春になると、日本を彩る桜の花。

大都会・東京も例外ではない。

だが寒い冬を乗り越えて咲き誇ると、桜はあっという間に散ってしまう。

そんな美しく儚い桜のもとで、様々な恋が実ったり、また散ったりもする。

あなたには、桜の季節になると思い出す出会いや別れがありますか?

これは桜の下で繰り広げられる、小さな恋の物語。

▶前回:なんとなく見ていた雑誌に、元カレの名前が。8年前に別れた彼の“想像以上”の現在とは




光村秋奈(28)「壮一は、私の仕事のことを…」


「秋奈。俺、ロンドンに転勤することになった」

「え?」

カウンターキッチンに立っていた秋奈は、クリームシチューをかき混ぜる手をとめ、口をぽかんと開けたまま顔を上げた。

帰ってきたばかりのスーツ姿の壮一が、眉をハの字にしている。

「…え、ロンドンって言った?いつから行かなきゃなの?」

「7月からだって」

「何年間?」

「わかんない。短くても3年くらいはいるんじゃないかな」

秋奈は、口元に手をやったまま静止した。

秋奈が、3歳上の大手電機メーカー勤務・壮一と結婚したのは、2022年10月のこと。

マッチングアプリで出会い、交際1年でゴールインした。

結婚前には、転勤の可能性があることは聞かされていない。

しかも結婚して、まだ半年。

ようやく暮らしが落ち着いてきたところでの辞令だ。

「急なことで、驚かせて悪いね。会社からも謝られたよ。新婚なのにすまないって」

壮一はそう言うと、急に誇らしげな顔つきになる。

「でもロンドン転勤ってのは、出世には大きなプラスになるんだ」

「それは…よかったけど」

「この部屋、快適だったんだけどなあ。解約手続きも進めなくちゃな」

壮一は部屋を見回しながら首元のネクタイをゆるめ、「着替えてくる」とリビングを去っていった。

秋奈は、ぼんやりした頭でシチューをお皿によそう。

― なんか、モヤモヤする。なんでだろう。

考えてみると、理由はすぐにわかる。


秋奈がモヤモヤしたのは、壮一が転勤に関する秋奈の意見をまったく聞かず、部屋の解約の話を始めたからだ。

― 私についてくる気持ちがあるかは、確認してくれないのね…。

秋奈には将来の夢がある。

それは、自分のエステサロンを持つことだ。

夢を叶える第一歩として、ちょうど結婚と同じタイミングで大手のエステサロンを退職。憧れていた高級エステサロンで勤務しはじめたばかりだった。

サロンを持つには、学ぶべきことがまだまだたくさんある。

だから正直に言えば、今の職場をたった半年で退職するのは、秋奈はどうしても嫌だった。

― 私の夢について、壮一には何度も話したのにな。ロンドンに行ったら、私のキャリアは中断になるのに…。

壮一はもしかして、エステサロンの仕事を遊び感覚で捉えているのだろうか。秋奈は疑う。

数分後。

上下紺色の部屋着姿でリビングに戻ってきた壮一は、冷蔵庫をあけてビールをとり、「ふう。つかれた」とダイニングチェアに座った。

秋奈はテーブルに料理を置き、壮一の向かいの席に腰掛ける。

「あのさ壮一。私ね、仕事を…」

秋奈が本音を切り出そうとすると、壮一はなぜか「大丈夫、大丈夫」と微笑んだ。

「ん?大丈夫って?」

「仕事なら、しなくていいよ。向こうでは専業主婦で大丈夫。秋奈、英語話せないでしょう」

壮一はそう言い、笑顔でクリームシチューにパンをひたす。




何もわかってくれていないことを察した秋奈は、きっぱりと想いを言葉にした。

「違うわ。私、今のエステサロン辞めたくないの」

「え?」

「知ってると思うけど、ずっと憧れていたエステティシャンのもとで働けて、本当に学びが多い毎日なの。

まだ、辞めるなんて考えられない」

壮一は食事の手を止めて、まじまじと秋奈の顔を見る。

「つまり、秋奈だけ日本に残りたいってこと?」

「…まだそこまでは言ってない。相談しようよってこと。

壮一は、なんで私の仕事の都合をまったく考えてくれないの?」

壮一はハッとしたように目をパチパチさせ、「ごめん」と謝った。

「でもさ…。ロンドンに行って、数年後に帰国したら、そのエステサロンに戻ればいいじゃんか」

「戻れる保証はないのよ」

「そんなに人気がある職場なの?」

― …やっぱり壮一は、私の仕事を内心低くみてる。

確かに、壮一ほどの稼ぎはない。それでも、お客様を喜ばせられる誇り高い仕事だと、秋奈は胸を張れる。

「俺は、秋奈にはついてきてもらいたいと思ってる。だって俺ら、夫婦なんだよ。

子どももいないのに単身赴任なんて、そんな例、ほかに聞いたことないし」

「『ほかに聞いたことない』はなんの理由にもならないよ。だって私たちの場合は、お互いにキャリアがある」

壮一は納得のいかない様子で「キャリアねえ」と言った。

