レンガアーチの上を走る京浜東北線。開業時から高架下に出入り口が設けられていた有楽町駅の構造は、110年を経ても変わっていない(筆者撮影)

東京駅は帝都の玄関口としての役割を託されて1914年に、新橋駅は日本で初めて鉄道が開通した際に東京側のターミナルとして1872年に開業した。当時の新橋駅は旧汐留駅だが、歴史ある駅名を継承したこともあり、その存在感は大きい。

一方、両駅の間にある有楽町駅はJRと東京メトロを合わせて1日の利用者が25万人を超えるにもかかわらず、東京駅と新橋駅に挟まれているという地理的な要因や、近隣に地下鉄の銀座駅があるといった点からあまり目立った扱われ方をしていない。

しかし、有楽町という街の存在なくして明治以降の日本の近代化を語ることはできない。なぜなら、政府が推進する近代化政策を如実に反映したのが有楽町駅とその周辺だったからだ。

「文明開化」をリードした有楽町

開国後の日本は西洋列強に肩を並べることをスローガンに掲げ、近代化を目指した。明治期における近代化とは、直截的に表現すれば西洋化ということでもある。


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有楽町駅の開業前、駅東側に広がる銀座は日本屈指の繁華街となっていた。銀座が日本を代表する繁華街へと成長していくきっかけになったのは、1872年に起きた銀座大火だった。灰燼に帰した銀座の再建は井上馨が主導。井上の下には今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公である渋沢栄一、後に山形県令として擬洋風建築を建てまくった三島通庸、東京府知事の由利公正などが結集する。

井上はレンガを基調とした西洋風の家屋へと建て替える再建方針を打ち出す。華やかなレンガ造建築にすることで、銀座を歩く外国人たちにも大きなインパクトを与える。そんな思惑から、銀座には赤レンガ建築が溢れた。

西洋風の街並みは銀座煉瓦街と呼ばれ、日本の流行をリードしていく。井上は銀座煉瓦街で手応えをつかみ、1883年に現在の有楽町駅を挟んで銀座と反対側にあたる場所に鹿鳴館を竣工させた。

当時の日本は江戸時代に締結した不平等条約が重荷になり、条約改正が急務になっていた。西洋諸国に条約改正を迫るには、日本が文化的に進んだ国であることを示さなければならず、そのバロメーターは国家の人権意識と上流階級のふるまいの2つだった。井上は上流階級のふるまいを体得させる手段として、西洋の社交界では必須のたしなみになっていたダンスに着目。鹿鳴館では連日にわたってダンスパーティーを開催した。


本館の建て替えが発表された帝国ホテル。その背後には、日比谷再開発の目玉ともいえる東京ミッドタウン日比谷が立つ(筆者撮影)

井上の取り組んだ政策は欧化政策と呼ばれ、庶民からは欧米諸国の文化を妄信していると不評を買った。井上は条約改正に失敗して失脚するが、その思想は渋沢をはじめとする民間の実業家たちに受け継がれていく。その象徴とも言えるのが、1890年に鹿鳴館の隣地に開業した帝国ホテルだ。

さらに、「喜賓会」が1893年に事務局を置く。その主たる業務は訪日外国人観光客の誘致や宿泊・交通の手配のほか、本来なら外務省や宮内省(現・宮内庁)が担う国際親善という側面も併せ持っていた。

そして、1911年には帝国劇場が開場。帝国ホテルと帝国劇場は、華奢という批判から潰えた鹿鳴館に代わる国賓をもてなす場として期待された。その至近につくられた有楽町駅は、文明開化の大役を託された地の最寄り駅といえる。

駅の開業自体は遅かった

しかし、有楽町駅の開業は1910年だ。日本初の鉄道として開業した新橋駅―横浜(現・桜木町)駅は、開業を急ぐあまり用地買収の手間を省くことを優先し、線路は海沿いに建設された。このため旧・新橋駅は市街地から離れた場所に開業し、使い勝手がいいとは言えなかった。もちろん有楽町駅も存在しなかった。

交通の便を改善するべく、品川駅から線路を分岐させて上野駅へと結ぶ鉄道構想が浮上する。同計画を立案したのは、ドイツから来日したお雇い外国人のヘルマン・ルムシュッテルだった。

1887年に来日したルムシュッテルは、九州鉄道(現・JR九州)で技術指導に携わり、その後に東京市区改正にも深く関与する。東京市区改正とは、江戸時代から残っている古い街並みを改造する政策で、現代風に言い換えれば大規模再開発計画ということになる。この頃、帝都にふさわしい都市を築くための議論が盛んになっており、東京市区改正の議論をリードしたのは内務省だった。

