濱口竜介監督

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村上春樹の短編小説を映画化した『ドライブ・マイ・カー』で2021年のカンヌ国際映画祭の脚本賞を含む4冠に輝き、世界が最も注目する映画監督のひとりになった濱口竜介。

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そんな彼の最新作は、タイトルロールをテーマに掲げた自らのオリジナル脚本で3つの物語を紡ぐオムニバス映画『偶然と想像』。

本作は制作時期も重なる『ドライブ・マイ・カー』とどこか設定やムードが似ていて、まるで姉妹編のよう味わいだが、それは意図したことなのか? それとも単なる“偶然”なのか?

濱口監督を直撃し、その真相とそこから分かる気鋭の映像クリエイターの演出法に迫ってみた。

『ドライブ・マイ・カー』と『偶然と想像』は影響し合っている

『偶然と想像』の第一話「魔法(よりもっと不確か)」は、タクシーの中のモデルの芽衣子(古川琴音)とヘアメイクのつぐみ(玄理)の女子トークから始まる。

つぐみから最近気になる男性(中島歩)の話を聞かされた芽衣子。単なる恋バナだったのが、芽衣子がその後向かった先によってある驚愕の“偶然”が明かされる展開だ。

続く第二話「扉は開けたままで」は、大学教授の瀬川(渋川清彦)に色仕掛けをしてスキャンダルを引き起こそうとしたゼミ生・奈緒(森郁月)の計画が、あり得ない“偶然”の過ちで彼女をとんでもない運命に導いていく物語。

そして最後の第三話「もう一度」は、仙台駅のエスカレーターで高校以来20年ぶりに再会した夏子(占部房子)とあや(河井青葉)の関係性に訪れる思いがけない変化を描いていて、三つの話はそれぞれ独立している。

その一方、第一話のタクシーは『ドライブ・マイ・カー』で専属ドライバーのみさき(三浦透子)が運転する主人公の舞台俳優兼演出家・家福(西島秀俊)の愛車である赤いサーブを想起させるし、第二話の奈緒が瀬川の前で彼の小説を声に出して読むくだりは『ドライブ・マイ・カー』の車中で家福が聞く亡き妻(霧島れいか)による台本の代読を嫌でも思い出す。

そんな類似点や共通項が随所で見え隠れしたので、『ドライブ・マイ・カー』と『偶然と想像』は影響し合っているのか問うと、濱口監督から「影響関係はあります」という言葉が返ってきた。

「『ドライブ・マイ・カー』は自分がそれまでやってきたものとは違うスケールの大きな作品だったので、現場で試行錯誤をするのは難しいと思っていました。

なので、事前に準備できることは準備しておきたくて、「短篇集」のプロジェクトを立ち上げました。それが結果的に『偶然と想像』になったものです。

三つの物語それぞれの中で『ドライブ・マイ・カー』でやらなきゃいけないことを予行演習していくという意図がありました」

具体的には、村上春樹氏に映画化の許諾をもらうための手紙を送り、許諾がもらえるかどうか分からない中で「もらえたときのために準備しておかなければいけないし、もらえなかったとしても自分のプロジェクトを持っておきたかったので、どっちに転んでもよいように元々あった話の種から選んで、今回の三編の台本を書きました」という。

「そうこうしているうちに村上さんサイドから『ドライブ・マイ・カー』の許諾も取れました。

そちらは撮影が2020年の予定になったので、短篇集を2019年のうちに第二話、第一話の順で撮り始めています。

2020年に入って第三話は後回しにして、『ドライブ・マイ・カー』を撮り始めたんです。だけど、コロナ禍で中断を余儀なくされたので、たまたまできたその中断期間を使って第三話を撮って、結果的に『偶然と想像』の方が先に完成しました」

そう言い終えた後で「結果として『偶然と想像』は、決して習作には終わっていないと感じてます」と強調する。

「リハーサル期間はこっちの方が潤沢だったし、よりシンプルな構成なので、役者さんの魅力を深く感じられるものになっています。

だから、規模はまったく違いますが『ドライブ・マイ・カー』よりこっちの方が好きだという人がいてもそんなに驚かない。そういうものにはなったんじゃないか、と思っています」

「そういう行動をする人はどういう人なのか」逆算するように人間像を作っていく

濱口監督自身がそう言う通り、本作の登場人物たちは誰もがイキイキしている。特に女子同士のやりとり=女子トークがとってもリアルで、男性が書いたセリフとはとても思えない。

そう告げると、濱口監督は「『ありがとうございます』としか言えないですね」とはにかみつつ、言葉を続けた。

「男性は原理的に女性だけの場にはいられないので、喫茶店の隣で話している女性同士の会話や複数の女性が話す映画、自分が実際に話したことのある女性からインスピレーションをもらうしかない。

