中退という選択は、その後の人生や価値観にどういった影響を与えるのか(写真:horiphoto/PIXTA)

学歴社会ではなにかとネガティブに受け止められがちな「中退」。だが、中退した結果、どんな人生を送ることになるかは、今まであまり可視化されてこなかった。

そこで、この連載では「学校を中退した」人たちにインタビュー。「どんな理由で中退を選んだか」「中退を後悔しているか、それとも辞めてよかったと思っているか」「中退した結果、人生はどうなったか」などを尋ね、中退という選択が、その後の人生や価値観に与える影響を浮き彫りにしていく。

学歴信仰が根強い日本では、高学歴ほど大手企業や、業界内で上位とされる企業に就職しやすい。しかし、当たり前だが個々を見ると能力差はあり、「学歴はないが、仕事はできる」人もたくさんいる。

大手外食チェーンなどで広報を務め、現在もベンチャー企業でバリバリ活躍する中島恵三さん(仮名・61歳)もその1人だ。

学生時代はラジオ局やアメリカ領事館でアルバイト

中島さんは昭和56年に神戸の国公立大学に入学。ラグビーをやる傍らラジオ局やアメリカ領事館でアルバイトをする、根っからの外交的な性格だった。

「帰国子女でもないし英語が得意でもないのに、領事館での会話はすべて英語。NHKの英会話ラジオを聞いて学んだ英語を、一生懸命話して通じた時の喜びがあり、大学の授業とは別に勉強する喜びを知りました。

また、当時は日本人が入ってはいけない外国人パブなどへもツテで入れてもらえるようになり、女性絡みでいい思いをしたこともありました」

充実した学生生活だったようだが、自身の進路を考えるうえではさまざまな葛藤があったという。

「公務員になるか地銀に入るか。当時は皆そういう就職しか考えていない時代でした。私も両親ともに国立大卒で、とくに父は一流会社勤務で父の世代で就職人気一位の鉄鋼会社のお偉いさん。『いい大学に入っていい企業に入るんだ』『それか銀行か公務員だ』と言われていました。でも、私にはそういう“昭和らしい生き方”は合わないと感じていたんです」

そうした葛藤に加え、店で知り合った外国人たちと大人の遊びに溺れていくなかで「谷崎潤一郎の『痴人の愛』を思い出し、このまま女性の家に入り浸り続けているとダメになると気づいたんです。非合法なクスリも目にしてしまい、それから一切の遊びを辞めました」とのこと。堅実な生き方は肌に合わないものの、倫理観は強い人だったらしい。

一切の遊びを辞めた理由

その後、中島さんはラジオ局で電話リクエストを文字にするバイトを始める。当時はバブルの夜明け前。2〜3時間ほど働けば弁当も出て8,000円もらえた。

「こういう仕事をずっとしていたい……と思ってたら、中堅広告代理店の人に出会ったんです。進路について『卒業できるかわからない』と話していたら、『うちには中退してる人間いっぱいいるから気にしないよ、受けてみたら?』と。

クスリの誘いには乗らなかった私ですが、この誘いには乗ったんです。そして、スーツではなく、Tシャツのまま受けに行ったら採用。大学では100単位ぐらい取っていましたが、バカバカしくなってしまって……」

そうして中退を決意するが、当然ながら硬派な両親は大反対。

「それでも、自分には無理でした。中学の時は丸坊主で、同じ服を着て団体行動を強制され、同一の物にならされていくのがたまらなく嫌だったんです。ただ、できることなら中退はしたくなかった。大変なものを背負うという不安が8割、自分で人生を切り開いたほうが面白いという、自分を鼓舞するような心理的側面が2割ほど……という感じでした」

その後、この広告代理店の社員になった中島さん。マーケティング部に配属され、ちょうどバブル期とも重なり「酒と薔薇の日々でした」と振り返る。

「広告代理店では不動産と証券会社を担当。派手な色のソフトスーツで取引先に昼前に行くと『なんか食べに行くか』と奢ってもらえて、お昼からうなぎ、ステーキ、焼肉……という華やかな日々でした。

4月入社の高卒の受付の女の子が6月のボーナスで100万、10月に120万円もらっていた。不動産の男性も『今月2000万円ぐらいしか収入あれへんわあ』とか言ってましたね。男女ともに金銭感覚が崩れていきました」

しかし、中島さんが30歳の頃にバブルが崩壊。ここから、社会人人生も荒波になっていく。

「その年に結婚し、3〜4年間は給料が上がらず。より規模の大きいライバル会社へ転職しました。そこでも年間300万円ほど収入がありましたが、新聞系の広告代理店だったため、WEB広告の台頭によって業績は急激に右肩下がりに。給料は減っていきました。広告に未来はない……と思っていた矢先、大阪に本社がある会社が広報を探してると紹介され、入社することに。当時の会長も中卒で、学歴は問われませんでした。

でも、その会社で順風満帆だったのは最初の2年間だけ。面接はあったものの当時は縁故入社も多く、閉鎖的な社風の、ザ・昭和な会社でした。入社後、さまざまな問題に気付き改善を要求するも『こんなんどこでもやってるわ』と言われました」

