千葉駅にはJRとモノレールが乗り入れ、京成千葉駅も隣接している(筆者撮影)

2021年、千葉県千葉市は市制施行100年を迎えた。同市は工業・農業・漁業・商業など幅広い産業をエンジンとして成長するとともに、東京のベッドタウンとして人口を増やしてきた。東京という一大消費地が、千葉の発展に寄与していることは間違いない。そして、千葉と東京との結び付きを強くしたのは、何よりも鉄道だった。

1873年、千葉県は印旛県と木更津県とが合併して誕生。同時に千葉町(現・千葉市)に県庁が設置される。当時の千葉町は東京湾に面していたひなびた田舎町だった。県庁が置かれた理由は、木更津県と印旛県の中間地点に位置していたからという消極的な理由でしかない。

しかし、1894年に私鉄の総武鉄道(現・JR総武線)が開業すると状況は一変した。

鉄道開業時から「軍事」の要素が

同年に開業したのは市川駅―佐倉駅間で、中間駅には船橋駅と千葉駅が開設された。総武鉄道は両国橋(現・両国)駅をターミナルとする計画で、市川側はその後東京方面へと線路を延ばしていく。一方、開業時に佐倉を東端としたのは、軍事的な目的が含まれていた。佐倉には明治初期の1873年から東京鎮台佐倉営所が設置されていた。つまり、佐倉は帝都防衛の最前線という役割を課されていたのだ。


千葉駅北口は、ロータリーなどが整備されているものの人通りは比較的少ない(筆者撮影)

そして、日清戦争で鉄道が兵員輸送に役立つことが認識されると、陸軍は鉄道網の全国的な拡大と、鉄道のメンテナンスを担当する鉄道部隊の創設を主張した。総武鉄道が開業した千葉駅は県都・千葉町の発展に貢献したが、それは同町が軍都の色彩を濃くしていくことと無縁ではなかった。

1907年に施行された鉄道国有法により、私鉄の総武鉄道は官営鉄道(国鉄)に組み込まれて総武本線となり、以降は政府の意向に左右されるようになる。1908年には、傷病兵の治療を受け持つ千葉衛戍病院(現・国立病院機構千葉医療センター)が開院。同院は軍都・千葉の先兵となり、同年には隣接地に鉄道第一連隊が設置された。鉄道連隊は戦地で弾薬・食料などを輸送するために鉄道建設を任務とした部隊だ。

千葉に設置された鉄道第一連隊の任務をサポートするため、隣接地には鉄道機器をメンテナンスする材料廠や演習用の作業場が設けられていく。鉄道第一連隊の任務は年を経るごとに増し、演習用の作業場は1923年に千葉陸軍兵器補給廠へと敷地を拡大させつつ発展的に改組した。


県庁や千葉県警察本部などが立地する官庁街の近くにある本千葉駅(筆者撮影)

千葉衛戍病院が開院した翌年には、鉄道第一連隊へ資材を輸送するための軍用鉄道が津田沼方面から延伸。軍用鉄道の線路は現在の千葉都市モノレール穴川駅付近からモノレールに沿うようにJR総武本線へと合流するルートで建設され、軍用鉄道の千葉駅からはスイッチバックするように軽便鉄道の線路が材料廠へとつづいていた。

軍事施設が集まったことで、半農半漁だった千葉町の主要産業は工業へと転換していく。そして軍事施設や工場で働く労働者が増えるのに伴い、千葉町の人口も増加した。

明治期から、県都・千葉町は市制施行を悲願にしてきた。人口増加を受け、千葉の政財界人は市への昇格を政府へ働きかけるようになる。当時は市制施行の条件の1つとして2万5000人以上の人口が必要だったが、千葉町は農漁村から工業都市への変化を模索していた1906年に、すでに人口3万人を突破していた。

それでも政府は千葉町の市制施行に難色を示した。その理由は、千葉町が他市と比べて税収が大きく劣っていたからだ。千葉町の税収が少なかったのは、高い未納率にあった。町は税制を戸数割付加税から家屋割付加税へと変更し、未納率を下げようとした。この税制変更は増税につながることから、町民から猛反発を受ける。それでも町は粘り強く税制変更を訴えかけ、1919年に問題は決着。こうして1921年に千葉市が発足する。

京成も成田より千葉を優先

千葉町の都市としての発展や人口増加は、鉄道にも大きな影響を及ぼした。

町が市制施行のために政府や関係各所とかけあっていた頃、京成電気軌道(現・京成電鉄)は多くの需要を見込んで路線計画を変更した。もともとは船橋から成田へと向かうルートの建設を推進していたが、それを後回しにし、現在は京成千葉線と呼ばれる船橋(現・京成船橋)駅―千葉(現・千葉中央)駅間を先に完成させたのだ。

