京都にある神護寺の復興に尽力した文覚とはどういう人物だったのか(写真:leicahiroba/PIXTA)

NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』やフジテレビ系列のアニメ『平家物語』の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。平安末期の人物の中でも異彩を放っているのが源頼朝に挙兵を勧めたとされる僧、文覚(もんがく)です。いったいどんな人物だったのか。歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。

もともとは武士だった文覚

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』には、曲者や異彩を放つ者が数多登場してくるが、その中でも、キャラクターが濃いと感じられたのは、歌舞伎役者の市川猿之助さん演じる僧侶・文覚である。

ドラマのなかでも、うさんくさい目でたびたび見られていた文覚。彼はいったい、何者でどのような経歴を歩んだ僧侶だったのか。文覚はあの『平家物語』にも登場してくる。『平家物語』は、文覚について、源頼朝との関係に触れつつ、次のように記す。

「そもそも、源頼朝というのは、去る平治元(1159)年12月、父・源義朝の謀反によって、14歳であった永暦元(1160)年3月20日に伊豆国の蛭島に流され、以後、20余年の年月を送っていたのだ。長年、何事もなく過ごしてきたのに、なぜ今年になって、どのような思いで謀反などされたのであろうか。それというのも、高雄の文覚上人の勧めがあってのことという話がある」(『平家物語』を筆者が現代語訳)

つまり、源頼朝の挙兵に、文覚という僧侶が関与していると『平家物語』は語っているのだ。なぜ伊豆の頼朝に謀反を勧める状況におかれたのか。そして謀反を勧めたというのは、本当なのか。源平合戦の時代に現れた怪僧・文覚にまつわる数々の謎について見ていき、真相を探ってみたい。

文覚は『平家物語』によると「渡辺の遠藤左近将監茂遠(もちとお)の子で、遠藤武者盛遠(もりとお)といって、上西門院の所の衆」であったという。上西門院とは、鳥羽天皇の皇女であり、崇徳天皇、後白河天皇とは同母兄弟である。ちなみに、少年時代の頼朝は、上西門院の蔵人(宮中の事務を担当)に任命されている。

さて、話を戻すと、文覚は摂津国の渡辺党に属する遠藤氏の出身であり、上西門院に仕える武士であったのだ。しかし、19歳のときに、仏道を志す心を起こして出家したという(『平家物語』)。

仏道を志して出家と言えば信仰心があついとのイメージだが、源渡の妻で美女の袈裟(けさ)に思いをかけ、最終的には、夫の身代わりとなって寝所に臥す袈裟を殺害した揚げ句の出家との説もある(『源平盛衰記』)。

出家してからの文覚は、修行の苦難を試すために、炎天下のなか、7日間、藪中に寝て、毒虫が体を刺しまわるままにさせ「修行というのは、この程度か」と言ったという逸話が残る(『平家物語』)。

また、熊野に参詣し、12月、寒中の那智の滝に5日間打たれたとされる。各地の霊場を経めぐり、仁安3(1168)年、30歳の時に、京都の神護寺に草庵を結ぶ。そして、荒廃した同寺の復興に尽力するのである。

だが、そのやり方は強引なものだった。後白河法皇の御所・法住寺殿に押し入り、大音声で復興のための寄進を要求(1173年)。投獄され、のちに許されたが、「この世は、今に乱れ、君も臣も滅び去るであろう」などと触れ回るので、遠国・伊豆に配流となるのであった。

伊豆で頼朝に出会って懇意に

伊豆で近藤国高という者に預けられた文覚は、同地にいた頼朝と出会い、懇意にするようになったという。さまざまな話をするうちに、あるとき、文覚は「あなたほど将軍としての相をもっている方はありません。早く謀反を起こして、日本国を手中にお収めなされ」と頼朝に平家への挙兵を勧めるのである(『平家物語』)。

頼朝は、清盛に助命嘆願してくれた池禅尼の冥福を祈ることに専念しているとして、謀反など思いも寄らないことを告げる。すると文覚は「天が与えるものを受け取らないと咎を受けましょう」と言い、頼朝の父・源義朝の頭蓋骨を取り出し見せるのである。文覚は、牢獄の前の苔下に埋もれていた義朝の頭蓋骨をもらい受け、長年弔ってきたというのだ。

