空港は、“出発”と“帰着”の場。

いつの時代も、人の数だけ物語があふれている。

それも、日常からは切り離された“特別”な物語が。

成田空港で働くグラホ・羽根田(はねだ)美香は、知らず知らずのうちに、誰かの物語の登場人物になっていく―。

▶前回:大切な人に会おうと帰国した、NY在住の女。成田到着直後、1通のLINEで泣き崩れ…




Vol.9 日菜子の物語
よみがえる、4年半前の苦い思い出


成田空港駅で電車を降りた日菜子は、視線を感じて顔を向けた。

54リットルサイズの大きなスーツケースを携えたカップルと思しき2人が、チラチラとこちらを見ている。

「ねえ、あの人CAさんかな?」
「だと思う」

耳打ちし合っている男女は、日菜子と目が合った途端、気まずそうにパッと視線を逸らした。

― あの2人は、これからどこに行くんだろう。

日菜子は、彼らに軽く頭を下げてから颯爽と立ち去る。

なぜなら―。

“空港で会うすべての人を、自分のフライトに搭乗するお客様だと思って接するように”

5年前、客室乗務員として採用されたばかりの日菜子がOJTを受けていたとき、担当教官からそう教えられたからだ。

― 私がCAってことは、やっぱり髪型でわかっちゃうのかな?

日菜子は、スプレーとワックスを使って仕上げた完璧な夜会巻きに、ソッと手を触れる。

「メイクと服装も…か」

目もとを華やかに見せるロングタイプのマスカラを使ったアイメイクに、コンサバ系のファッション。さらには、会社から支給された黒いスーツケースを慣れたふうに転がす姿は、どこからどう見てもCAそのものだ。

― せめて、もう少しカジュアルな感じにできたら、注目されなくていいんだけど。

だが、CAはイメージが大事な職業だ。会社から“通勤中のヘアメイクもしっかりと―”と厳しく言われている。だから日菜子は、家を出た瞬間から仕事モードに入るように意識していた。

― 本当…気が抜けない。

この日も、いつものように知らない誰かに気を使いながら、4階・出発フロアにあるスタバでコーヒーを受け取る。その足で、オフィスへと向かっているときだった。

「あ!彼女って、確か…」

チェックインカウンターの前で、懐かしい姿を見つけた。

日菜子は、4年半前のある出来事を思い出す。


今から4年半ほど前。

入社半年の日菜子は、先輩CAと2人で、機内に搭乗してくる乗客たちに座席の案内をしていた。

そのときだった。

― あれ?あの荷物って…。

搭乗口に向かってくるスーツ姿の男性客が、機内持ち込み手荷物としては少し大きく見えるスーツケースを転がしている。

「ご搭乗ありがとうございます」

日菜子は、すかさず言葉を続けた。

「お客様。大変恐れ入りますが、そちらのスーツケースは貨物室でお預かりしてもよろしいでしょうか?」
「え、なんで?チェックインのときは、なにも言われなかったんだけど」

男性は、40代半ばくらいだろうか。眉間にシワを寄せ、明らかに不満そうな表情をする。

― うわ…ちょっとまずいかも。

日菜子は焦った。そのうえ背後からは、日菜子の次の発言に耳をそばだてる先輩の圧も感じる。




「申し訳ございません。ですが、そちらのお荷物は機内への持ち込みができかねるサイズでして…」
「それならチェックインのときに言ってくれないと、ねえ?」

言葉の途中で遮られた日菜子は、ますます萎縮する。

「…はい、おっしゃるとおりです。ご迷惑をおかけし、申し訳ございません。では、改めてこちらでお預かりさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「いや。預けると、到着のときに時間がかかるから困るんだよね」

どうしよう―、日菜子が唇をグッと噛みしめたときだった。

「お疲れさまです。16Aのお客様にお渡しするものがあるので、失礼します」

無線機を片手にやってきたのは、気の強そうな美人。スラッとした長身で、一瞬CAの誰かかと思ったけれど、制服のデザインが微妙に違う。

― この人って、グラホ…だよね?助かったぁ。

地上での問題は、地上で解決してもらわないと―。そう思った日菜子は、急いで機内へ向かおうとしている彼女を引きとめた。




「あの、少しいいですか?こちらのお客さまの手荷物なんですが…」
「はい、どうしましたか?」

搭乗口の手前で、グラホと対峙する。男性客は、少し離れたところで、いら立った雰囲気を醸しだし続けている。

― 早く、この場をおさめないと。

日菜子は、強めの口調で言った。

「スーツケースがちょっと大きいのでは…と思うんですが。チェックインカウンターでは、問題ないとのことだったと。しっかり確認してもらわないと困ります」
「…そうですか」

― HANEDAさん…ね。うん、覚えた。

なにかあったら、彼女の名前を出せばいい。日菜子は、グラホの胸もとにつけられたネームプレートをまじまじと確認した。

ハネダさんは、スーツケースに目をやり、サイズを確かめている。

そして、次の瞬間。

「こちらのサイズなら、規定内かと思います。では、私は機内へ…」
「え!いや、大きいですよね?」

日菜子は、ハネダさんの言葉に耳を疑った。


「いえ、問題ないサイズです」

ハネダさんは、きっぱりと言い切った。それから腕時計に目をやると、背を向けて機内へと急ぐ。

「あの、困りますっ!」
「何がでしょうか?」

振り向きざまに日菜子に向けられた視線は、いたって冷静だ。

「そちらのミスは、そちらで解決してください」
「ミスもなにも、こちらの判断では問題ありませんので。あとは、機内の判断にお任せします。お預けになるのなら、バゲージクレームタグを用意します」

― なんなの、その言い方…!

