品川駅で出発を待つ貸し切りイベント列車「京急ヒャッハートレイン」。「修羅の国」へ向かうはずだが、ホーム上はほのぼのとした雰囲気に包まれていた(記者撮影)

「このヒャッハートレインはなぁ、ヒャッハー!の叫び声で動かすんだ。乗り込んだ以上、全員ザコになってヒャッハー!してもらうから覚悟しろ」――。晴天に恵まれた8月11日朝、京浜急行電鉄が品川駅から運行した貸し切りイベント列車の車内には「ザコ車掌」を名乗る男のアナウンスが響き、異様な盛り上がりをみせていた。

スタッフも参加者も全員が「ザコ」

イベント列車は、今年2月に創立120周年を迎えた京急電鉄と、1983年から「週刊少年ジャンプ」に掲載された漫画「北斗の拳」(原作・武論尊、漫画・原哲夫)の35周年を記念したコラボレーション企画の一環として実施した。


「ザコ」に踏みつけられて喜ぶ参加者(記者撮影)

「ザコと行く三浦海岸!京急ヒャッハートレイン」と名付けた列車には、事前にホームページで募集した約100人が参加した。車両は北斗の拳のキャラクターを側面にあしらった「新1000形」(8両編成)のラッピング電車を使用。参加者は約25人ずつ4両に分かれて乗車した。ほかに2両の特別車両を設け、記念撮影を楽しめるよう、座席から窓、天井に至るまでこの日限定の装飾で埋め尽くした。

「ザコキャラ」の装いに身を包み、車内のイベントを取り仕切ったのは、昨年9月上演の舞台「北斗の拳―世紀末ザコ伝説―」に出演した「劇団ザコ」の面々だ。北斗の拳の登場人物のなかでも、あっけなく殺されるような名もないザコキャラにスポットライトを当てた作品で、今回のイベント列車にはこのザコの矜持(きょうじ)が引き継がれている。


走行中の車内で「カルトクイズ」を開催(記者撮影)

「世紀末だから食料は貴重だ。ありがたく食うんだぞ」――。劇団ザコのメンバーは、荒い言葉を放ちながらも、参加者との記念撮影や、北斗の拳に関する「カルトクイズ」、軽食の配布と次々にこなし、三浦海岸駅に到着するまでの約1時間、揺れる列車内でイベントを盛り上げた。

京急電鉄によると、参加者はファン層を反映し、40代の男性が最も多かった。ひときわ盛り上がりを見せた7号車はひとりで参加した「筋金入りのファン」(同社)たちで占められ、北斗の拳への思い入れの強さが際立っていた。ある男性はザコに踏みつけられた(ように見える)ポーズで、満面の笑顔で写真に収まった。

「かぁまたたたたーっ駅」は9月まで


京急蒲田駅の駅名看板。多くの利用者が足を止めて写真を撮っていた(記者撮影)

7月30日から9月17日まで開催する京急と北斗の拳のキャンペーン期間中、沿線でさまざまな仕掛けが用意されている。特に話題を呼んでいるのは駅名看板の変更だ。京急蒲田駅は「京急かぁまたたたたーっ駅」、上大岡駅は「上ラオウ岡駅」、県立大学駅は「北斗の拳立大学駅」と駅の入り口に掲げる看板を期間限定で北斗の拳にちなんだものに衣替えした。


上大岡駅(上)と県立大学駅(下)の駅名看板(記者撮影)

京急蒲田、羽田空港国際線ターミナル、小島新田、京急川崎、上大岡、県立大学、三浦海岸の7駅を北斗七星の形に見立てて巡るスタンプラリーも実施している。スタンプラリーきっぷは大人税込み2000円、小児1000円で、京急線でもめずらしく全線(品川―泉岳寺間を除く)が1日乗り降り自由となるのが売りだ。北斗の拳のファン世代の父親が、夏休みの子どもを連れて参加することを狙ったという。8月27日時点で用意した大人用2000枚のうちの7割程度が売れる好調ぶりだ。

京急はこれまでにも人気キャラクターとのコラボ企画を実施してきた。たとえば、今年3月5日から5月13日にかけて実施した「リラックマ」のキャンペーンでは、京急久里浜駅は「京急リラッ久里浜駅」、上大岡駅は「上がお大岡駅」、大鳥居駅は「大キイロイ鳥居駅」と、駅名看板のデザインを変更。今回同様、1日限定の貸し切りのイベント列車も運行した。