頼朝は涙を流し、これ以後は、いっそう打ち解けて文覚と語り合ったという。それでも頼朝は「流罪の身の者がどうやって謀反を起こせようか」ととまどいがちであったが、文覚は「福原へ参り、院宣を頂戴してきましょう」というが早いか、福原に行き、後白河法皇の院宣(上皇・法皇の命令を院司が承り発給した文書)をもらい受け、伊豆に戻るのである。頼朝は院宣をひらく前に手を洗い、口をすすいで、三度拝礼したという。

『平家物語』が載せるこれらの逸話は、現代人から見てもうさんくさく、偽りのように思えるが、まったくの虚構でもないようだ。

『愚管抄』(鎌倉時代前期の歴史書。天台宗の僧侶・慈円が著者)には「文覚は、流罪中に4年間、同じ伊豆で朝夕に頼朝となれ親しんだが、法皇の仰せがあったわけでもないのに、法皇や平家の心中を探りつつ、勝手に差し出たことを頼朝に言っていた」とある。

『玉葉』(平安時代末の貴族・九条兼実の日記)には、文覚が義朝の首を獄中から取り寄せたとの記述が見られる。このことから、後白河法皇の平家追討の院宣は存在したという説を唱える著名な学者もいる。

しかし、頼朝と文覚に何らかの交流はあったのだろうが、謀反の勧めまでしたと判断するのは慎重でなければならない。

院宣の存在を認めているのは「平家物語」だけ

文覚が伊豆に流されたのは、承安3(1173)年、平清盛の娘・徳子が高倉天皇の中宮になった翌年である。平家全盛の時代だ。そのような時期に文覚が頼朝に謀反を勧めたとも考えにくい。しかも、文覚は治承2(1178)年に罪が許されて、帰京しているのである。

頼朝の挙兵は治承4(1180)年。2年の開きがある。時期的にも文覚が頼朝に謀反を勧めたとは考えにくい。このような逸話が生まれた背景には、文覚ならばそのようなこと(謀反の勧め)をしかねないという当時の人々の心情が絡んでいたのではなかろうか。

後白河法皇の院宣の存在を認めているのは『平家物語』のみであり、『愚管抄』に至ってはその存在を否定している。院宣が本当に出されていたならば、その存在を記すはずである。記載がないということは、平家追討の院宣はなかったと考えてよいのではないか。

後白河法皇と源頼朝は後に親密な関係を築くことになるが、両者の間で院宣の話は出ていない。法皇の院宣によって頼朝が兵を挙げたのならば、その話に触れるはずだが、そうした形跡もない。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に幕府によって編纂された歴史書)でも、院宣について記していない。

後白河の第3皇子・以仁王の令旨よりも、法皇の院宣のほうが権威に優るし、頼朝挙兵の正当性を高めるものであるから、院宣が存在したならば、必ずや記述するはずだ。平家追討の院宣が新発見されない限りは、このときの院宣発給はなかったとするのが妥当であろう。

神護寺だけでなく、東寺の復興にも尽力

さて、苦難の道を歩んだ文覚であるが、失敗続きだったわけではない。罪を許されてからは、神護寺の復興に一段と尽力。法皇や源頼朝の援助を受けつつ、寺の復興に邁進する。そして、建久元(1190)年には、神護寺はほぼ完成、法皇が訪問されるという光栄に浴している。文覚は神護寺のみならず、京都の東寺の復興にも力を注いでいる。

ところが、法皇が崩御(1192年)し、頼朝も没する(1199年)と、支援者を亡くした文覚は、政争に巻き込まれて、佐渡国に配流となってしまう。建仁2(1202)年には許されて京都に戻るが、後鳥羽上皇から謀反の疑いをかけられ、対馬に流罪となる。その途上で病没したといわれる。

何度も流罪になり、赦免されてきた文覚。まさに波瀾万丈の生涯を送ったといってよいだろう。その経歴を見ていたら、どのような困難に陥っても、くじけず、自らの思うところを実行していく意思の強さのようなものを筆者は感じる。

悪く言えば頑固、懲りない、よく言えば、情熱的で実行力があると言えよう。そうした人物だからこそ、数々の寺の復興という大事業をなすことができたのである。

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)