内務省は地方行政をはじめ警察・土木・衛生・勧業・国家神道という幅広い分野を所管する巨大官庁。ゆえに、東京の都市改造でもある市区改正を議論することは理解できる。他方、外務省も東京のまちづくり計画を進めていた。

諸外国との交渉を受け持つ官庁である外務省が、東京のまちづくりに口を出そうとしていたのはなぜなのか。

初代総理大臣の伊藤博文は井上馨を外務大臣に起用したが、内閣直属の臨時建築局という特命部署を立ち上げて井上を総裁に任じた。井上は鹿鳴館外交や汚職事件もたびたび取り沙汰され、一般的な評判は悪い。


銀座煉瓦街の記念碑。長らく煉瓦街の遺構は残存していないとされたが、飲食店がリニューアルする際の工事で当時のレンガが発見され、街の一画に建立された(筆者撮影)

しかし、銀座煉瓦街を見事に成功させた実績からもわかるように、明治新政府内では都市計画の第一人者でもあった。それだけに東京のまちづくりを内務省に任せておけないという自負があったのかもしれない。いわば、井上はダーティーヒーローともいえる存在だった。

井上は、それまで各地に散らばっていた省庁の庁舎を日比谷周辺へ集めることを企図した。官庁があちこちに点在していると連絡や調整で支障をきたすが、集中して立地していれば事務や連絡はスムーズになる。強引ともいえる井上のまちづくり構想は、日比谷官庁集中計画と呼ばれた。

「日比谷集中計画」に有楽町駅はなかった

なぜ、井上は官庁を日比谷へ集中させようとしたのか、現在も確固たる理由はわかっていない。

それでも井上の描いた官庁計画の図面を眺めると、その思想の断片は読み取れる。大政奉還の翌年に発足した東京府は、元大和郡山藩柳沢家の上屋敷を府庁舎として使用していた。現住所なら千代田区内幸町一丁目2番地にあたる。つまり、日比谷だ。井上は東京府庁舎があり鹿鳴館をつくった地に、政府機関を集めようとしていたことになる。

東京府庁舎は1894年にのちの有楽町駅の北隣に移転。1997年に現在地の西新宿へと再移転するまで、都政の中心地は有楽町であり続けた。

井上は日比谷官庁集中計画でも、銀座煉瓦街と同じように庁舎をレンガ造にする青写真を描いた。残念ながら法務省以外は赤レンガ造の庁舎は実現していない。つまり、井上の官庁集中計画は未完に終わったということになる。

井上が建築物の配置や外観に大きなこだわりを持っていたことは間違いない。そして、日比谷官庁集中計画が描かれた計画図を仔細に眺めると、そのこだわりは道路や鉄道にまで及んでいることがわかる。現在とは微妙に位置が異なるものの、後の東京駅となる中央駅がきちんと描き込まれていた。

しかし、その計画図に有楽町駅は描かれていない。

当時の東京は、北へと向かうターミナルに上野駅、西へと向かうターミナルとして新橋(後の汐留)駅といった具合にターミナル駅が行き先別に分散していた。先述したルムシュッテルの構想は、まさに井上と同じ考え方。つまり、井上が率いる外務省も、そして内務省も品川駅―上野駅間の鉄道空白地帯に線路を建設する重要性をはっきりと認識していた。

品川駅―上野駅間を結ぶ計画には、途中駅として中央停車場(のちの東京駅)を開設することが含まれていた。だが、品川駅―中央停車場―上野駅だけでは駅間が長すぎる。品川駅―東京駅間には新たに浜松町駅・烏森駅(のちの新橋駅)・有楽町駅の3駅を設置する計画が立てられた。

現在なら気にならないが、蒸気機関車の時代、この区間に3駅もあるのは逆に駅間が詰まりすぎている。そのため、3駅のうち浜松町駅と有楽町駅は「電車線」の駅とされた。

現在、東京駅発の列車はほとんどが電車になっているのでわかりづらいが、かつて鉄道は長距離が汽車、近距離は電車と役割を分担していた。当時はまだ電車の黎明期だったが、汽車である東海道本線は有楽町駅・浜松町駅には停車しないということが最初から決まっていた。

