源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【六】

写真拡大 (全7枚)

前回のあらすじ

時は平安末期の治承四1180年、20年の雌伏を経て平家討伐の兵を挙げた源頼朝(みなもとの よりとも)でしたが、石橋山の合戦で惨敗。御家人たちと散り散りになって、命からがら脱出します。

頼朝の義弟・北条義時(ほうじょう よしとき。小四郎)は再起を期して父・北条時政(ときまさ)と共に甲斐国(現:山梨県)へ赴き、武田信義(たけだ のぶよし)の軍勢を連れて頼朝と再会。

徐々に勢力を拡大する頼朝たちを看過できぬと見た京都の平清盛(たいらの きよもり)は、嫡孫・平維盛(これもり)を総大将に頼朝討伐軍を編成。かくして源平両軍は富士川を挟んで対峙するのでした。

前回の記事

主従そして兄弟の再会

「おぉ、舅殿。大儀であったな。それに小四郎も」

「「ははぁ。佐殿もご無事で何よりにございまする」」

「三郎(義時の兄・北条宗時。討死)のことは無念であったが……」

「いえ、今は大戦さの前なれば、敵の首級をこそ手向けましょうぞ」

にらみ合う源平の両軍。歌川国芳「源平盛衰記 駿河国富士川合戦」より。

「……そうだな」

再会を喜ぶ頼朝主従の元へ、土肥次郎実平(どい じろうさねひら)がやって来ました。

「佐殿。表で怪しい若者が面会を求めておるのですが……」

聞けば年のころは二十歳前後で容姿は云々、20名ばかりの供を連れているとの事でした。

「いかが致しましょう。追い返しますか?」

「いや……もしかして、以前に平家の追手を逃れて奥州で匿われていた弟の九郎では……?」

此度の挙兵を聞いて、加勢に駆けつけてくれたんだきっと……そう確信した頼朝でしたが、生き別れた時点(平時元1160年)で赤ん坊だった弟がどのように成長したかなんて分かるものなんでしょうか(まぁ、後世の演出でしょう)。

果たして面会してみると確かに弟の九郎で、今は元服して源義経(よしつね)と名乗っていました。

「兄上!微力ながら助太刀に参りました!」颯爽と現れた九郎義経。

「兄上、この日をずっと心待ちにしておりました」

「我もまた思いは同じ……共に平家を討ち滅ぼし、父上(平治の乱で命を落とした源義朝)の仇をとろうぞ!」

「はい!」

手を取り合う兄弟の様子は、かつて奥州征伐(後三年の役。永保三1083年〜寛治元1087年)で遠路はるばる兄・源義家(よしいえ。頼朝の高祖父)の加勢に駆けつけた源義光(よしみつ)を彷彿とさせる感動シーンだったと伝わります。

ちなみに、義経が引き連れていた20名という人数は軍記物語『源平盛衰記』によるもので、『吾妻鏡』では義経一人だけとされており、その場合、義経は一の家来として有名な武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい)をはじめ、家来たちとまだ出会っていなかったか、あるいはついて来てくれなかったことになります。

※もしかしたら、ちゃんとついて来ていたけど、遠慮して(あるいは警戒されないよう)面会が許されるまで、どこかに控えていたのかも知れません。

こうして準備万端整った源氏の軍勢は、いよいよ平家との決戦に臨むのでした。

敗走する平家軍を追撃したい頼朝だが……

そんな治承四1180年10月20日、平家の陣中で異変が発生しました。

「ん、何だか騒がしいな……?」

混乱しているようにも見えますが、なにぶん闇夜でみだりに動くのは危険なので、様子を窺いながら夜明けを待ち、敵陣を探ってみると、もぬけの殻となっています。

「何か策があるようにも見えないが……」

実は昨夜、武田信義の軍勢が夜襲をかけようと平家軍の背後へ回り込もうとしていたところ、うっかり水鳥を驚かせてしまい、驚いた水鳥の群れが一斉に飛び立ちます。

「すわっ、敵襲だぁ!」

「わぁ、えらいこっちゃ」大混乱の平家軍。『平家物語』より

慌てふためいた一部の者が逃げ出すと、かねて源氏の大軍に怯みがちだった平家の軍勢は、完全包囲されると思って我先に逃亡。一人の恐怖が十人に伝わり、それがまた百人に伝わり……そして誰もいなくなったのでした。