同線も通る千葉市の稲毛海岸は、大正期から東京近郊ながら海沿いの別荘地として富裕層から人気を得ていた。稲毛海岸の人気を高めた人物はたくさんいるが、その筆頭とも言えるのが三河鉄道(現・名古屋鉄道三河線)の社長も務めた神谷傳兵衛だった。

神谷は洋酒製造で財をなし、現在もシャトーカミヤの名前で知られている。神谷は愛知県幡豆郡出身という縁から三河鉄道への出資を求められ、そこから鉄道事業にも関わるようになった。

稲毛には、清朝最後の皇帝となった愛新覚羅溥儀の弟・溥傑と、昭和天皇の遠戚にあたる嵯峨浩も結婚後に新居を構えている。フランス人画家で、風刺画でも名を馳せたジョルジュ・ビゴーも邸宅を構えた一人だ。期間は判然としないが、おそらく1882年に来日して1899年に帰国するまでの大半は稲毛に邸宅を構えていたとされる。

居住することはなかったが、島崎藤村・森鴎外・田山花袋・林芙美子といった文人墨客も稲毛海岸の旅館に頻繁に逗留。その様子を作品に描き、庶民に稲毛海岸と別荘地の名を広めた。富裕層の別邸や文人墨客が逗留した旅館などが人気に火を点け、京成は1922年に海水浴客の需要を見込んで千葉海岸(現・西登戸)駅も開業している。

稲毛を海浜リゾートに押し上げた神谷は、残念なことに稲毛海岸のにぎわいを目にすることなく駅開業から1カ月後に没している。

航空に注目した軍が着目

大正末期から昭和初期にかけて、千葉は軍都としての色彩を強めていった。その遠因になったのが、1923年に起きた関東大震災だった。千葉市も関東大震災による被害が出たものの、東京・横浜に比べると被害は小さく、政府や軍部はリスクヘッジの観点から軍事施設を千葉へと分散させた。

陸軍はリスクヘッジ以外の観点でも千葉に着目していた。先述したように稲毛海岸は海浜リゾートとして人気を高めていたが、その一方で民間航空の発祥地にもなっていたからだ。

日本鉄道(現在のJR東北本線や常磐線などを開業した私鉄)の社長を務めた奈良原繁の息子・三次は海軍に入隊し、航空機の研究に没頭。退役後の1912年、奈良原は稲毛海岸に民間飛行場を建設。国産飛行機の製作や後進パイロットの育成に力を注いでいた。

当時の大日本帝国に空軍はなく、陸軍と海軍が競うように空軍力を保持していた。陸軍は制空力を高めるべく、1927年に所沢から千葉へ気球連隊を移転。さらに1938年には千葉陸軍防空学校を開設する。その間の1936年に千葉陸軍戦車学校も開校しているが、陸軍が千葉市に空軍施設を集めたのは、少なからず奈良原の影響があった。

こうして千葉駅の周辺は軍事施設で埋め尽くされていき、主要産業も農業・漁業から工業へとシフトしていく。後述するが、これは奇しくも戦後の高度経済成長期に連動することになる。

千葉市の発展に伴って、鉄道も整備されていった。かねてより総武本線と京成は千葉―東京間で競合関係にあった。実際は1921年に全線電化で開業した京成がスピード面でも運行頻度でも勝り、蒸気機関車の総武本線は相手にならなかった。

しかし、1932年に総武本線の両国駅―御茶ノ水駅間が延伸開業すると状況は一変。総武線からそのまま中央線方面へと移動できるようになったため総武線の利便性が向上し、利用者が増えることになった。さらに1935年には千葉駅―御茶ノ水駅間が電化。これで、京成と総武線の競争は激化した。

千葉市の鉄道は戦前も複雑な経緯をたどっている。しかし、戦後はもっと複雑さを増していく。千葉は戦災復興で大規模な都市改造が進められ、その結果、国鉄も京成も駅の位置が大きく変わった。


JRの千葉駅と隣接する京成千葉駅。両駅の間は人通りが激しい(筆者撮影)

戦前、京成と国鉄は、それぞれ別の場所に「千葉」駅を開設していた。だが、戦災復興計画によって1963年、国鉄の千葉駅が現在地へ移転。これに先立つ1958年には房総東線(現・外房線)の駅である本千葉駅が現在地に移り、旧駅があった場所に京成千葉(現・千葉中央)駅が移転した。現在、JRとの乗り換え駅となっている京成千葉駅は、1967年に国鉄千葉駅前という名で開業した。


