富士通は1981年5月20日、同社初のパーソナルコンピュータ「FM-8」を発売。2021年5月20日で40年の節目を迎えた。FM-8以来、富士通のパソコンは常に最先端の技術を採用し続け、日本のユーザーに寄り添った製品を投入してきた。この連載では、日本のパソコン産業を支え、パソコン市場をリードしてきた富士通パソコンの40年間を振り返る。掲載済みの記事にも新たなエピソードなどを追加し、ユニークな製品にフォーカスしたスピンオフ記事も掲載していく予定だ。その点も含めてご期待いただきたい。

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富士通が手がけてきたデスクトップパソコンの歴史は、第1号のFM-8や、そこから進化を遂げたFM-7・FM77、そしてマルチメディア時代をリードしたFM TOWNSに象徴されるように、AV機能やマルチメディア機能の追求が進化の中心にあった。一方でノートパソコンでは、小型化・薄型化・軽量化へ対する挑戦の連続であったといえよう。挑戦の歴史と成果は、いまもその座を譲っていない世界最軽量ノートパソコンの誕生につながっている(「LIFEBOOK UH-X」、2021年8月現在、13.3型ノートパソコンとして。富士通クライアントコンピューティング調べ)。

自らもFMV-BIBLOをはじめとするノートパソコンの開発に携わってきた富士通クライアントコンピューティング(FCCL)の齋藤邦彰会長は、「先輩たちが開発してきた製品を超えることが、後輩に課せられた課題。そのハードルの高さは並大抵のものではなかった。しかし、その繰り返しが、いまのFMVのノートパソコンにつながっている」と語る。

富士通クライアントコンピューティング(FCCL)の齋藤邦彰会長

小型・薄型・軽量のノートパソコンで「祖」ともいえるのが、1985年4月16日に発表したFM16πだ。

1985年4月16日発表のFM16π

1984年9月に開催されたデータショウ'84に、「ヘレン」のコードネームで参考展示したFM16πは、発売前から注目を集めた。開発コンセプトは「デスクトップ型高性能パソコンに匹敵する機能を持ち、一人一台の強力なパートナーとして活用できるパーソナルユースのポータブルパソコン」という位置づけ。FM16πは本連載の第5回でも紹介している。

FM16πに続いたのは、1990年10月18日に発表したFMR-CARDだ。A4サイズの本体に、1kgを切る990gという軽量化と、厚さ26.5mmの薄型化を達成。CPUにはIntelのi80C286(8/4MHz)、メインメモリは1MB、2階調の反射型モノクロLCDを搭載していた。OS環境としては、MS-DOS ROMバージョン3.22の採用によって、ROM化による高速な起動を実現。しかも、単3形アルカリ乾電池×2本だけで、8時間以上も連続駆動した。価格は23万8,000円(税別)だ。

軽量化や薄型化においては、従来比で約2分の1となる薄肉厚のモールド金型設計、および形成技術を取り入れた。エンジニアリングプラスチックと呼ぶ新たな素材や、高度な実装技術とされたTAB(Tape Automated Bounding)をLSIに用いることによって、メインボードは従来比で約3分の1という超薄型化に成功。加えて、厚さ10mmという薄型キーボードや、従来比で約2分の1となる超軽量薄型LCDにも取り組んだ。



FMR-CARDは重さ990gという軽量化だけでなく、単3形アルカリ乾電池×2本で8時間以上も連続駆動

乾電池2本で駆動する省電力設計では、低電圧3V駆動の素子と本体BIOSによって、3Vと5Vのシステム自動切替を実装。そのほか、「CPUの自動停止および自動パワーオフという2段階の制御」、「一定時間のキーボード入力がないとスタンバイモードに移行し、キー入力が開始されると即時に動作モードになる電力管理システム」、「本格的レジューム機能」、「低電力LCD」といった技術を盛り込んだ。このときFMR-CARDでは、省電力制御方式や軽量構造関連など、25件の特許を出願したという。

3.5型FDD(フロッピーディスクドライブ)は外付けオプションとし、記憶媒体にはFDDの約1,000分の1という低消費電力と100倍のアクセススビードのICメモリーカードを標準採用。また、日本語ワープロ「FM-OASYS」、表計算ソフト「Lotus1-2-3」、統合ソフト「Microsoft Works」など、30種類のアプリケーションをICメモリーカードで提供したほか、重さ100gのFMR-CARD専用モデムを用意し、出先からパソコン通信を利用できるようにした。

FMR-CARDでは、FMRシリーズ向けに開発された約1,000種類のアプリケーションが利用できたほか、サードパーティーが開発したソフトウェアを活用して、NECのPC-9800シリーズと結び付けてデータ連携するという意欲的な活用提案も行われた。富士通が小型軽量パソコンの先進企業であることを決定づけた1台だったといえる。

