意見が食い違うとビンタが飛び交うなど凄絶な父娘ゲンカを繰り広げた田中角栄だったが、溺愛する一人娘を良妻賢母として育てようとの思いは変わることがなかった。ために、女優の道を進んだ真紀子を一刻も早く辞めさせ、「家庭の人」たるに焦りを生じたようであった。優秀な中央官庁の役人との結婚話などを、打診した形跡もあったのである。

 そうした中に、アメリカ留学中の真紀子に、のちに外務大臣や自民党総裁になる河野洋平とのロマンス話もあった。洋平の父は、当時、田中が所属した佐藤(栄作)派とライバル関係にあった農林大臣の河野一郎であり、洋平は商社マンとしてカルフォルニアのスタンフォード大学で研修留学をしていた頃である。古い政治部記者のこんな証言が残っている。
「佐藤派の屋台骨を背負っていた田中が河野一郎と手を結ぶことになるのを佐藤栄作が嫌い、その妻・寛子が田中のもとに他の縁談話を持ち込んだりしていた。大体、その頃、真紀子は留学先で恋心を抱いた新聞記者がいたこともあり、寛子夫人のこうした動きに猛反発、『当方勉学多忙につき(結婚話などの)邪魔は無用』と相手にしなかったと言います。洋平とは現地で会うことはあったものの、それ以上の進展はなかった」

 そのアメリカ留学から帰国後、真紀子は早稲田大学商学部に入学、学内の演劇サークル『こだま』に入る一方、プロの劇団『雲』にも入団して女優を志す中、こんどは一気に結婚話が進んだ。真紀子が大学を卒業した翌年の昭和44年(1969年)の春、現在の夫、田中直紀とのそれである。時に、田中は自民党の有望株として「日の出の勢い」とされた幹事長。真紀子25歳、直紀28歳であった。ここに至るまで数々の父娘の愛憎劇を繰り広げた田中にとっては、真紀子という「敵」と長らく向かい合ってきたものが、初めて手を握り合うことができた“安堵”の瞬間でもあったのだった。直紀の父は参院議員1期、旧〈福島3区〉で衆院議員2期を務めた鈴木直人であった。

 しかし、この結婚はここでも田中ペースとはいかなかった。理由は、大きく二つあった。

 一つは、田中としては一人息子の長男・正法を早く亡くしていることから、田中の姓を絶やすことはできないとして直紀の“婿入り”に固執したことだった。

 二つは、直紀の政界入りに反対したことだった。当時、直紀は日本鋼管のサラリーマンであり、田中としては常に当落のはざまに立たされる政治家より、真紀子が安定した職業の妻であって欲しいとの思いが強かったからだ。

 だが、鈴木家では、直紀を、将来、政治家として直人の跡を継がせたいとの思いが強く、ために“婿入り”には、断固、反対姿勢を崩さなかった。真紀子自身は政治家の妻たるには極めて消極的だったが、一方で「鈴木姓として嫁に行く」と直紀の“婿入り”には反対、前者で父娘の対立となったのだった。

 この“婿入り”問題は、結婚式の当日までもつれ込んだ。田中が、跡継ぎ問題でいかに悩んでいたかが分かるのである。

★号泣、絶句する角栄
 結局、この懸案はそのままに直紀の勤務先の日本鋼管の赤坂武社長が仲人となり挙式、披露宴はホテル・オークラで行われた。しかし、田中はなお挙式直前まで直紀の“婿入り”に固執、式場の別室で直紀に、最後の談判に及んだのである。ここで、ようやく直紀は「よろしくお願いします」と頭を下げたのだった。この背景について、当時の政治部記者の次のような憶測があった。

 「田中は鈴木家と昵懇だった佐藤栄作首相(当時)、赤坂社長らにも根回しして“婿入り”を頼んだとも言われている。結局、鈴木家も呑まざるを得なかったようだ。ただし、直紀のやがての政界入りは田中が呑ませたとされる。“婿入り”について、真紀子は『(田中の)陰謀じゃないの』とも言っていたそうです」