複雑怪奇とも思える千葉市の戦災復興計画だが、これには明確な理由があった。国鉄の旧千葉駅は現在の千葉市民会館付近にあり、東京方面から走ってきた総武本線の列車は内房線・外房線へと走るためにスイッチバックしなければならなかった。スイッチバックは大幅に時間をロスするだけでなく、列車の運転本数を増やす障害になっていた。また、国鉄と京成の駅を統合することで市街地活性化を目指すという目的もあった。

復興で埋立地開発も進展

こうした大規模な都市改造が断行されたこともあり、千葉市の戦災復興事業は1970年代にようやく完了。中心部をゼロベースで改造できた背景には、千葉市が軍都だったがゆえに激しい空襲に見舞われたことが大きな要因だった。

また、千葉沖の開発も戦災復興で再び動き始めた。政府は1940年に軍都・千葉の発展を加速させるために東京湾臨海工業地帯計画を作成し、千葉市沖にも埋立地を造成した。同埋立事業は戦争により約200ヘクタールで中断するが、千葉市民や政財界が一丸となったこともあり、戦後はより計画を拡大して埋立地の整備が進んだ。

高度経済成長期以降の千葉県は、21世紀に入るまで加納久朗・友納武人・川上紀一・沼田武と国土開発に傾注する知事を選出している。そのあたりからも、千葉県民が開発に抱く強い願望がうかがえる。

1962年に千葉県知事に就任した加納は日本住宅公団初代総裁を務め、東京湾を埋め立てるネオ・トウキョウなるプランをぶちあげたこともある。

翌1963年に加納が知事在職のまま急死すると、後継となった友納は新東京国際空港(現・成田国際空港)の建設や東京湾の埋立地造成など、開発大明神ともあだ名されるほど千葉県の開発を推進した。その次の川上は、埋め立てられた浦安沖に東京ディズニーランドを誘致。沼田も幕張新都心の建設などに取り組んでいる。


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知事だけではなく、市長も開発推進者が選出された。1950年から千葉市長を務めた宮内三朗は、川崎製鉄の誘致や千葉港の整備、国鉄千葉駅の移転を実現した立役者でもある。そうした功績から、千葉市の基礎を築いた市長と語り継がれる。宮内は千葉県知事とも協力していたが、それとは別に川崎製鉄の初代社長・西山弥太郎との二人三脚で千葉市の工業化を積極的に進めた。

千葉市が推進した埋立事業によって、約19kmあった海岸線は約34万平方メートルの埋立地に姿を変え、千葉市は工業化を果たす。そして、臨海部には貨物専用線として京葉線が誕生した。同線は沿線開発に伴って1986年から西船橋駅―千葉みなと駅間で旅客列車が運行されるようになり、同時に駅も設置された。これが沿線の宅地化を加速させていった。

モノレール開業、そして21世紀へ

千葉市は湾岸エリアを工業地帯にとどめるだけではなく、観光地にする未来図も描いていた。観光課は対外的な宣伝用に湾岸エリアに遊園地を描いたイラストマップを制作。それらは、遠からず幕張新都心の幕張メッセやマリンスタジアムとして結実。さらに、平成期にはタワーマンションが立ち並んでいった。


千葉都市モノレールの新型車両0形は、眺望を考慮して窓を広くしているほか、床面の一部にもガラスを採用している(筆者撮影)

湾岸開発が進められていた時期には、千葉市内の交通渋滞悪化対策とさらなる人口増を見据え、市内の鉄道網を整備する機運も高まった。千葉市は、地下鉄ではなく新しい交通機関として注目を浴びていたモノレールを選択。千葉都市モノレールは1988年に一部区間で開業を果たし、1991年に千葉駅へ乗り入れた。

千葉都市モノレールは以降も路線網を拡大し、現在は懸垂式モノレールとして世界最長の約15.2kmを誇る。だが、千葉駅を軸にした通勤・通学利用が期待されたものの、利用者数は想定よりも伸び悩んだ。その影響で、さらなる延伸計画は白紙にされた。

千葉市は1992年に政令指定都市への昇格を果たし、2022年は30周年の節目を迎える。現在の人口は、約97万7000人。千葉駅は2016年に新駅舎、2年後には駅ビルが全面開業し、装いを新たにした。大規模リニューアルで生まれ変わった駅は、政令指定都市、そして県都の玄関としてさらなる発展の牽引役を担っている。