それに物語の大まかな流れや、その物語の中でその人がどういう行動をするのかは決まっているので、そこから、そういう行動をする人はどういう人なのかと逆算するようにして詳細に人間像を作っていく。

実際の撮影では女性の役者さんに実際に演じてもらっているので、それがいちばんの強みになると言うか。

その役者さん自身が持っているもの、普段の喋り方が結局のところリアリティをいちばんもたらしてくれるんじゃないかなと思っています」

それは一理あるかもしれない。ただ、それでも信じられない。第一話で芽衣子を演じた古川琴音の口から出るセリフは、いまを生きる若い女性のワードに溢れていて、まるでドキュメンタリーを観ているんじゃないかと錯覚するぐらい生っぽいのだ。

「あれはまさに、カフェの隣のテーブルで喋っていた女子ふたりの『気になる人に会ったんだ』『大丈夫、その人?』という会話がベースになっています。

でも、それだけでは物語にならないので、より劇的な展開を想像していって、いろいろ変えています。何にせよ、女子ふたりの会話は正直いちばん難しいですね(笑)」

俳優に指示を出すと、自分が望んでいるようなものは写らない

少し前の監督の言葉を裏づけるように、現場では俳優陣に助けられることも多かったと振り返る。

「第一話の芽衣子も脚本を書いているときは“こんなキャラクターで大丈夫? 荒唐無稽すぎるかな?”って半信半疑のところもありました(笑)。

でも、古川さんに演じていただいたときに、あっ、こういう人だったのかと納得させられました。『喧嘩をしていてもリズムがあるじゃん、私たち』という芽衣子のセリフがあるんですけど、古川さんと相手役の男性を演じた中島歩さんのやりとりにも実際にリズムが感じられました。それで二人の関係の歴史もにじみ出てきた気がしました」

劇中では描かれないが、リハーサルでは芽衣子とその男性との過去のシーンもふたりに演じてもらい、「観客には見えないその関係性も含んだ芝居をしてもらっているので、そんな過去があったんだって自然に思えるんです」と濱口監督。

「あと印象的だったのは、中島さんの髪型ですね(笑)。中盤の、髪をかき乱す芝居は中島さんが自分でやったことなんですけど、最初カチっとして現れたあの男性がイライラした瞬間に髪をワサワサっとしてしまうのは、彼自身の心がすごく乱れていることも表していてすごくよかった。あれも役者さん同士の相互作用から生まれたものです。演技はずっと、見ていて楽しかったです」

役者同士の相互作業。濱口監督は第二話の特別なケースの場合で生まれたその具体的なエピソードを教えてくれた。

「第二話では人物がカメラに向かって話す正面からのショットを使っているんですけど、研究室のシーンの最後の方で教授の瀬川が向かい合って話すときに、話す瀬川とそれを聞く奈緒との間に感情の交流みたいなものが起こっている感覚があったんです。

役者さん同士の集中力が最大限に高まっていたので、今なら大丈夫だろうと思って割って入るような形でふたりの間にカメラを置きました。

そのポジションに置いたことで、そんなに大きな感情表現をしていないのに、ふたりの内側で起きている微細な変化をちゃんととらえられた。そんな実感がありましたね」

第二話の研究室のシーンは瀬川と奈緒のまさに頭脳戦。互いに、言葉巧みに仕掛け合うスリリングな心理劇になっているが、それだけに撮影に4日間も費やした。

「正確には3日と半日なんですけど、事前に本読みしかやっていないので、どう動いたらいいのか手探りのなか、1日目はすべて通してやってみました。結局1日目に撮ったものは一切使っていないですね。

それでどこが上手く行って、どこが上手くいかないのかが分かったので、2日目はそれを踏まえて、またいちばん最初から通しで撮っていって。それを繰り返すうちに演技も発展していくようなところがあったので、それを少しずつ塗り重ねていく感じでした」

現場ではほとんど指示はせず、「無責任な話ですけど、あまり考えてないし、役者さんたちにお任せなんです」と笑う。

「役者さんの間で実際に起こっていることしかカメラには写らないし、指示を出すと自分が望んでいるようなものは却って写らないと思っています。

実際、今回も渋川さんと森さんにお任せしています。ただ、何度もやりますけど。1日目はただセリフを言っているだけだったのに、だんだん、なんでこんな感じになるんだろう?って思うような“うねり”がふたりの関係性の中で生まれてきた気がしました。

そうなれば、ただただそれを撮らせてもらうということを、カメラのポジションを変えながら繰り返していたという感じです」

オーディションで俳優を選ぶ基準とは?

濱口監督と言えば、ロカルノ、ナント、シンガポールほかの国際映画祭で主要な賞を総ナメにした5時間17分の大長編『ハッピーアワー』(15)でも演技経験のない4人のヒロインに対して実践し、『ドライブ・マイ・カー』の劇中にも登場する「イタリア式本読み」(感情を入れずに話す手法)で有名。

フランスの名匠ジャン・ルノワールが使っていたこのメソッドは本作でも取り入れられたが、感情を入れずに話すその手法を繰り返しながら、監督はひとりひとりの役者の中にあるものをどのように引き出していくのだろう?