こうしたエポックメイキングな製品とは別に、富士通がノートパソコンの小型化を追求した歴史において、見逃せない動きがある。米Poqet Computerへの出資、買収だ。

○米Poqet Computerと富士通

米Poqet Computerは、半導体メーカーである米Texas Instruments(TI)をスピンアウトした技術者たちが、米国で設立したスタートアップ企業。独自の省電力技術を持ち、それまでにはない小型パソコンの開発と製造で注目を集めた。

米Poqet Computerの「Poqet PC」

同社が1989年9月に発売したPoqet PCは、22.3×10.9×2.5cmというサイズの本体に、640×200ピクセルの液晶ディスプレイを搭載。重さはわずか1ポンド(約450g)。CPUはIntelのi80C88(7MHz)で、640KBのメモリ、MS-DOS 3.3およびGWBASIC in ROMを採用。単3形アルカリ乾電池×2本で100時間の連続稼働を可能としていた。当時の価格は2,000ドル。

小型・軽量・長時間駆動を実現したPoqet PCは、発表直後からパソコン専門誌だけでなく、ウォールストリートジャーナルをはじめとする米国内の約50紙で記事が掲載されるなど、大きな話題を集めてデビュー。米PC Magazineのテクニカルエクセレンスアワードを受賞するなど、米国内では高い評価を得ていた。

では富士通がなぜ、米Poqet Computerに出資したのだろうか。それは偶然が重なり合った結果だったといっていい。



Poqet PCの実物大カタログ

富士通は1981年12月に、世界第2位のコンピュータメーカー(当時)であった英ICLと電子計算機の技術援助で提携。1990年11月には、英ICLに80%を出資し、子会社化している。富士通が技術提携を行ったとき、英ICLのトップに就任したのがロブ・ウィルモット氏だ。ウィルモット氏は、米TIの英国法人でトップを務めており、そこからの転身だった。

ウィルモット氏は英ICLのトップを退任後、米Poqet Computerの会長に就任している。先に触れたように、Poqet Computerの創立メンバーは米TIの出身者たち。そうした経緯でウィルモット氏が会長に招かれたようだ。

設立当初のPoqet Computerは、開発資金の調達に苦労していた。技術力があっても、それを世の中に送り出すための「体力」が整っていなかったのだ。そこでウィルモット氏が頼ったのが富士通だった。1988年に出資の検討を開始した時点の富士通社長は山本卓眞氏。ICLとの提携、買収を推進したのは山本氏の決断であり、ウィルモット氏とも旧知の仲だった。









Poqet PCのカタログから

Poqet Computerへの出資は富士通にとって、Poqet Computerの省電力技術と小型化技術をパソコン事業に生かせるほか、米国市場でのパソコンビジネス拡大に向けた足がかりになると判断。1989年7月に、38%の資本参加を行うことになったのだ。そこからわずか2カ月後の1989年9月に、いよいよPoqet PCが米国市場で発売となったのである。

このとき、Poqet Computerに深く関与したのが、杉田忠靖氏(のちに富士通副社長)だった。杉田氏は1988年に渡米し、初めてPoqet Computerを視察。出資を検討するための資料をそろえ、出資直前のタイミングで富士通の社長に就任した関澤義氏(当時は専務取締役)に報告した。

「省電力技術に優れていた企業、スタートアップ企業への出資であり、金額規模もそれほど大きくはない。出資すべきと報告した」と、杉田氏は当時を振り返る。だが、Poqet PCは技術の高さや先進性には高い評価が集まったものの、残念ながら販売は苦戦した。

Poqet PCについて「メディアで高い評価を受けた製品は売れない――ということを証明した製品のひとつ」と、杉田氏は苦笑いする(2021年6月撮影)

Poqet Computerが狙ったのは、個人の生産性を高めるツールとして、オフィスで働く人たちが持ち運んで利用するという提案だった。いまとなっては王道ともいえる製品コンセプトと市場ターゲットだが、当時、企業が導入していたパソコンの主流はデスクトップ。「あまりにもリーディングエッジすぎて、企業が導入を見送った」(杉田氏)という状況が生まれていたのだ。

また、標準的なIBM・PC/AT互換ではなくPC/XT互換であったこと、主力となる企業向け販路を確立できていなかったこと、タッチタイピングを行う米国人にとって小型化されたキーボード(キーピッチ)では使いにくかった点もマイナスに働いた。

640×200ピクセルのディスプレイ。PC/XT互換の小型コンピュータとしては、米ヒューレット・パッカードのHP200LXが有志によって日本語化され、日本で大ヒットした

