「型どりしたものが好きなんです。本物よりレプリカの方が好きなくらい」

押井守監督を総特集した書籍「押井守全仕事」(キネマ旬報社、P10 1996年刊)の「押井守の私的空間コレクション」にて、押井守監督は上記のように語っています。

押井監督の部屋には、化石のレプリカなどがたくさんあるそうで、そのレプリカ好きは自身の身体にも及んでおり、「今まで歯を抜く毎に、必ず自分の歯型を取って保存して」いるそうです(同誌、同ページ)。

一般的には複製品であるレプリカよりも本物の価値が重んじられます。押井監督のレプリカへの愛はとても珍しいものと言えるでしょう。そしてそんな彼の感性(レプリカ愛)は、彼の作風やテーマにも影響を及ぼしているのではないでしょうか。

1995年に公開された押井守監督によるアニメーション映画『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』。本作は全身義体という「身体のレプリカ」を持った人間と、ネットワークの中で生まれた魂という「人の心のレプリカ」のような存在とのラブロマンスと言えるかもしれません。

現在はテクノロジーの発達によって、ネットの中にも精巧なレプリカがたくさん存在する時代になったわけですが、こうした状況やそれに対する問いを20年以上も前から発見していた(原作自体は30年前の作品)のは、押井監督のレプリカ趣味が影響していると見ることができます。

その後の我々が生きる社会を予見したかのような『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』は、当時の社会をどのように反映し、そして次なる未来を描いたのかを中心に考察してみたいと思います。

映画『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』あらすじ

西暦2029年、身体を機械によって義体化し、脳を直接電子ネットワークに接続する技術が確立された近未来。サイバーテロや電脳ハックなどに対抗する超法規特殊部隊「公安9課」を率いる草薙素子は、「人形使い」と呼ばれる国際手配された凄腕のハッカーが日本に来ているという情報を掴み、捜査を開始する。

政府御用達の義体メーカーの製造ラインに侵入した人形使いは、自らを情報の海(電子ネットワーク空間)で生まれた、肉体を持たない生命であると主張し、生命体として政治的亡命を要求する。

素子は、そんな人形使いの存在に惹かれ、捕らえた後に人形使いの電脳にダイブ(アクセス)したところ、人形使いから自分と一体化しないかと提案を受ける……。

※以下、映画『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』のネタバレを含みます

1995年という時代

写真提供:神戸市

押井監督は公開当時の『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』のプレスシート(マスコミ向けの資料)の中で、「(士郎正宗さんの)原作が、ある種の予感として、いま語るに相応しい世界だと感じていた」と書いています。

1995年に公開された当時、なぜこの作品が「いま語るにふさわしい」ものだったのでしょうか。
  
1995年といえば、20世紀末の日本。大きな事件の多い年でした。阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件などが発生。世紀末を迎える漠然とした不安、バブル経済が終焉し、出口の見えない不況に入り、明るい未来を描くことが難しい時代に突入していました。

本稿は社会批評ではないので深い分析は避けますが、この頃の日本社会は総じて、現実社会に希望を見いだせなくなった時代と言えるでしょう。

写真提供:神戸市

だからと言って絶望的なディストピアというわけでもない。社会学者・宮台真司氏の言葉を借りて言えば、「ヌルい日常が終わりなくつづく」ような感覚の時代だったと思います。それは、ヌルいと同時にどこに行っても、どこまで行っても日常の延長の世界、転じてそれは「どこにも行けやしない」という感覚を生み出していました。

そして、そのような時代にマイクロソフト社からWindows 95が発売され、爆発的ヒット。ここからPCを持つのが当たり前の時代となり、やがてインターネットが常識化していきます。PCの向こうに広がるサイバースペースは、最後のフロンティアのように当時は感じられていました。筆者が初めてインターネットを自宅に敷いたのは1999年でしたが、猛烈にウキウキしたのを覚えています。

インターネットが一般化するきっかけになった年に公開された『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』は、そんな電脳世界への憧れと畏怖の感情が共存しているような作品です。

全身義体で脳を直接ネットワークに接続する技術のおかげで、飛躍的な利便性と身体能力を手にしている主人公・草薙素子。彼女は自分が人間なのかどうかという実存への不安を抱えており、暗い夜の海に潜ることでその不安と向き合っています。

全身サイボーグという重い身体を持ちながら海に潜るのはどんな気分なのかと、バトーが素子に問いかけるシーンがあります。素子は「恐れ、不安、孤独、闇。それから、もしかしたら希望」を感じるのだとそれに答えています。