日菜子は、彼女の対応の仕方にカッとなった。

「それなら、あなたから…」

2人の会話に割って入ったのは、日菜子のうしろで待機していた先輩CAだった。

「お客様、大変申し訳ございません。お荷物はそのまま機内へお持ちください」

先輩CAが、男性客に深々と頭を下げている。その横で、日菜子はただぼう然と立ち尽くしていた。

― ハネダさんっていったよね。ずいぶん落ち着いてたけど…私と同い年くらいじゃない?はぁ、嫌な気分。

モヤモヤとした気持ちのまま、フライトはオンタイムで出発。3時間後に経由地で降機し、そこから10時間ほどかけてシドニーに到着した。

乗客が降機し、フライトの振り返りをするデブリーフィングが終わったあと。

日菜子は、先輩から呼び出された。

「スーツケースは、規定内の大きさだったね」
「すみません。大きく見えたんです…」

謝る日菜子に、先輩CAは言う。

「間違えたことよりも、あなたの態度がよくなかったと思う。お客様にだけじゃなく、グラホの人にも。

私たちはチームでしょ?飛行機を安全に、定刻で出発させるためにみんなで協力し合ってることを忘れないで」

日菜子は、グラホに責任を押しつけて問題を解決しようとしていた自分に気がついたのだった。



あのときのグラホ・ハネダさんが、今チェックインカウンターのトップに座っている。

― もしかしたら、今日…。

日菜子は、なんとなく彼女と顔を合わせることになるような気がしていた。




14時発のフライトは、出発30分前に搭乗が始まった。

「じゃあ、私はL2あたりにいるから。なにかあったら、すぐに声をかけてね」

チーフパーサーの資格を取得した日菜子はドアクローズまで、入社半年になる新人CA・菜々美のフォローにまわることにした。

ほどなくして、ビジネスクラスの座席が徐々に埋まり始める。

ちょうど、そのころだった。

「お客様…」

菜々美が、1人の乗客に声をかけた。

男性客は、スーツケースと大きめの旅行鞄を携えている。

「大変恐れ入りますが、どちらかのお荷物を貨物室でお預かりさせていただけますでしょうか?」

機内持ち込み手荷物は、小さな身の回り品1個と手荷物1個までだから、彼女の判断は正しい。

ところが―。

「チェックインカウンターでは、なにも言われなかったけど。これくらいいいでしょ?」
「申し訳ございません。あいにく、本日は満席でございます。お荷物の数は、ほかのお客様にもご協力いただいておりますので、こちらで…」
「今さらそんなこと言われてもなぁ」

搭乗口で男性客が渋りはじめると、グラホがボーディングブリッジを走ってくるのが見えた。




「お客様。恐れ入りますが、どちらかのお荷物を貨物室でお預かりさせていただけませんか?」

“Trainee”のバッジをつけたグラホが、声をかける。そして日菜子の予想どおり、彼女の背後にはハネダさんがついていた。

「やっぱりだめか…。さっき免税店で買い物しすぎてしまって。わかりました。これ、預けます」
「ありがとうございます。すぐにバゲージクレームタグをご用意いたします」

ホッとした様子で振り向く菜々美に、日菜子はうなずきながら微笑みかける。

― グラホさん、お客様がゲートを通ったときに、荷物が多いことに気づいてくれたんだ。

かつての日菜子は、グラホとCAの仕事をきっぱりと線引きして考えていた。

地上のことは地上で、空の上のことは空の上で―と。搭乗前のトラブルは、グラホのミスの尻ぬぐいだと思っていた。

けれど、機内でのトラブルで、搭乗後にグラホに迷惑をかけてしまうことだってある。

当たり前のことだが、グラホとCAそれぞれの協力なくしては、安全で快適なフライトは成り立たないのだ。

日菜子は、菜々美に小さな声で伝えた。

「グラホさんに助けられたね。こうやって地上で気配りをしてくれているおかげで、無事にドアクローズができるんだよ。

私たちはチームで働いてるってことを、覚えておくといいよ」

それから、シップサイドにスタンバイするハネダさんに視線を向ける。

すべての乗客が搭乗し終え、ドアクローズをする直前。

「あのときは…」

日菜子が言いかけて、言葉に詰まると―。

「4年半ぶりですね。行ってらっしゃい、また成田で」

彼女もまた、日菜子のことを覚えていてくれたのだ。

航空会社では、勤続5年にもなるとベテランの域に達する。日菜子は、同期のほとんどが退社してしまっているし、自分はこれからどうキャリアを積んでいくのかを真剣に考えることも増える。どうしても、気が重く感じてしまう日もある。

だからこそ、ハネダさんが自分と同じようにずっとこの業界に居続けてくれたことが、日菜子には嬉しくも、心強くもあった。

― いつか、ゆっくり話してみたいな。

日菜子は、L1の窓から小さく見える彼女に向けて、“行ってきます”と手を振った。

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▶1話目はこちら:ロンドンから帰国した直後、女に予想外のトラブルが…

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「久しぶり…」グラホを訪ねてチェックインカウンターにやってきたのは…?