「ははは!水鳥の羽音に恐れをなして逃げ出しおったわ!」

永年の貴族暮らしですっかり腑抜けてしまった平家など、もはや恐れるには足りない……この大勝利に勢いを得た頼朝は、このまま東海道を驀進して、京都まで攻め上がろうとはしゃいでいます。

「ようし!このまま一気に上洛して、平家一門ことごとく……」

おぅ!……血気盛んな義時もワクワクしましたが、そんな若武者たちに、宿老らが「待った」をかけます。

「お待ち下され……坂東にはまだ常陸国(現:茨城県)の佐竹(さたけ)らも敵対しておりますし、背後を衝かれ、鎌倉を奪われてしまっては元も子もなくなります。まずは坂東の勢力基盤を固め、上洛はそれからでも遅くはございませぬ」

いつの世も、若者はとかく派手なことをしたがるものですが、勢い余って足下をすくわれ、破滅していった者のいかに多いことか……それこそ、かつて坂東に覇を唱えて「新皇」を称したものの、足元の脆弱さゆえに滅ぼされた平将門(たいらの まさかど)のように。

かつて坂東に覇を唱えたが、基盤の脆さゆえに滅び去った「新皇」平将門。

いっときの勢いだけではダメなのです。もしこの進言を聞き入れなければ、頼朝は京都で討死したか、あるいは御家人たちに見放されていたことでしょう。

上洛したい頼朝と、坂東に根を張りたい御家人たち

「……相分かった。なれば坂東の地固めと参ろうぞ」

幸いにして進言を聞き容れた頼朝は鎌倉へと引き揚げて行きましたが、実は御家人たちの狙いは別のところにありました。

「坂東に、武士の別天地を築きたい」

と言っても、別に朝廷に叛逆する訳ではなく、京都とほどよい距離感を保ちながら、自分たちだけで、なるべく気ままな暮らしができないものか……そんなことを考えていたようです。

「ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ。タダ坂東ニカクテアランニ、誰カ引ハタラカサン」

【意訳】なんでそんなに朝廷ばっか気にするんだ。坂東にいれば、誰も佐殿をこき使うようなこともなく、自由気ままに暮らせるのに……。

独立自尊の気風が強く、絶対権力が生理的に嫌いな坂東武者の一人・上総介広常。将門の子孫でもある。

これは御家人の一人・上総介広常(かずさのすけ ひろつね)が頼朝の上洛を諫める発言ですが、これこそが「坂東で自由に生きたい」という御家人たちの願いを端的に表すものでした。

武士はその発祥より百年来、ずっと公家たちの地下人(じげにん)として低く扱われ、朝廷の権威を求めて見苦しく寸土(すんど。わずかな土地)を争い、殺し合って来ました。もう、そんな暮らしは止めにして、自由にのびのび暮らしたい。

早く(自分の生まれ故郷である)京都に上り、朝廷の権威に基づく「武家の棟梁」として天下に号令したい頼朝に対して、坂東に根を張って、朝廷の干渉を受けない「武士の別天地」を夢見た御家人たちの違いが、後に義時たちをして「武士の世」を真の意味で築かしめる原動力となったことでしょう。

【続く】

※参考文献:
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』洋泉社、2012年8月
細川重男『執権 北条氏と鎌倉幕府』講談社学術文庫、2019年10月
坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』中公新書、2018年12月
阿部猛『教養の日本史 鎌倉武士の世界』東京堂出版、1994年1月
石井進『鎌倉武士の実像 合戦と暮しのおきて』平凡社、2002年11月