レプリカの肉体を持った彼女は「身体だけでなく、自分の脳もどうして自分のものと言えるのか」とバトーに問いかけます。そして自らが「電脳世界で誕生した魂」だと主張する人形使いと一体化し、肉体を捨て電脳世界で生きることを選ぶのです。

肉体は魂の牢獄である

ギリシャの哲学者プラトンは「肉体は魂の牢獄である」と述べました。この古代ギリシャの哲学的な命題と、最新鋭のテクノロジーによって直面する人間の実存の問題をクロスさせた点が、本作の出色な点です。


  
プラトンは、「イデア」という現実とは異なる「本来あるべき理想像」の世界があるのだと説きました。現代の人類はその理想世界に対して、哲学ではなくテクノロジーでアプローチしていると言えるでしょう。『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』は、来るべきインターネット全盛時代の哲学を先取りした作品なのです。

冒頭のフレーズが示すもの

企業のネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても、国家や民族が消えてなくなる程 情報化されていない近未来

映画も、原作マンガもこのフレーズから始まります。筆者はこれほど現代を的確に表した「詩」をほかに知りません。

確かに、我々の社会は企業が提供するネットに、先進国から貧しい途上国、紛争地帯に至るまでネットの光が駆け巡り、国家や民族、人種問題で日々衝突しあっています。「攻殻機動隊」シリーズもまた、そうした諍(いさか)いに巻き込まれたことがあります。
  
2017年に公開された実写版ハリウッド映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』の主演はスカーレット・ヨハンソンが担当しました。そこで、白人の彼女が主演することに対して批判が起きました。いわゆる「ホワイトウォッシュ」(白人以外の役柄に白人俳優が起用されること)であると言われてしまったわけです。

近年は、映画に登場する人種構成を多様化する動きが活発になっていますが、本作の実写プロジェクトも批判にさらされたわけです。

多様性が保証されることは重要なことですし、その事自体の是非はここでは議論しませんが、この批判が起きたことが示すのは、たしかに現代社会は「国家や民族が消えてなくなる程情報化されていない」ということのように感じられます。

つまり、極めて人種・民族的な理由で批判が起きたことが「国家や民族が消えてなくなっていない」という事実を如実に物語っているのです。

草薙素子が旅立った電脳世界に人種という概念はないでしょうし、そもそも彼女の身体はサイボーグであり、現在は生まれた時の肌の色も何もないわけです。日本で誕生した作品なので、黄色人種の義体を使っているわけですが、それは入れ替え可能な入れ物にすぎないわけです。人形使いにいたっては、電脳世界で生まれた生命ですから、肉体や性別すらない存在と考えられます。

情報化社会の発達は、国家や民族の垣根を払うどころか、むしろ逆に過剰に依存する人間を増やしている可能性があるのかもしれません。

イスラム原理主義者の台頭や経済力を基盤にした中国の独裁、アメリカの低所得者の支持を大きく集めて当選し、移民排斥を唱えるトランプ大統領の誕生など、こうした動きを見ていると、情報化は国家や民族を消すどころか、むしろそれの概念を強化してしまっているのではないかという気さえしてきます。

「ネットは広大だわ」

草薙素子は映画の最後にこう呟きます。1995年当時は、広大なネットの世界を“最後のフロンティア”として夢見ることができていたでしょう。しかし、果たして今はどうでしょうか。

2019年に生きる我々はネットを広大だと感じることができているでしょうか。それとも、国家や民族という垣根が消えてなくなるほどに情報化が進めば、再び広大さを感じることができるようになるのでしょうか。

本作の素子と人形使いだけが到達した世界に、現実社会の我々は果たしてたどり着けるのか。

レプリカが本物を凌駕する時代へ

ゲノム解析が進めば、人間の肉体を全て再現できるようになる日がくるのかもしれません。そんな時代になった時、本物の肉体と作りものの肉体の差異は消滅するでしょう。もはや本物かレプリカか、という議論は意味がなくなるのかもしれません。

自然に生まれたものを本物と定義し、科学で創り上げたものをレプリカとするなら、レプリカが本物を凌駕する時代が間違いなく近づいてきています。

『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の示した世界は、今後のテクノロジーの発展を占う意味でも多くの人にインスピレーションを与えていくでしょう。1995年の時点でこうした感性を有していた押井守監督には感嘆せざるを得ません。

人間ではなく人間に親しいもの、サイボーグの身体や電子空間で生まれた魂を描くことによって、人間の存在の本質に迫るという発想は「レプリカの方が好きだ」という押井監督の感性のたまものではないでしょうか。

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