「本読みすること以上に本質的なことは、役者に安心してもらうことです。もっと言えば、芝居の基準を自分の外に設けなくてもいいんだと思ってもらうことが大事ですね。

役者さんは普段は(監督や演出家に)ジャッジされる立場なので、どうしても演出家が芝居の基準を持っていて、その基準に向かって行かなければいけないと考えがちですけど、そうではない。

あなたがセリフを言えば、それが正解なんです。それで成立するんです。そう思ってもらうようにコミュニケーションを重ねているつもりです」

オーディションで役者を選ぶときも「“この人がセリフを言ってくれるんだったら大丈夫”という覚悟をするのは、自分がある程度好きになれる人じゃないと難しい」と前置きをした上で話を進める。

「さっき話したことと近いですけど、オーディションで役者さんが質問の正解を演出家が持っていると考えて、この場の正解は何だろう?って探るようなコミュニケーションをすると、『そうじゃない』と言いたくなる。

そんなことは考えずに、普通に1対1の関係として話してもらった方がありがたいし、その方が一緒に仕事ができるかもしれないという気持ちになるんです。ただ、勿論それは難しいことなので、できる限り雰囲気を和らげたいとは思っています」

芝居の場でもそれは同じで、「自分がセリフを言えばそれだけで成立するということを信じている役者さんたちが演技をし合うと、相手に対して驚く瞬間も起こるんです」という。

「“あっ、こんな風に言うのか?”“ここでこんな行動をとるのか?”っていう驚きが双方の役者さんの中に起きて、それがだんだん渦になっていったり、相互作用みたいなものが始まっていくような気がしています。

なので、役者さんには、自分がキャスティングされたことをとにかく信じてもらいたい。あなたがそのセリフを言えば、それがOKなんです。あなたはそういう風に選ばれたんです、ということを分かってもらうようにしていますね」

その言葉に嘘がないことは、「映画を観る立場としても、その場に巻き込まれちゃっている俳優さんが素敵だなと思います」という発言が実証する。

「僕は自分をコントロールするような芝居をする俳優には正直あまり魅力を感じなくて。それより、その現場に飛び込んで、そこで起きたことに対して素直にリアクションをするような人が好きです。

そういうときはだいたい現場全体がいいんだと思いますけど、そういうふうに映っている俳優さんは魅力的に感じられます」

監督が語る、『偶然と想像』演出のこだわり

『偶然と想像』で行った、『ドライブ・マイ・カー』を視野に入れながらの実験や試み、演出上のテーマなどについても語ってもらった。

「第一話は言うまでもなく車のシーンです。夜の車のシーンをどう撮るか? 車中で会話をするシーンはどんな感じになるのか? 前に撮ったこともあるんですけど、それを改めて復習しておきたかった。

で、第二話ではいままでやったことのなかった性的な話をやっておこうと思って。肉体的な接触のある場面をどう撮るのか? そのときに、どういうコミュニケーションをするのか? ということを確認しておきたかったんです。

第三話に関しては、漠然と“演じること”について考えてみるといった意図でした」

そういう実験や試みができたのも短編集だったからだ。

「今回の三つの話はどれも他愛のない日常からインスピレーションを得た小っちゃい話です。こんな小っちゃい話は長編映画ではできない(笑)。

長編はもっと話に“うねり”がないといけないし、リアリティを緻密に構築していかなければいけないことが多いけれど、短編だったら、登場人物の関係性がピークに達したときにパッと終わって鮮烈な印象を残すことができる。

現実からちょっと浮いたような話をやりやすかったりもしますよね」

そんな短編だからできた驚きのショットが、第一話のラストシーンに早くも登場する。

「第一話はいちばん分かりやすい三角関係の話で、第二話は人間のイヤなところを描いたダークな話。

それに対して第三話は明るい話に振って、気持ちよく終われる構成です。ただ、第一話はいちばん曖昧に終わってもいい構成上の位置だったので、試してみたかった終わり方にチャレンジしてみました。

あれを長編でやるのは、やっぱり怖いわけです。ああいう終わり方をして、観客がモヤッとした気持ちで映画館を出ていかれてしまうのは。

でも今回は、あの後に第二話、第三話が続いて、観客に感情的な解決を経た上で映画館を出てもらえる流れがあったので、あれをやってみたんです」

全三話を通じて、観客が段々と“偶然”に慣れていくようなつくりにしている

それこそ、本作の主題のひとつでもある“偶然”を作劇上で自然に表現するのは至難の技だが、濱口監督は「そこに対するいちばんの工夫はタイトルにつけるっていうことですね」とさらりと言ってのける。