米国人の手にはなじまなかったキーボード

それまではスタートアップ企業の特性を最大限に生かすため、Poqet Computerの経営には直接関与してこなかった富士通だったが、そうもいかなくなった。Poqet Computerは開発者を含めて240人体制と規模が拡大し、欧州にも販売拠点を展開するなど、固定費がかさんで経営体質が悪化。改めて富士通に追加出資の要請があったことで、1991年、杉田氏がPoqet Computerにバイスプレジデントとして出向した。1992年5月には、富士通の米国販売会社である米FUJITSU Personal Systems, Inc.(FPSI)がPoqet Computerを完全子会社化。杉田氏がCEOとして、経営の舵取りを担うことになったのだ。

杉田氏はここで大胆な経営改革を実行。1つは、市場ターゲットをオフィスワーカーからフィールドワーカーへと変更した。倉庫における在庫管理や、保険の営業担当者、自動車工場のデータ入力用途など、現場での利用提案を中心とし、あわせて米国内のVAR(Value Added Reseller)やSIer(Systems Integrator)を開拓してアプリケーションの開発を促進していった。

2つめは、自前で持っていた設計・製造体制を富士通に移管。大規模な人員整理を実施し、約240人の社員のうち約180人が退職した。合わせて約40人を新たに雇用、約100人の体制で再スタートした。

そして3つめは、ペンコンピュータの領域にも力を注いだこと。当時の米国では、Go Corporationがペンコンピュータを発売し、ビジネスを成功させていた。オフィスワーカーからフィールドワーカーへとターゲットを変更したPoqet Computerにとって、ペンコンピュータはまさにターゲットが重なる市場だったといえる。1991年には、富士通初のスレート型タブレットPCとして「Poqet Pad」を投入。その後も進化を遂げていった。

結果的にPoqet Computerの社名やPoqet PCのブランドはなくなったが、経営体質は大きく改善。赤字額は年々縮小し、1995年には黒字転換を果たすことができたという。

「富士通の開発チームは、リソースを増やすことなく、米国からの開発要求に応え、優れた製品を開発してくれた。米国向けにStylistic(スタイリスティック)ブランドで展開したペンコンピュータは、米国市場において50%のシェアを獲得するほどの成功を収めた」(杉田氏)

1994年には、富士通初のWindows OSを搭載したスレート型タブレットPC「STYLISTIC 500」を発売。1995年6月にカナダ・ハリファックスで開催されたG7サミットでは、米国企業を代表する最先端製品のひとつとして、FPSIのペンコンピュータが世界各国の首脳に紹介された。会議の場でも、無線を通じて首脳と担当者が無線でつなぎながら利用した。

1997年12月には、スペースシャトル・コロンビア号がFPSIのペンコンピュータを採用。打ち上げ時や大気圏再突入時の大きな加速度と振動に耐えたり、ヘルメットと手袋をしたまま飛行士が操作できたりといった点が評価されたという。

左上がPoqet Pad、右上がstylistic-500、中央下はスペースシャトル・コロンビア号に採用されたペンコンピュータで、日本でも「FM PenNote」として販売

Poqet ComputerのPoqet PCやPoqet Pad、そしてPoqet ComputerをルーツとするFPSIによるStylisticシリーズの投入は、その後における富士通パソコンの小型化・軽量化とともに、ペン入力とタッチ入力の技術進化にも影響を及ぼした。先に紹介したFMR-CARDは、単3形アルカリ乾電池×2本で動くが、これもPoqet PCで実現していたものだ。また、小型軽量のワープロ専用機として人気を博したOASYSポケットは、筐体設計でPoqet PCのノウハウを活用している。

「富士通は1993年に発売したFMVシリーズによって、日本においてPC/AT互換機市場に参入することになったが、他社と同じアーキテクチャーで戦う上では、価格競争力のほかに富士通ならではのプラスαが必要になった。そこに、Poqet PCで培った低消費電力技術や軽量化、ワイヤレス通信技術を生かすことができた。Poqet Computerの技術によって、低消費電力化や小型化の技術が前進したことは確かだ。投資した成果があった。Poqet Computerの数々の挑戦は無駄にはなっていない」(杉田氏)

一方で杉田氏は、「Poqet PCは、当時としては画期的な技術であり、まさに技術的な先駆者だった。だが、市場ニーズや市場の成熟度など、技術以外の要素もマッチしないとビジネスが成功しないということも学んだ」と振り返る。

米国でPoqet PCが発売されていたころ、日本ではDOS/V普及前夜ということもあり、日本語対応に課題があったPoqet PCがそのまま日本に投入されることはなかった。これはある意味、先行する技術と日本市場の成熟度とのバランスを見て、市場投入を見送った適切な判断だった。

だが仮に、技術とニーズ、成熟度が合致し、小型軽量デバイスのファンが多い日本のパソコン市場に、日本語対応されたPoqet PCが登場していたら――。日本における小型パソコンの歴史は大きく変化していたかもしれない。ひとつ確かな成果は、Poqet Computerの経験が、富士通パソコンの小型化と軽量化につながっているという点である。