社会は始まっています」

姉妹は看取り後に千恵の日誌をめくり、残りの人生のカウントダウンとも思える記述を残していたことを知る。

千恵の最後の登山は、近くの低山に出かけた2022年7月下旬。10月末には、姉妹が千恵を誘って槍ヶ岳が見えると有名な旅館に出かけた。普段は霞がかっている山頂がその日はくっきりと見られて、千恵は「完璧な旅行」と絶賛したという。

その旅行から戻った後、千恵は「7月28日、最後の登山」と、なぜか11月の日誌に新たに書き加えていた。庸子はこう推測する。

「母は10月に3人で旅行するまで、最後の登山をまだ諦めていなかったんだろうと思うんです。でも、槍ヶ岳が本当にきれいに見えたから、『もう、じゅうぶんだ』という気持ちで、自らピリオドを打ったんだろうなって」


(写真:塩内さん提供)

ほかにも似た箇所はある。庸子と最後に喫茶店に出かけた2022年12月10日だ。

「その10日後の20日に、『10日が最後のフォレスト(喫茶店名)だった』と書かれていました。その後の体力の低下を実感して、これも母が書き加えたんだろうと思います」(庸子)

迫る死から目をそらさず、むしろ迎え入れるかのように「最後の〇〇」と一つずつ書き込んでいく。残る人生に句読点を打つ、千恵の強さが立ち上ってくる。

前向きな日々の先に、母の生き方と死に方があった

「もう(あの世へ)参らせてもらいたい」

千恵が庸子たちにそう口にしたのは2023年の元日で、彼女らしい言い方だった。

「『今日は8000歩歩く』と決めたら必ず実行する人でした。自分が最後まで健康でいたいのと、私たち家族に迷惑をかけたくないという思いも強かったんです。前向きで地道な日々の生活の先に、お母さんの生き方と死に方があったと思います」

庸子はそう話すと、「母とは正反対で大雑把な私は、あんな最期を迎えられるのだろうか?って思いますよね」と、ぽそっとつぶやいた。

美春は「お母さんはこんなに理想的な最期を迎えるために、これまでの生き方をしてきたような気がする」と、小川にそれぞれ語った。

「潔い死に方をするだろう」という姉妹の予想をはるかに超えた千恵の最期に、2人は圧倒されていた。


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(荒川 龍 : ルポライター)