「ポピュリズム」とは大衆中心の政治をいい、語源はラテン語のポプルス(=populus。人々・一般大衆)。代々木ゼミナールの人気講師・蔭山克秀氏は「ポピュリズムは、コロナ禍で多くの国民が苦しんでいるのに、国が国民の声を聞かない今のような状況で台頭しがち」だという。世界各国で生まれては消えた「ポピュリズムの歴史と、その背景」を聞いた--。
写真=iStock.com/jpa1999
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/jpa1999

■世界初のポピュリズムはアメリカの農民政党

「ポピュリズム」と聞いて、真っ先に思い浮かぶのがアメリカのドナルド・トランプ前大統領という人も多いのではないでしょうか。「メキシコとの国境に壁をつくれ!」といった扇動的な発言は、移民に仕事を奪われたプアホワイトを熱狂させました。まさに、仕事がなく苦しむ国民の声を国が聞いてこなかったことで生まれた「ポピュリズム」そのものと感じます。

コロナ禍で多くの国民が苦しんでいるのに、国が国民の声を聞かない今のような状況もまた、ポピュリズムが台頭しやすいと言えるでしょう。

もともと「ポピュリズム」という語を最初に使ったのは、1891年にアメリカで生まれた「人民党(ポピュリスト党)」という農民政党です。

当時のアメリカ社会は、産業革命のおかげでどんどん豊かになっていたのに、農民層だけが取り残され、貧困にあえいでいました。しかも当時は民主党と共和党の方向性に大きな違いがなかったため、弱者の受け皿がありませんでした。

そこで農民を支持層とする「人民党」が結党され、大統領選挙で4州・22人の選挙人を獲得するまでに勢力を拡大したのです。

最終的に人民党はなくなりますが(危機感を抱いた民主党・共和党の党改革が進み、民主党が弱者の受け皿になった)、こういう「忘れられたアメリカ人の受け皿」という流れは、現在トランプ氏を支持するプアホワイトと同じ構図であることがわかります。

■古代ギリシャ・アテネの衆愚政治

古代ギリシャの都市国家アテネでは、紀元前5世紀頃から民主政が始まりました。それも市民が全員参加する直接民主制で、最高権力者である執政官(アルコン)も、貴族からの選出ではなく、平民からくじ引きで選ぶようになりました。

この基礎をつくりあげたのが、ペリクレスです。彼は「われらの政体は、少数者の独占を排し多数者の公平を守る民主政治」と宣言し、民衆を正しい方向へ導くよう指導しました。しかし、ペリクレス亡き後のアテネには、自らの野心のために大衆を利用しようとしたクレオンらの扇動政治家(デマゴーゴス)が登場し、政治的判断力が不十分な大衆を詭弁(きべん)によって誤った方向に誘導し、アテネをペロポネソス戦争敗北へと導いてしまいました。こういう流れを受けて、哲学者プラトンは民主政を“衆愚政治”と批判したのです。

写真=iStock.com/araelf
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/araelf

ちなみにプラトンは主著『国家』で、「大衆が過度に自由を求めたとき、民主政は独裁者を生む」と指摘しています。確かに自由を求めすぎる民衆にとって、抑制の利いた政治などただのストレス。ならば選挙の際、自分たちと同じニオイのするリーダーを選べば、彼が分別ある人々を制圧して大衆に「我慢のいらない自由」を供給してくれるわけです。私はパッとトランプ氏の顔が浮かびました。大衆に我慢を求めないリーダーは、要注意ですね。

■ナチスのポピュリズムを効果的にしたものとは?

ポピュリズムの歴史を見るうえで絶対はずせない人物が、アドルフ・ヒトラーです。

ヒトラーといえば「ドイツ国民を全体主義で抑圧した独裁者」というイメージで、大衆から熱烈に支持されるポピュリストとは無縁に思われがちですが、違います。彼はドイツ国民が、選挙という民主的な手段で、自ら選んだ独裁者です。

民主主義は「多数決による合意」を基本とするため、リーダーシップが不在になりがちですが、有事に強いリーダーがいなかったドイツでは、それが短所として露呈し、大衆に「民主主義への幻滅」を強く与えてしまいました。そこで大衆が、有事に自分たちを導いてくれる強いリーダーを求めた結果、ヒトラーという独裁者を誕生させてしまったのです。

当時、ナチス党は小政党としてくすぶっていましたが、1929年の世界恐慌を境に、ヒトラーがさまざまなメディアを通じて、既存政党を悪と断じて激しく批判すると同時に、国民に「強いドイツをよみがえらせてくれるのは、民主主義か強いリーダーか?」と選択を迫った結果、1932年の選挙で勝利し、与党の座を勝ち取ることができたのです。

