悪しき因習「村八分」その内訳と、維持しなければならない残りの”二分”って何?

写真拡大 (全4枚)

「解っているんだろうな?そんな事をしたら、お前を村八分にするからな!」

特定の者を集団で疎外することを村八分(むらはちぶ)と言いますが、疎外するなら八分(80%)と言わず、十分(100%)まるごと絶交すればいいのに、ちょっと中途半端な気もします。

残りの二分(20%)は、どうしても維持しなければならないつき合いなのでしょうか?そもそも八分の内訳は?そんな疑問について紹介したいと思います。

どうしても維持しなければならない「二分」のつき合いと、それ以外が全て「八分」

まず、村八分と聞くと「全部で十分あるつき合いのうち、八分を絶つ」というイメージを持つかと思います。

みんなで協力して、みんなで生きていく。

しかし、村社会における人つき合いは、日常のあいさつや農作業(田植えや収穫、害虫駆除など)の助け合いをはじめ、冠婚葬祭、出産や病気の世話、家屋の修繕(災害復旧や屋根の葺き替えなど)、更には入会地(いりあいち。共有山林など)の利用や管理など実に様々で、また互いが密接に関連することも多く、これらをキッチリ十分で量るのは難しそうです。

実際的には「どうしても維持しなければならない二つ」を(便宜上)二分と見なし、残りすべてを八分(十分マイナス二分)と解釈した表現なのでしょう。

それでは、その「どうしても維持しなければならない」二分が何かと言いますと、多くの方が思いつく通り「火事(消火活動)」と「葬儀(死体の埋葬)」になります。

いくら仲が悪いからと言って、火事を放っておけばどんどん燃え広がって被害が拡大してしまうリスクがありますし、どんなに憎たらしい人間でも、その死体を放置しておけば腐敗が進んで悪臭はもちろん、疫病が発生・蔓延する原因となってしまうからです。

それ以外「手を貸さなくても、事態を放置しても自分たちに被害が及ばない」ほとんどの事柄については、村ぐるみで協力を拒否するのが村八分となります。

江戸時代に生まれた(比較的)新しい言葉

ちなみに、この村八分という言葉は江戸時代に生まれたらしく、江戸時代の作家・曲亭馬琴(きょくてい ばきん)は『随筆 兎園小説別集』で「八分するorされる」という言葉について、このように言及しています。

曲亭馬琴。Wikipediaより。

「この俗語、ふるくは聞えず。寛政のはじめより、やうやく耳にふれしを、今は鄙俗の常談となれり」

八分する、八分されるという俗語は寛政年間(西暦1789〜1801年)ごろから使われ始め、十数年以上が経った文政年間(西暦1818〜1831年)になって定着したそうで、当時としては一種の流行語として見られていたようです。

また「ハチブ」の語源には村八分以外にも、撥撫(バチでなでる=ぶっ叩いて追い払う意)や蜂吹(ハチにぶっ刺されぬよう、みんな恐れて遠ざかる。あるいはハチのように集団で獲物を襲う様子)など諸説あり、恐らくどれが正しいと言うよりも、各地で同時発生的に使われ始めたものと考えられます。

終わりに

現代でも「ハブ(八分)にする」とか、検索エンジンに表示されなくなる「Google八分」など、時代によって形を変えながらも使われ続ける村八分。

日ごろ「いじめはよくない」と言いながら、同じ舌で陰口を叩き、弱い者同士が結託してさらに弱い者をいじめ、疎外する習性は、果たして人間の業なのでしょうか。

古き良き精神を次世代へ伝承していく一方で、こうした悪しき因習については、根絶解消の努力が求められます。

※参考文献:
小学館『日本国語大辞典』小学館、2001年11月
滝沢馬琴『兎園小説別集 八十翁疇昔話 牟芸古雅志 雲萍雑志 閑なるあまり』吉川弘文館、1974年1月