「“偶然”は現実に生きていれば誰でも出会うものですけど、物語の中でやると語り手の思惑が見えて、ご都合主義に思われてしまいます。

しかも、人と人の因果関係を展開していくのがストーリーテリングだとすると、その因果関係から外れたところからやってくる“偶然”は異物でしかない。

でも、タイトルに入れてしまえば、観客も“これは偶然についての話なんだ”という気持ちで接してくれる。これは今回やってみていちばん感じていることですけど、“偶然”をまず許容してくれた観客は“いやいや、そんな話ないでしょ!”という気持ちにはならずに“それで?”というスタンスになってくれた。

一度受け入れてくれさえすれば、映画と現実がより近づいてくれるし、物語世界がより広く、深くなっていくような感触を持つような気がしています」

と言うことは、第一話で観客を上手く“偶然”の世界に引き込めれば、第二話、第三話も行ける! と踏んでいたのだろうか?

「全三話を通じて、観客が段々と“偶然”に慣れていくようなつくりにしているつもりです。第一話では芽衣子だけはどこかのタイミングで気づいている“偶然”は観客が気づかないうちに起きるので、おそらくツッコミは避けられる。

最後に起こるめちゃくちゃあからさまな“偶然”は、さっきのような理由で、観客も“こういう世界なんだ”って受け入れてくれるような気がします。」

「でも、第二話の“偶然”は現実の生活ではなかなか起こらない」。そう断った上で、濱口監督は「その“偶然”のあり得なさのレベルが二話、三話になるに従って上がっていっています」と告白する。

「それこそ、第三話が描くような偶然は現実的にはまず起こらないだろうけれど、この流れだったらあるかもしれないとむしろ観客には思ってもらえるんではないかと。

そうやって、“偶然”というものを段階的に受け入れていってもらうようにしました」

前述の俳優に芝居を任せる側面はあるものの、さまざまなメソッドを使ってクリエイトする濱口監督は撮影現場をすべて完璧に自分でコントロールしながら映画を作っている印象が個人的にはある。

“偶然”は映画にとって本質

そんな彼が、自らの映画演出や映画表現における“偶然”性をどれぐらい重要視しているのか? 気になって聞いてみると「“偶然”は映画にとって本質です」という思いがけない答えが瞬時に返ってきた。

「映画撮影のひとつの本質と言うか、“偶然”をとらえない限り、カメラはいま現在をとらえているという感覚を観客に伝えないような気がします。

別の言い方をするなら、過去の映像を観て、いま、まさに何かが起こっているんだというようなことを覚える感覚は、基本的に“偶然”がとらえられているときじゃないかと思っているんです」

「本読みを何度も何度もやるのも“偶然”を準備する作業です」と主張する。

「無感情で何度も何度もやってもらって、一語一句を口を突いて出てくるようにしてもらうので、僕がコントロールしている側面は間違いなくあります。

けれど、相手役の反応を見ながら、その限定されたセリフを見聞きすると、その人自身の身体の反応みたいなものがある種の“偶然”=アクシデントとして出てくるようなことがある気がしていて。それがいま、僕が狙っているものと言うか、撮ろうとしているものです」

“偶然”をとらえたときの映像の力強さは驚きに満ちたものになる

思えば、濱口監督の東京藝術大学大学院映像研究科の修了制作でもある初期の代表作『PASSION』(18)のラストシーンでは、カメラの前を大きなトラックが横切る“偶然”が衝撃的だった。

「あれを現場で最初に見たときは“役者が轢かれちゃうじゃないか!”って思ってNGテイクかなと思ったんですけど、あとで改めて見直したら、そのトラックはただフレームに入ってきただけではなく、ふたりの人物と同期していて、大きくUターンするところが彼らの心変わりの瞬間とも重なっていた。

そういう偶然の一致が何重にもあるあのシーンは、率直に言って、あの映画の中で最も力強いものになったと思います。演出家としてはある種の敗北感もありましたけど、そのときに、まさにこれこそが“演出”なのではないか! ということを啓示のように教えられました。

“偶然”をとらえたときの記録映像の力強さは、フィクションであっても……いや、フィクションだからこそ驚きに満ちたものになるという確信を得たので、あれ以降も“偶然”を自分の演出によってコンスタントにとらえ続ける方法を探し求めながら映画を撮っています」

いずれにしても、世界的に高く評価された『ドライブ・マイ・カー』とそれと呼応するように誕生した『偶然と想像』で、濱口竜介監督の未来はさらに広がったのは間違いない。

「この2作は、自分の中では本読みを突き詰めていくという性格を持ったプロジェクトでもあって、それがひと段落したような感覚もあるんです。なので次作では、この2作でつかんだものを活かして、まったく趣の違う映画を撮れたらいいなと思っています」