開場当初こそ酷評された埼玉スタジアムのピッチだが、その後は国内有数の美しさを保っている【写真:Getty Images】

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「日韓W杯、20年後のレガシー」#30 埼玉スタジアムを巡る物語・後編

 2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何を遺したのか。「THE ANSWER」では20年前の開催期間に合わせて、5月31日から6月30日までの1か月間、「日韓W杯、20年後のレガシー」と題した特集記事を連日掲載。当時の日本代表メンバーや関係者に話を聞き、自国開催のW杯が国内スポーツ界に与えた影響について多角的な視点から迫る。

 日本代表の初陣ベルギー戦の舞台となった埼玉スタジアム。6万人超の収容人数を誇る国内屈指のサッカー専用スタジアムは、これまで数多くのビッグマッチが行われてきたが、2001年10月のオープン当初は危機に見舞われていた。芝が原因不明の生育不良となり、試合中にめくれ上がる事態に。W杯本番まで残り約8か月、埼玉スタジアムのピッチを巡る裏方たちの奮闘を振り返る。(取材・文=河野 正)

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 埼玉スタジアムの竣工は2001年7月31日で、オープニングマッチは同年10月13日に行われたJリーグ第2ステージ第8節、浦和レッズ−横浜F・マリノスだった。6万553人の大観衆が集まり、当時のJリーグ最多入場者記録を更新した。

 ところが至るところで芝がはがれ、貧相極まりないピッチがお披露目試合に水を差した。浦和の井原正巳主将は、「芝がどんどん盛り上がってしまい、グラウンド状態が悪くてリズムをつかめなかった」と芝が根付いていないことに言及した。

 それからおよそ3週間後の11月7日、日本代表とイタリア代表による国際親善試合、キリンチャレンジカップがキックオフされた。

 序盤からピッチのあちこちで芝がめくれ上がり、選手がスライディングするたびに芝がはがれていった。ゴルフ場で目にするディボット跡よりはるかに大きなくぼみが何十か所もできた。イタリア代表のファビオ・カンナバーロ主将は試合後、「まるでビーチサッカーをやっているみたいだった。砂浜の上を走っているように感じた」と劣悪なピッチ環境をこんな表現を使って酷評した。

イタリア戦の翌日から鳴り響いた抗議の電話

 先発した日本代表の小野伸二も「芝がめくれ上がり、ピッチが軟らかく感じた。踏み込むと重い感触で、芝が根付いていないんだと思いました」と回想する。同時に「グラウンドはぼこぼこだったけど、相手が豪華メンバーのイタリア代表なので試合に集中した。勝つことしか考えていなかったから、必要以上にピッチ状態を気にしている場合ではなかったんですよ」と言い放つのだから、小野は別格の選手である。

 イタリア戦から3日後、Jリーグ第2ステージ浦和−柏レイソルが行われ、翌日はワールドカップ(W杯)開幕200日前行事の全国一斉サッカーフェスティバルがあり、レッズOBとコモエスタ赤坂が対戦。12月29日には浦和とセレッソ大阪が対戦した天皇杯準決勝、さらに第80回全国高校サッカー選手権では初めて試合会場となり、大みそかの1回戦と新春1月2日の2回戦で4試合使用した。

 1、2回戦とも埼玉スタジアムで戦った浦和南(埼玉)の監督だった石神英徳さんは「スライディングや体重を乗せて強く踏み込むと、芝が四角い形状のままはがれました。特にサイドライン側が目立った」と振り返り、境(鳥取)との1回戦で後半33分に判定されたPKについて「うちの選手は全く触れていないのに、相手が勝手に転んで取られた。あれもピッチ状態が影響したんでしょうね」と苦笑した。

 石神監督は開幕前、大会関係者から会場が変更になる可能性のあることを告げられている。

「お前ら日本の恥だ」
「芝の責任者を出せ」
「W杯は大丈夫か」

 イタリア戦の翌日からしばらく、埼玉スタジアムには抗議の電話が殺到した。

 2000年3月から準備室時代を含め、埼玉スタジアム2002事業推進本部の主任だった船越良さんは、「文句や誹謗、抗議のほか『芝の生育に効く薬品があります』とか『うちならこんな手当てが可能です』といった業者からの売り込みもずいぶんありました」と当時の様子をこう伝える。

 朝から晩まで電話が鳴りっ放しの事務所は修羅場と化し、最初に電話を受けるアルバイトはひたすら謝り続け、果ては3人が早々に辞めてしまった。それから事務所の電話を自動音声に切り替えた。

最悪の事態へ備えて宮城スタジアムから芝を買い付ける

 その頃、筆者は地元紙記者として芝の解説記事を計画し、芝の管理責任者だった輪嶋正隆さんへの取材を事業推進本部に依頼。しかし「ワールドカップが終わるまで、芝に関する取材はご遠慮ください」と断られた。当時、5人の有識者で構成する“埼玉スタジアム2002アドバイザー”という役職を埼玉県から委嘱されていた筆者だが、優遇してはもらえなかった。それほど過敏になっていたのだ。