ただ、今回の北斗の拳とのコラボ企画は、ファン層が一定年齢以上の男性が中心で「万人受け」とは言えそうにないだけに、社内でも心配の声があったようだ。貸し切り列車に乗り込んだ同社幹部はキャンペーンについて「ほんわかしたリラックマとはまったく違うので利用者の反応を心配したが、駅名看板などが思った以上に好意的に受け止められた」と胸をなで下ろしていた。

北斗の拳の知識なかった」担当者


企画を担当した伊藤麻衣さん(左)。5月の京急ファミリーフェスタでは制服姿で来場者を案内した(記者撮影)

暴力が支配する世紀末の殺伐とした乱世、という北斗の拳の舞台設定とは対照的に、京急グループ内での準備は入念かつ、和気あいあいと進められたようだ。

今回のキャンペーンを担当した京急電鉄・営業企画課の伊藤麻衣さんは「もともと漫画を読んだことも、アニメを見たこともほぼなかった」と明かす。駅名看板をはじめ、キャンペーンの内容を話し合う初めの段階で「かぁまたたたたーっ、とつぶやいてみた」ことがきっかけで担当に決まったそうだ。そこから北斗の拳について勉強を始めた。

「周りからアイデアをもらいながらも、知識がなさ過ぎるのでコミック全18巻を買いました。経費ですけど」


駅のポスター。ケンシロウが着る制服のボタンは北斗七星をかたどった(記者撮影)

「京急かぁまたたたたーっ駅」の看板を表に掲げることになる京急蒲田駅の駅長に説明した際のことは「怒られたらどうしようと思っていたけれど、駅長が北斗の拳のドンピシャ世代で『これは面白い』と歓迎してくれた」と振り返る。これまで以上に奇抜な駅名看板は社内でも「面白ければいいんじゃないの」とおおむね好意的に受け止められたという。


スタンプラリーは吹き出しを埋めて完成させる(記者撮影)

関係者の中には北斗の拳の熱烈なファンもいて、名ぜりふをもじり「周年!!おれを変えたのは周年だ!!」「おまえはもう京急に乗っている!」といった、キャンペーン告知用のポスターやリーフレットに記載するコピーも生まれた。すでにコラボ企画の内容が固まった後でも「なぜこうしないんだ」とアイデアを提案してくるファンの社員もいた。


京急百貨店の地下食品売り場の「ひでぶ」まん(記者撮影)


発売日に完売した「駅名看板キーホルダー」(記者撮影)

これまでに京急が展開したキャンペーンをみると、グループを挙げて取り組む場合が多い。今回はそれが顕著に表れている。上大岡にある京急百貨店の地下食品売り場は、8月中「『ひでぶ』まん」(旨辛肉まん)、「『あべし』揚げ」(唐揚げ)、「『たわば』丼ぶり」(三元豚の黒豆いため)といったオリジナル商品を用意した。駅構内のコンビニを運営し、京急のオリジナルグッズを扱う京急ステーションコマースは、京急かぁまたたたたーっ駅をはじめとする3駅の「駅名看板キーホルダー」を発売するなど商売熱心だ。

駅名看板キーホルダーは8月1日に各600円(税込み)で500個ずつ販売を開始したところ、インターネット通販の「おとどけいきゅう」を含めて即日で完売した。8月28日に各600個を追加販売したが、同日中にほぼ売り切れた。

「ヒャッハー!」を支える慎重さ

一方で、企画の実施にあたっては鉄道会社らしい慎重さも欠かさない。駅名看板やポスターなどのデザインについては「子ども連れをはじめ皆さんの目に触れる場所なので、出血などの暴力的な表現は避けた」(伊藤さん)。


特別な装飾を施した車両で張り切る劇団ザコのメンバー(記者撮影)

イベント列車の運行に関しては、車内の限られた空間で動くため、事前に車両基地で実際に列車を使い、劇団ザコが「通し稽古」をして安全を確認するほどの念の入れようだ。当日も「席を動くときには吊り革につかまるよう、ザコなりの言い方で参加者に周知してもらった」(同社)という。通路にある吊り革は頭をぶつけないようにあらかじめ高いところで結ぶなど、細部にも気を配った。

一見すると大きく羽目を外したかのような「北斗京急周年のキャンペーン」。京急電鉄・広報部報道課の渡辺栄一さんは「鉄道の現場も新しいことや面白い企画を歓迎し、乗客が増えてコミュニケーションが生まれることに前向きでいる」と話す。

京急といえば、同業他社で機械化が進む中でも人の手による運行管理で、臨機応変な対応を実現していることで知られる。新しいことを受け入れやすい風土だけでなく、鉄道の安全運行に対して手を抜かないプロ意識の高さがあるからこそ実現したといえそうだ。