どんな無理でも通してみせる!戦国時代、武田信玄に仕えた武士・縄無理之助

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戦国時代、激しい戦いの打ち続く乱世にあって、生き残るためには知勇の軍略は元より、自分自身のブランディング(ある種のハッタリ)も大いに有効でした。

※「日ごろはパッとしないけど、ここ一番で実力を発揮する」というタイプはフィクションだとカッコいいのですが、そもそも無用の喧嘩を吹っかけられないに越したことはなく、いざ戦うにしても相手を気圧したり、周囲を味方につけたりなど有利に運びます。

とかく「ナメられたら終わり」を地で生きていた戦国武将たちは、奇抜ないでたちや豪胆な振る舞いを競うようになり、これが後に「傾奇者(かぶきもの)」文化につながっていくのでした。

見るからにキャラが濃そうな武田家中の名将たち。土佐光貞「武田二十四将図」より。

こと「甲斐の虎」と恐れられた戦国大名・武田(たけだ)家中にはこうした偏屈者が集まったそうで、今回はそんな一人である縄無理之助(なわ むりのすけ)こと那波宗安(なわ むねやす)のエピソードを紹介したいと思います。

「我が無理を止めることならぬ!」縄の陣羽織がトレードマーク

那波宗安は生年不詳、上野国那波郡(現:群馬県伊勢崎市辺り)の領主・那波駿河守顕宗(するがのかみ あきむね。天文17・1548年生まれ)の子と言われます(諸説あり)。

しかし、それだと活動年代が合わないため、顕宗の父である那波刑部大輔宗俊(ぎょうぶのたいふ むねとし)の子か、あるいは顕宗と同年代の親族とも考えられます。

さて、那波一族は永禄3年(1560年)に「越後の龍」こと長尾景虎(ながお かげとら。後の上杉謙信)の関東出兵に際して所領を追われてしまい、まだ元服したかしないかの宗安は、武田信玄(たけだ しんげん)の元へ仕官しました。

「ふむ、見どころがありそうじゃ」

「お取り立て下さった御恩に報いるため、いかなる無理でも通して見せましょうぞ!」

と意気込んだ宗安は、荒縄を編んだ陣羽織を特注し、いつもそれを着用していました。繊維がゴワゴワして、とても不快そうです。

荒縄で作った陣羽織の着心地はきっと最悪(イメージ)。

「何ゆえ、左様なモノを召されるのか」

家中の朋輩がそう訊いたところ、宗安はドヤ顔で答えます。

「それがしは御屋形様に『いかなる無理でも通して見せる』とお約束いたした。そこで『縄を全身にまとわせようと、我が無理を止めることまかりならぬ』ことを示すのじゃ」

那波の名字と縄をかけたダジャレ……以来、宗安は「縄無理之助」と名乗ります。しかし大言壮語をするだけあって武勇については確かなもので、数々の合戦で武功を上げ、周囲を感嘆せしめました。

「道理之助と名乗るがいい!」花沢城攻めでの不覚

かくして縄無理之助となった那波宗安ですが、信玄が駿河国(現:静岡県東部)へ進攻した永禄13年(1570年)。花沢城(現:焼津市)を攻める先鋒として矢玉を掻い潜り、城門へと肉薄していました。

一緒にいたメンバーは、信玄の御曹司・諏訪四郎勝頼(すわ しろうかつより)はじめ、長坂長閑斎(ながさか ちょうかんさい。光堅)、諏訪越中守(すわ えっちゅうのかみ。頼豊)、初鹿野伝右衛門(はじかの でんゑもん。昌次)。

奮戦する無理之助たち(イメージ)。

そして無理之助の5人であと一歩という処まで辿り着いたのですが、城壁からの弓勢(ゆんぜい。矢を射かける勢い)はよりいっそう凄まじく、二進(にっち)も三進も行かなくなってしまいます。

「さて、どうするか……」

このままでは埒が明かない……攻めあぐねる一同でしたが、伝右衛門が城門にぶら下がった鎖を見つけ、無理之助に言いました。

「おい、あの鎖を槍先で引っかけられるか?」

「この激しい矢玉の中で、そんなことをすれば蜂の巣にされちまう。出来っこねぇよ」

そもそも、槍先で鎖を突いたところで戦況が好転する訳でもなく、単なる遊び。命を賭けて強行するほどの価値はありません。

「ほぅ、無理か?……じゃあ、ちょっと見てろよ」

言うが早いか伝右衛門は身を乗り出して敵の矢玉を掻い潜り、槍先で鎖を引っかけたと思ったら、大急ぎで戻って来ました。

「これは面白い。ならばそれがしも」

伝右衛門の豪胆に触発されて今度は越中守が飛び出していき、同じように成功させます。

「……」

無理之助が唖然としていると、伝右衛門と越中守が掴みかかって縄の陣羽織を奪いとってしまいます。

「何をしやがる!」

「この程度の無理も出来ずに、何が『無理之助』なものか。今後は『道理之助』とでも名乗るがよいわ!」

「ははは、左様々々……」

「……うぬら、言わせておけば!」

かくして3人は眼前の敵などそっちのけで大乱闘を始めてしまい、勝頼と長閑斎に仲裁されてようやく収まったということです。

エピローグ

やがて花沢城は攻略されましたが、無理之助にとっては苦い失点となってしまいます。

その後、無理之助は汚名を雪ぐためによりいっそう武勇を奮い、最期は天正3年(1575年)長篠の合戦で壮絶な討死を遂げました。

鳶巣山砦の攻防戦で討死する無理之助(イメージ)。

現代の価値観で見れば「敵前での度胸試し」という何の合理性もない行為に命を賭けるのは愚行以外の何物でもありませんが、武士たちにしてみれば、その瞬間こそまさに「生の輝き」であり、後世に残したい名誉だったのでしょう。

こうした偏屈者たちの不器用さはどこか憎めず、何かと生きにくさを感じている現代人の心に、風穴をあけてくれるように思えてなりません。

※参考文献:
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年1月
土橋治重『甲州武田家臣団』新人物往来社、1984年4月
丸島和洋『戦国大名武田氏の家臣団 信玄・勝頼を支えた家臣たち』教育評論社、2016年6月