順風満帆の2年の後、不祥事対応に追われる

その後、所得隠しや横領などが発覚し社長が逮捕。中島さんは広報としてリリースや会見などのメディア対応に追われた。

「クスリを断った大学時代から、私はそういう不正義は受け入れられないタイプだったように思います。共産主義国家の報道官のように隠蔽はできなかったし、広報という仕事は会社の顔であり、真っ当な社員たちの想いを発信する仕事だと思ってやっていました」

中島さんはその会社で8年勤務したのち、退職。その後、外資系企業に内定をもらうもリーマンショックの煽りを受け取り消しに。40代後半でITベンチャーに入社すると、20歳若い同僚たちとテレアポをする生活となった。

この話だけ聞くと「やはり高卒だとベンチャーしか入れない」「大変だな……」などと思うかもしれない。もちろん転職活動では学歴の壁はあっただろうが、中島さんが凄かったのは、そこで無双したことだ。

「『2週間以内に1件契約を取れれば内定ね』と言われていたなかで、5件の契約を取ったんです。前職で上場する時に、一流の証券会社の上場担当から電話を受けて、営業のノウハウを自然に身につけていたんです。一流ほど、速度や声の高さ……など、みんな同じセールストークなんですよね。気持ちの持ち方次第で、いろんなことを学ぶことができるんだと思います」

仕事ができるか否かに、学歴も年齢も関係ないそうで、中島さんは55歳の時にヘッドハンティングを受けることになる。しかし、ここもなかなか大変な状況だった。

「『お家騒動に悩んでいる会社の広報はできないですか?』という電話がかかってきて、別の外食系企業に広報として就職。前の外食企業での広報の経験を買われた形です。突然、ビズなんちゃらから電話がきて、1週間で転職が決まりました。

入社して驚いたのは、オフィシャルな広報がおらず、PR会社に月々数百万円で丸投げしていたこと。それでいて、メディアとの接し方がお世辞にも上手とは言えませんでした。

当然にすぐに切ったのですが、その後、良からぬ事実が判明。社外取締役が曲者で、その人の口利きでPR会社に業務が委託され、その見返りとして社外取締役が2割ほどキックバックをもらっていたことがわかったんです。まさしく昭和の遺物です」

どこの会社も、透明性を失うとこんな具合になってしまうそうだ。

中島さんは、その後に起きた不祥事においても矢面に立って対応にあたり、やがて転職……というより、お家騒動によって追い出されてしまったが、この程度で凹むメンタルではなかった。60代となった現在でも、企業の広報として活躍を続けている。

遊びに熱心で、昭和的な働き方が嫌な大学生だったはずが、いつの間にか誰よりも昭和な会社で働き、昭和の遺物と戦い、矢面に何度も立ってきた社会人生となった中島さん。

そんな彼は今、中退したことについてこう話す。

人生とはそもそもどうなるかわからない

「できることならちゃんと卒業すれば良かったとは思うし、子供たちにもそう伝えていました。社会人人生では、条件のいい企業から誘いを受けることもありましたが、そうした企業は大抵は大卒がマスト。『大卒ではない』と告げると『ごめんなさい』と言われました。

もし学歴があれば、もっと有名な企業で働いていたかもしれません。仕事の出来不出来に学歴は関係ないですが、成果を増幅させるには大事な要素。幸い子供たちは大学を卒業してくれたので、良かったです」

中退はしなくてもいい経験だったと思うか尋ねると、「死ぬまで答えは出ない。悩み続けると思う」と中島さん。

「人生とはそもそもどうなるかわからないもの。大学を卒業し、銀行に入った友人たちのなかには、周囲が金融破綻にあった人もたくさんいました。彼らは安定を求めて入社し、狭い世界だけで生きてきたため40代なかばで転職しても使い物にならず……という人も少なくなかったそうです」

中退したが、いろいろな会社でさまざま仕事を経験し、どこででも生きていける力を身につけた……ということなのだろうかと思って尋ねると、中島さんは「そんな大層なものではない」と謙遜する。

「私はただ、人との出会いに恵まれただけなんです。現在も、社員50人程度の企業ですが、縁があって広報として働けている。また、入社して数カ月の間にいくつものメディア露出ができたのですが、それも今までのネットワークのおかげです。こんなにありがたいことはないですよ。本当に、人生は人との縁だと思います。

だからこそ、中退についても『なにが正解かわからないけど、もし自分が保守的な企業に入っても遅かれ早かれドロップアウトしていただろう』『結局、こういう生き方をしていたことだろう』と思うようにしていますね」


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人生は広い海だ。追い風の日も、嵐の日もある。たしかに学歴はエンジンになりうるが、それだけで前に進める訳ではない。

なにを目指すか、自分にとって何が大事か……答えの出ないものだからこそ、自分なりの答えを出そうとすることが大切なのだろう。

筆者には「もし自分が保守的な企業に入っても遅かれ早かれドロップアウトしていた、と思うようにしている」という表現が、中島さんの正直な人柄をなにより表しているように思えた。

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(越野 真由香 : ライター)