ヒトラーのカリスマ性を前提としたナチスのポピュリズムを、より効果的に演出したものは「宣伝」でした。ナチス政権は1933年に「宣伝省」をつくり、ヨーゼフ・ゲッベルスを宣伝大臣として国民啓蒙・国威高揚・敵の排除などのための宣伝を積極的に行いましたが、そこではラジオが大きな役割を果たしました。

ヒトラーの演説は弁舌巧みなうえ、内容も、単純明快・敵味方の断定・わかりやすい解決方法・選択を迫る口調などで磨き抜かれた見事なものだっただけに、活字よりも肉声のほうが、はるかに大衆扇動効果が高かったのです。

ですから宣伝省はラジオの普及に力を入れ、1940年には、ほぼ全家庭に国民ラジオ(海外放送は受信不可)が行き渡るまでになっていました。

しかし、こうしてヒトラーの演説に扇動されたドイツは、この後全体主義へと進んでいきます。ナチスが国家の維持の妨げになるものを徹底的に排除した結果、ユダヤ人、共産主義者、同性愛者、障害者などは、さまざまな理由で弾圧されました。

また、そのための組織も整備され、ヒトラーや党幹部の特別護衛組織が「親衛隊(SS)」、ナチス党の民兵組織が「突撃隊」、従来までの警察組織は「秘密警察(ゲシュタポ)」に再編成され、ドイツは危険な方向に流れていくことになったのです。

■アメリカの「赤狩り」と毛沢東の「文化大革命」

ポピュリズムの多くは、カリスマ的なリーダーの出現が契機になっていますが、別の形もあります。「同調圧力」です。これは、社会にうずまく不安や不満、憎悪などをたたく大衆運動がエスカレートした結果、「さすがにやりすぎだ」と皆が気づいたときには、誰もそれを言い出せなくなる形。いわば「魔女狩り」のような雰囲気です。

冷戦期には、これに近い形が、東西両陣営で起こりました。アメリカの「赤狩り」と中国の「文化大革命」です。

赤狩りとは、冷戦初期に起こったアメリカの共産主義者狩り。冷戦対立が深刻化する1950年前後、ハリー・トルーマン大統領が共産主義への不安と憎悪をあおり、ジョセフ・マッカーシー上院議員がそれを誇大に強調することで、国民の支持を集めました。

下院議会には、赤狩りの調査機関として非米活動委員会が設けられました。そして、この委員会が国務省の職員や社会主義国の専門家、大学教授、労働組合員などを、そのほとんどが無実であったにもかかわらず、徹底的に糾弾し、公職追放や非共産主義者宣言に追い込みました。この運動は1954年まで続きましたが、その間アメリカ社会は、大衆も政治家も知識人も、保身のために反共的な発言しかできなくなり、人々は同調圧力に苦しめられました。

写真=iStock.com/Jorisvo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Jorisvo

文化大革命は1966年、毛沢東時代の中国で、毛自身が扇動して巻き起こした大規模な大衆運動です。建前上は「破旧立新(古きを捨てて新しきを打ち立てる)」のための革命でしたが、実際は国家主席の座に就いた劉少奇(りゅう しょうき)とその一派を「走資派(社会主義を見限り、資本主義に走る一派)」とし、打倒するための権力闘争でした。

そこで毛は若者を利用しました。「紅衛兵(こうえいへい)」です。紅衛兵は社会主義を守るための青少年組織で、毛は元々エリートに反感のあった庶民の子らを紅衛兵に選び、自らの政敵を一掃するための暴力装置に仕立てあげたのです。

かくして「造反有理(反逆には道理がある)」のスローガンを掲げた紅衛兵たちは暴れ回り、劉少奇一派だけでなく、少しでも毛の価値観から外れた者には、容赦なく暴力を振るいました。その暴力は毛から「革命」として肯定されているため、歯止めがききません。大衆は明らかにおかしいと気づきながらも、暴力的な紅衛兵に逆らうすべもなく、同調して彼らに加担する以外ありませんでした。

最終的に内部統制がきかなくなった紅衛兵たちは、毛からも疎まれ、「下放」の名の下に農村労働へ追放されましたが、彼らから始まった中国の大混乱は、毛が亡くなる1976年まで収まることはありませんでした。

一度ポピュリズムの火がついてしまった社会は、その混乱が収まるまでに多大な時間と犠牲を要します。結局、指導者選びと同調圧力には、細心の注意が必要なのです。

----------
蔭山 克秀(かげやま・かつひで)
代々木ゼミナール公民科講師
「現代社会」「政治・経済」「倫理」を指導。3科目のすべての授業が「代ゼミサテライン(衛星放送授業)」として全国に配信。日常生活にまで落とし込んだ解説のおもしろさで人気。『経済学の名著50冊が1冊でざっと学べる』(KADOKAWA)など著書多数。
----------

(代々木ゼミナール公民科講師 蔭山 克秀)