その言い方が皮肉っぽく聞こえて、どうしても許せなかった。




1週間が経った月曜。

怒りと悲しさが混じった感情が、まだ秋奈を包んでいる。

おのずと壮一に冷たい態度をとってしまい、関係はどんどんこじれていた。

― このままじゃいけないのはわかるけど…。

今朝も険悪なまま、とりあえずいつものように一緒に出勤する。マンションを出て、目黒川沿いを少し離れて歩いた。

そのとき、壮一が言った。

「来年は、桜がない春になるのかなあ…」

秋奈は、うまく言葉を返せず、無視するかたちになってしまう。

満開の桜は、秋奈の気分とちぐはぐだ。

すると壮一は「ねえ」と言い、秋奈をじっと見つめた。

「今日18時半から外でディナーしない?早く帰れそうなんだ。ちょっと、大事な話がある」




その夜。

レストランでディナーを一通り堪能しても、壮一の「大事な話」は始まらなかった。

「壮一、大事な話ってなに?」

秋奈が聴くと、壮一はようやくかばんから茶封筒を取りだす。

資料には、びっしりと英語の文字が書かれていた。

― なんの資料?もう移住の話?

一瞬眉をつりあげた秋奈は、壮一がなんだかもじもじしているのを見て、変だと思った。

「この資料は…」




壮一は照れくさそうに、秋奈に資料を手渡す。

「赴任先の近隣にあるエステサロンの資料。何店舗か探してきた。ロンドンにいるうちの会社の先輩に、調べてもらったんだ」

「え?」

「えっとね。このサロンは日本人が経営していて、お客さんも日本人が中心らしい。語学面ではベストだね。

で、こっちは、技術にすごく定評があるみたい。秋奈にとって勉強になるかもしれない」

指差ししながら滔々と説明をする壮一に、秋奈の心は揺れていく。

「俺にはエステの専門的なことはわからないし、秋奈のキャリアにプラスになるのか確証はないけど…。

まずは一緒に直接お店に行って、雰囲気とか、スタッフの人柄とかを見たほうがいいかもね」

「壮一…ありがとう」

「もしどれも気に入らなかったら、秋奈はここに残って今のサロンで働くのがいいよ。

寂しいけど、俺の転勤を理由に秋奈のキャリアを止めるのは、たしかにもったいないもんな」

壮一は姿勢を正してから、ペコリと頭を下げた。

「1週間考えて、反省した。俺、秋奈に支えてもらうことばかり考えてた。

秋奈の人生より、自分の人生のほうが優先されるべきだってどこかで思ってたんだと思う。本当にごめん」

「う、ううん」

秋奈ははっとする。思い出したのだ。

交際中、なにかで揉めたときに、壮一はこうしてしっかり目を見て謝ってくれた。

そして一度謝ったことについては、二度目がないようにちゃんと変わってくれた。

― そうだ。壮一の、こういうところが好きだった。信じてみよう。

尖った心が、柔らかくなるのを感じた。




19時45分に、店を出る。

目黒川沿いは、いつもよりだいぶ人通りが多い。

ピンクの提灯にライトアップされた桜が、誇らしそうに小さく揺れる。

「そうだ、壮一。ロンドンにも、桜の名所はあるみたいよ。日本の桜とは、ちょっと種類が違うらしいけど」

「おお…。調べてくれてたんだ」

「うん。…ここ1週間冷たい態度とっちゃって、ごめん」

秋奈は悪くない、と壮一は真面目な顔で言う。

「ううん。私こそ反省した。自分の人生を大事にすることも、壮一の人生に寄り添うことも大事なの。

バランスが重要なのに、自分の気持ちばっかり主張して、ごめん」

秋奈は、笑顔で壮一の顔を覗き込んだ。

「資料、ホントにありがとう。壮一が私のことしっかり考えてくれてるのがわかって、うれしかった。

私、ロンドン行くよ」

「え?」

「来年の春は、ロンドンで一緒にお花見しよ」

「秋奈…いいの?」

「向こうのサロンで働くなんて、人生設計に入れてなかったけど。きっと、私の夢につながる経験になると思う」

壮一は、彼女の手をとって、優しく握った。

「ありがとう。俺、秋奈を支える。頑張ろうな、お互い」

「うん。私も、壮一を支える」

― ロンドンで働くなんて。まさかの展開だけど、ちょっとワクワクするかも。

秋奈は、にっこりしながら桜を見上げた。

よく見ると、桜の花にはもう、新緑の葉が混じっている。

時の流れは本当に速い。

一旦落ち着いたと思った日常が、すぐに消えてなくなる。

でも、こうして時の流れに振り回されるのもまた人生の醍醐味だろうと、秋奈は思った。

美しい景色を焼きつけるように、いつになくゆっくりと、目黒川沿いを歩く。

Fin.

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▶1話目はこちら:「あなたのために、海外赴任は断る」29歳女の決断に、彼が見せた反応は…