武士の誠を見届けよ!幕末「神戸事件」の責任を一人で背負い切腹した滝善三郎のエピソード【上】

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外国の方に、日本から連想されるものを尋ねると、少なからず答えが返ってくる「HARAKIRI」こと切腹(せっぷく)。

ただ自殺するのであれば首を吊るなり、こめかみを銃で撃ち抜くなりすれば手っ取り早いのに、何故わざわざ自分で腹を切り裂いて何時間ももだえ苦しむのか、理解に苦しむ方も少なくありません。

実際には介錯人が首を落としてくれるため、そこまで苦しみ続ける例はまれですが、それでも自分の腹に白刃を突き立てるなど、並大抵の覚悟では出来ないものです。

「あの…切腹って、どうやるんですか?」

現代の私たちがそうであるように、当時の武士たちもやはりそうであったようで、戦国乱世も遠く過ぎ去った江戸時代、徳川の世が下るにつれて「やっぱり切腹なんて怖いよね」と思ったのか、切腹の作法も次第に簡略化されていきました。

もちろん死刑なので最終的に死なねばならないことだけは流石に簡略化できませんが、せめて少しでも痛くないよう、短刀を腹に当てた瞬間に介錯人が首を落とすとか、中には「短刀も怖いから、扇子(※)でいい?」という事例もあったと言います。

(※)扇子は「短刀を持たせると切腹どころか、こちらに斬りかかって来かねない」危険人物の場合にも用いられました。

しかし、それでは死をもって我が赤誠(せきせい。真っ赤な誠意、ここでは血みどろの内臓)を示せぬではないか!という古風な武士も少なからずおり、彼らの美学が外国人たちにトラウマを植えつけることになるのです。

「拙者が手本を見せてやる!」

今回は幕末、「神戸事件」の責任を一身に引き受け、古式ゆかしく見事な切腹を仕遂げた滝善三郎(たき ぜんざぶろう)のエピソードを紹介したいと思います。

文武両道の秀才、仕事も家庭も順調だったが……

滝善三郎は江戸時代後期の天保8年(1837年)8月21日、岡山藩の砲術師範を務める滝助六郎正臣(すけろくろう まさおみ)の次男として津高郡金川村(現:岡山県岡山市)に生まれました。

幼くして父を亡くし、兄・滝源六郎(げんろくろう)や村の神官たちから教育を受け、一刀流剣術や萩野流砲術、槍術などを修めた一方、漢籍や国風(くにぶり。和歌をはじめ日本文化)にも嗜みの深い文武両道の士に成長します。

嘉永6年(1853年)に17歳で元服して正信(まさのぶ)と改名、岡山藩家老・日置帯刀(へき たてわき。忠尚)の小姓に取り立てられました。

「さっそくじゃが、上洛して広く世を見聞し、また修行を積んで参れ」

「ははあ」

兄と共に研鑽を重ねた善三郎(イメージ)

かくして兄と共に京都へ上り、10年ほど文武の修行に励んだ善三郎でしたが、母の病気をキッカケに帰郷。尾瀬家より妻を迎え、長男の滝成太郎(しげたろう)と長女のいわを授かります。

「世継ぎも生まれて我が家も安泰。ますます忠勤に励まねばのぅ」

仕事は順調、家庭も円満。まさに幸せの絶頂にあった滝家を、幕末の風雲が吹き荒れようとしていたのでした。

無礼なフランス水兵を咎め、銃撃戦に発展

後世に言う「神戸事件」が起こったのは慶応4年(1868年)1月11日。

徳川幕府(※大政奉還しているため、厳密には旧幕府軍)を討伐する戊辰戦争(ぼしんせんそう)の勃発直後、新政府軍は敵方を牽制するべく、岡山藩に対して摂津国西宮(現:兵庫県西宮市)の警備を命じます。

さっそく岡山藩は兵2,000を進め、善三郎も源六郎と共に主君・日置帯刀の率いる大砲部隊に所属していました。

事件は岡山藩兵の隊列が神戸三宮神社(現:神戸市中央区)に差し掛かった時、2名のフランス水兵が前を横切ろうとしたことがキッカケで発生。

これは供割(ともわり)と言って非常に無礼な行為であり、武士たちとしては絶対に許しがたい暴挙と言えます。

「この、無礼者!下がれ、下がれ!」

「Rejeter!(どけ)Passer vite!(早く通せ)」

フランス水兵(事件とは無関係)、Wikipediaより

お互いに言葉が通じず、また一歩も譲らなかった(※)ことから口論はエスカレート、あまりの無礼に憤った善三郎は、手にしていた槍で水兵を突いてしまいます。

(※)読者の中には「岡山藩側も譲ればよかったのに」と思われる方もいるでしょうが、古今東西、軍隊というものは国家の威信≒存続を賭けた存在であり、それに対する侮りを容認するということが、国家や国民を危険に晒すことになってしまうのです。

(※)そもそも、いくら言葉が通じないとは言っても他国の明らかに武装した軍隊が行進している前を横切ろうとするのは、その国に対する侮辱であり、現代であっても逮捕・拘束されても文句の言えない事案となりかねません。

(これを大袈裟だと思うなら、試しにどこか外国へ遊びに行って、軍隊の一分隊でも行進している前をわざと横切ってご覧なさい。日本の自衛隊とは全然違った対応を見ることになるでしょう)

「Je vais tuer ce salaud!(この野郎、殺してやる)」

フランス水兵らは接収していた民家へ逃げ込んで拳銃を取り出したため、善三郎が「鉄砲!鉄砲!」と警戒を促したところ、これを「発砲(撃て)!」と勘違いした者たちが、上空に向かって威嚇射撃(※)を実施。

岡山藩士らによる威嚇射撃(イメージ)

(※)威嚇射撃と見たか、殺意をもった危害射撃と見たかは、欧米人の証言者によって見解が異なります。

これが近くに公用で来ていた欧米諸国公使らに銃口を向けることになり、アメリカ海兵隊やイギリス警備隊などを巻き込んだ銃撃戦に発展してしまいます。

死者はなく、負傷者も数名ですんだのは不幸中の幸いでしたが、騒ぎがこれで済むはずはありませんでした。

【下編に続く……】

※参考文献:
アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新 下』岩波文庫、2021年4月
A.B.ミットフォード『英国外交官の見た幕末維新−リーズデイル卿回想録』講談社学術文庫、1998年10月
NHK編『NHK歴史への招待 第20巻 黒船襲来』日本放送出版協会、1989年5月
矢野恒男『維新外交秘録 神戸事件』フォーラム・A、2007年12月