 日本サッカー協会は02年1月の理事会で、埼玉スタジアムの低質な芝の状態を議題に上げた。これを受けて森健児専務理事や高田豊治施設委員長らが2月5日、埼玉県芝生検討委員会の興水肇明治大学農学部教授を伴い、視察に訪れた。森専務理事は「日本のワールドカップ第1戦の会場でもあり、国民の関心はとても高い。施設委員会としても心配になり、状況を把握したかった」と述べた。

 点検した興水教授の助言に沿い、芝の根付きを盤石にする管理・育成方法の徹底を確認。高田委員長は「適度な散水と肥料成分の再検討が今後の最重要案件だ」とした上で、「リスクを抑えるため、芝の張り替えも視野に入れるよう埼玉県に要望した」と明かした。同委員長は「水分過多になると根が下に伸びないので、散水コントロールをきちんとやらないといけない」と解説し、散水制御の重要性を何度も説いた。

 00年4月に開場した日韓W杯会場の宮城スタジアムは、万が一を考えて芝を担保していたが、順調に育ったことで当面は必要なくなった。そこへ埼玉県の下命を受けた船越さんが02年3月28日、約8000平方メートル分の芝を買い付け、張り替えという最悪の事態に備える。

 植物はひと冬越すと強くなるため、秋に播種し春から使うのが理想とされるが、埼玉スタジアムは01年3月26日に種を蒔いた。1年中常緑な寒地型芝草のケンタッキーブルーグラス、ペレニアルライグラス、トールフェスクという3系統5種類を混合。ピッチの下には暑気は冷水、寒気には温水を流し、芝の生育に適した温度を保つ地温コントロールシステムを導入したとあり、根の発育不順はグラウンドキーパーらの想像の範囲をはるかに超えていた。

 手順のどこかにミスがあったのだろうか。屋根の問題や日照、通風など気象条件も指摘されたが、船越さんは「今でも明確な原因は分かっていませんが、水のやり過ぎは当初から気になっていました」と言う。

良好な芝に一変も生育不良の原因はいまだ不明

 原因不明の一大事だったが、日本協会の助言通りに管理し、芝の養生に専心。根の長さと強度を毎日測定していると、日増しに根が伸びていることを確認できた。4月16日に3度目の視察に訪れた日本協会の高田委員長は、「はがれる箇所も一部あるが、飛躍的に改善した。いい状態でワールドカップを迎えられそうだ。今後はレッズの練習などで週に数回使ってもらい、適度な刺激を与えてほしい」と提言し、森専務理事も「張り替えの心配はない」とひと息ついた。

 購入した張り替え用の芝が気になるが、これは埼玉スタジアム第2グラウンドに敷き詰められた。

 船越さんは20年以上経過した今でも、芝の根付きが遅れた原因は誰にも分からないとした上で、「でき上がったグラウンドの管理はしてきたが、芝を育てることから始めた経験者がいなかったので難しかったと思う。危機的な状況に陥ったが、特別な処置をしたわけではなく、育成を待っただけ。養生と時間が必要だったんでしょうね」とうなずいた。

 02年6月2日、良好な芝に一変した埼玉スタジアムはイングランド−スウェーデンの好カードで開幕。この2日後には日本代表がベルギーと対戦し、2-2で引き分けW杯で初の勝ち点を手に入れた。

 先発した小野はイタリア代表戦のピッチと比較し「前日の公式練習から、あの時とは全然違ってプレーしやすかった。本番では大勢のお客さんが来て、素晴らしい環境の中で楽しくやれた」と振り返る。

 06年W杯ドイツ大会アジア予選。小野は第5中足骨骨折など相次ぐ怪我の影響で、12試合中5試合にしか出場していない。埼玉スタジアムでの唯一の試合が、7-0で大勝した04年6月9日のインドとの1次予選第3戦だ。「お客さんとの距離が近くて盛り上がりを感じた。芝のコンディションも最高で、期待に応えようと気持ちが高ぶった。あれだけのスタジアムはなかなかありません、財産ですよね」。複数の海外クラブに所属し、たくさんの競技場でプレーしてきた小野がこう感心した。

 05、09、13、16年にはJリーグのベストピッチ賞に4度輝いた。

 現在、浦和レッズが運営する地域スポーツクラブ、レッズランド総支配人の船越さんは「メディアはあれだけこき下ろしてきたのに、改善された芝に一切触れませんでしたね」と笑い、「私も芝のことは忘れ、イングランドサポーターの地響きのような野太い声の合唱と声援、そんな異次元空間に浸っていました」と懐かしんだ。

 W杯開幕とともに“埼スタの芝狂騒曲”は、すっかり終息していた。

【前編】日本サッカーの聖地、埼玉スタジアム誕生秘話 候補地は21か所、なぜ今の場所に建設?

(河野 正 / Tadashi Kawano)