最新式の「京浜電車」が発着

ルムシュッテルは1894年に帰国してしまうが、同じくドイツから来日していたフランツ・バルツァーが計画を引き継ぐ。バルツァーは品川駅―上野駅を鉄製の高架鉄道で結ぼうと考えていたが、政府は赤レンガ造のアーチ橋で建設する方針を譲らなかった。


有楽町駅周辺のレンガ造の高架橋(写真:ISSA /PIXTA)

鉄製の高架橋は輸入するしか術がないが、レンガ造なら国産で賄える。工費・工期の両面が考慮されて、レンガ造で建設されたようだ。奇しくもレンガ造で建設したことにより、有楽町駅周辺は西洋の趣を濃くした。

こうした紆余曲折を経て、1910年に有楽町駅は開業した。前年には、後の山手線となる品川駅―新宿駅―田端駅―上野駅間の電車が走り始めており、この電車が延伸して開業した。

1914年に東京駅が開業すると同時に、京浜電車(現・京浜東北線)が東京駅―横浜(現・桜木町)駅間で運行を開始。京浜電車は当時としては長距離の電車運転だった。

特筆すべき点は、山手線を参考に2両以上の連結運転を前提としたところにある。しかも京浜電車は架線の電圧を直流600Vから1200Vへと高めて高速化を実現。さらに、集電装置にパンダグラフを初採用するなど近代化も目覚ましかった。また、輸送力を増やすべく、山手線より大きな車両を導入。京浜電車は新技術を詰め込んだ夢のような高性能電車だった。

こうして日本の近代化を牽引してきた有楽町は、開港場として異国の文化を吸収しながら発展してきた横浜と京浜電車でつながった。これによって文明開化の趣はさらに加速したが、昭和に入る頃から劇場街という新たな顔を持つようになる。

有楽町駅界隈が劇場街として発展するきっかけを築いたのが、阪急電鉄の総帥・小林一三だった。小林は宝塚歌劇団を結成し、それを鉄道事業とコラボさせることで新たな鉄道需要を生み出した。小林は阪急の総帥だけあって、その地盤は関西にあった。しかし、私鉄のビジネスモデルを編み出したことから財界の風雲児となり、渋沢が生涯最後の事業に位置づけていた田園調布を手伝う形で東京の地歩を築く。


「今日は帝劇、明日は三越」のキャッチコピーでも一世を風靡した帝国劇場。ただし、帝国劇場の取締役で脚本家でもあった益田太郎が作詞した歌謡曲「コロッケの唄」は「今日は三越、明日は帝劇」と並びが逆の歌詞になっている(筆者撮影)

関西では鉄道事業で大成功を収めた小林は、東京では一転して宝塚歌劇団をはじめとするエンターテインメント事業を興していく。その第一歩が東京宝塚劇場(現・東宝)だった。小林は1934年に帝国ホテルの隣接地に東京宝塚を、次いで日比谷映画劇場をオープンさせた。翌年には有楽座を開場。経営難だった日本劇場も東宝の経営とした。さらに1940年には、経営不振に陥っていた帝国劇場を東宝系列へと組み込む。こうして、有楽町は関西の鉄道王たる小林の手によって劇場街へと変貌を遂げた。

地下鉄開業で交通の要衝に

有楽町の劇場街化は戦後も続き、1963年には日生劇場がオープン。日生劇場は、その名前からも想像できるように日本生命が手がけた劇場だが、当時の社長だった弘世現は近畿日本鉄道の取締役を務めるなど、鉄道とも縁があった。

それまで劇場街へのアクセスは有楽町駅しかなかったが、1964年に営団地下鉄日比谷線、1971年に千代田線、さらに翌年には6号線(現・三田線)の日比谷駅が次々と開業。1972年には有楽町線の有楽町駅も開業し、一気にアクセスが向上する。駅名こそ異なるが、有楽町駅と日比谷駅は近接しており、地下鉄は日比谷駅と有楽町駅間で連絡運輸を実施している。ほぼ同一の駅と言っていい。

有楽町駅前は、その後も新陳代謝を繰り返して今に至る。最近は日比谷方面にも再開発の波が広がり、JR東日本都市開発による日比谷OKUROJIや三井不動産による東京ミッドタウン日比谷といった商業施設も誕生した。

明治前半から文明開化と国際親善という国家的使命を背負い、明治後半からは政治の中枢機能が集積。そして、いまも日本屈指の繁華街としてにぎわう銀座の玄関機能を担う有楽町駅は2021年6月25日に、開業111周年を迎えている。